1杯目 1-1
―――― このひとときの物語を 最愛の人に捧ぐ ――――
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昔は夜の静けさや早朝、目覚める前の街が好きだった。
家や学校、人と人との付き合いが嫌だったわけじゃないけど、周囲に合わせるのはそれなりに気をつかうから。
自分のペースでいられる......そんな一人の時間が私らしくいられる心地のいい時間だった。
社会に出て、一人暮らしを始めて。
上司に、同僚に、取引先に。
今までの比じゃない複雑な人間関係と忙しさが1日、1日を塗り潰していった。
数少ない友達と呼べる人たちも同じように社会に飲まれていてすれ違う。
同期はあっという間に半分以下になり、1年後には私を含めて2人になっていた。
恋愛なんて考える余裕はなかったし、もし機会があっても家業のこともあって応じることはなかっただろう。
気づけば独りの時間が、寂しさに震える時間になっていた。
照明を消した部屋で、スマホの画面だけが明るく光って、知らない誰かの投稿を眺めても押しつぶされそうな孤独感は消えてはくれなかった。
数日後、私は知らない天井を前に目覚めることになる。
無断欠勤はありえないと、人事にかけあってくれたあの人には感謝しないと。
辞めていった同期たちの多くは無断欠勤からの自主退社だったから。
同じ扱いをされていたら目覚めることは無かったかもしれない。
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六道 無月 は、そこそこの道幅のけっこう急な坂道の途中で天を仰いだ。
今日が新しい職場の出勤初日だというのに幸先が悪い。
案内してくれるはずだった仲介の人は、急用だとかで来れないという。
事情は説明しておくから、多少遅れても構わないと言われても、初日から遅刻なんて気まずくてできない。
幸い、過酷な元職場で身に付いた早め行動のおかげで頑張れば間に合う時間だったが、目の前の坂が頑張る量をかさ増ししている。
無月はショートカットの黒髪をかき上げると丘の上を見上げた。
髪色は、再就職が決まったあと、話を聞きつけた妹たちにピンクアッシュやネイビーアッシュに染められかけたが死守した。
なんとなくだが、どちらも自分としてはしっくり来ないと無月は思ったのだ。
職場を見て、場違いなら考えなくもない。
なにせ飲食業は初めてで、右も左もわからない。
服装も制服があるからと、行き帰りが楽なジーンズにスニーカーを指定されたのは楽でありがたかった。
軽く上がった息を整える為、大きく吸い込んだ空気は、左右に広がる手入れのされた木々のおかげで清々しい。
目的地の坂の上のお店まで、まだ半分も登れていないが、ここはもう敷地内。
旧華族の別荘を改装したという話だったが、なるほどお金持ちは凄いなと思う。
庶民の感覚では駅近徒歩5分圏内の方が嬉しい。
無月の実家が庶民と呼べるかは置いておくが。
出勤時間までの時間の余裕は刻一刻と削られていく。
蛇行しながら上へと続く坂道を見上げて、無月はもう一度大きく息を吸うと、ズンズンと歩み始めた。
最後までお読み頂けると幸いです