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励起

 落葉樹が赤茶けた山肌の奥では枯れ葉の絨毯が敷き詰められる。緑白色だった栗の実も煎られたような香ばしい色に衣替えしていた。

 刈られた田んぼは景観に大きな余白を与えたが、畑の周りに群生するすすきが金色の波を際立たせている。

 宇柚は通信制の高校に通い始めた。通学は麓の街から電車に乗らなければならないが希で、ほとんどの時間はお婆ちゃんの家で過ごすことができる。

 きらびやかなショッピングモールや人いきれが当たり前だった生活から半年が経った。

 消しゴムを隠す程度のことは茶飯事で、給食で会話に混ぜないこともしばしばあっただろう。ヒエラルキーの頂に君臨したのは誰だったか。名前すら忘れた。宇柚ではない誰か。

 泣きもせず、微塵も反抗しない絵の上手だったあの子は今どうしているのか。勿論名前は覚えていない。やはり宇柚ではない。

 どんなに嫌がらせをしても毎日登校するのはなぜなのか。どうして怒らないのか。業を煮やした数名が集まって、一つの提案が成された。

「階段から突き落とせばいいじゃない」

 数学の難しい方程式の解法を耳にしたように、その場は満場一致で賛成だった。全員の視線が宇柚に集まる。白羽の矢が宇柚に突き立てられた。

 放課後オレンジ色に染まった校舎の階段で、美術室から獲物が出てくるのを待った。絵の具やパレットを詰めた鞄を重たそうに抱えながら歩く背中を追う。

 宇柚は胸を押さえて息を殺して背後に忍び寄る。震える指先は前方の窓から射し込む夕陽に照らされている。温かな光が踊り場を満たしていた。

 翌日から宇柚は学校へ行くのをやめた。絵の上手だったあの子は無遅刻無欠席で卒業証書を受け取った。

 学生時代の記憶は日増しに薄れていったが、美術室に飾られた彼女の絵だけはふとした拍子に思い出すことがある。後方から黒板に向けて三点透視で描かれていた朝の教室。

 誰もいない教室。机と椅子が置かれただけの教室を彼女は毎朝一人で見ていた。誰もが等しく望めるとは限らない、そんな景色を彼女は知っていた。


「今夜は雨らしいから運転気を付けて」

「ああ、行ってくるよ」

 お父さんと交わした最後の言葉は他愛ないものだった。街が寝静まった夜半過ぎ、電話のベルが鳴った。

 病院に駆けつけたときには雨は止んでいた。病室には路面の水溜まりを滑るタイヤの音だけが聞こえた。

 あちこちに散らばったフォークリフトの破片は月明かりに濡れていた。それほど高い場所ではなかったらしい、運が悪かったと誰もが口を揃える。

 運が悪いってどういうことだろう。

 双六ゲームで出目が気に入らなければ振り出しに戻ればいい。運が悪かったといってもう一度サイコロを投げればいい。何度だって、腕が上がらなくなるまで降り続ければいい。時には休んだっていいんだ。

 だからお父さんは運が悪くなんてない。お父さんはいくら休んでも帰ってこない。

 宇柚が中学生になるとお父さんはそれまで続けていた職場を離れ、夜勤のある製造業についた。残業が増えた。家の明かりが点いておらず、宇柚がカレンダーを見てようやく休日出勤に気がつくこともあった。

 三交替は誰かがシフトに穴を開けると迷惑になる。工場長に頭を下げてやっと取得した有休は全て宇柚の授業参観や運動会に充てられた。

「田中さんに寂しい思いをさせたくないのね」

 三者面談のあとで教室を出たときにおもむろに先生が口にした言葉。宇柚は立ち止まったまま先生の小さくなる背中を見ていた。

 標的にされることが恐かったから宇柚は学校へ行かなくなったはずだった。始めは確かにそうだった。

 夜勤前にお父さんが昼寝をしている休日には、宇柚はいつもソファに座って音のないテレビを眺めていた。真夜中に帰宅するお父さんの足音を聞くまで眠らない日があった。

 ところが一日中家に籠りきりになってから宇柚は、夜勤明けのお父さんが起きるのを待てば一緒にご飯を食べれた。平日昼間に近くのスーパーまで並んで歩くこともできた。無理をしてお父さんが有休を取得する必要もない。

 こんな日々がいつまでも続くなら宇柚は何もいらないとさえ思えた。

 一方で宇柚がお父さんの生活に干渉したことが歪みをもたらしたのではないか。僅かな違和感がきっかけで、これまで平行を保っていた琴線が触れ合い、心の位相が乱されたと考えられないことはない。

 もしも宇柚があのまま学校に通い続けていたならば、馴れ親しんだフォークリフトの操作を誤ることはなかっただろうか。

何かを望むと、一方で何かが失われていく。元気であることは、明るくて良いことだし、うるさいと煙たがられることもあるでしょう。どっちに転ぶかは、転んでみないと分からないですね。分からなくていいこともありますけれど。

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