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冥土

 スーツ姿の男は平日の昼間頻繁にやってきた。時には休日に青白い顔を覗かせることもあった。作業着の男は一度来たきりあれから姿を見せない。

 麓の街はいつも閑散としていて、酒屋から見える学校に通う子供たちがいるとは到底思えない。廃校は事実かも知れない。学校近辺の河川敷では護岸工事を行う重機がキャタピラーを回している。

 うず高く積まれた砂山の位置が微妙に移動しているだけで、工事が進んでいる気配はない。素人には分からない工法があるのだろうか。

 酒屋の表の通りを自転車で走るとき宇柚はいつも縁石に座っていた老婆を探す。白髪の老婆が座っていた場所にはたまに猫が寝そべっている。

 今日はお婆ちゃんと一緒にお父さんの墓参りをする。花は庭先にふんだんにあるもので見繕う。お供えするお菓子を買うために山を降りた。

 まだ夜が明けきらない朝顔が咲くころ、思いがけず眠りから覚めたときに仏壇の前に座る。花壇の草むらは露に濡れていた。

 仏間の遺影と宇柚の知るお父さんの面影は像を結ばない。アパートで一緒に過ごした日々をスケッチしろと言われても、胸を張って描く自信があるとは言い難い。もしも遺影がお父さんに瓜二つで働き盛りの男性と説明されたら納得してしまうような気がしてならない。

 宇柚と同い年のお父さんは春夏秋冬この道を通ったはずで、当然友達と放課後遊んだり、部活動に励んだりしていたと思う。男の子だから冬はあちこちにある田畑で雪合戦なんかしたらきっと楽しい。

 改めて街を見渡す。目立つものと言えば電信柱くらいで、木造の民家と石造りの蔵がどこまでも続いている。

 住居よりも畑の敷地面積の方が大きい。神社の賽銭箱は朽ちかけているし、鈴もメッキが剥がれ落ちている。

 いたはずの人々はきっとどこか別の地に移り住んだ。お父さんが都会に出てきたように、ここではないどこかでお母さんと出会い宇柚が生まれたように。

「危ないからどきな」

 さらさらとした砂地に宇柚は立っていた。運転席から身を乗り出す男が見えた。男は重機を降りた。ヘルメットの顎紐を外して宇柚に駆け寄る。

「お嬢ちゃん、ここは立ち入り禁止だぞ。砂遊びがしたかったら公園に行くといい。ショベルカーのスコップは生憎貸してやれない」

 中肉中背で小柄な男は早口でまくし立てる。宇柚は黙って聞いている。小柄な男は貧乏ゆすりを始めた。

「自転車ごとぺしゃんこになりたくなかったらとっとと退くんだ」

 重機に飛び乗った小柄な男は煩わしそうに宇柚のすぐ隣をすり抜けていった。間近で見る河川敷の重機たちは、道路の上からでは推し測れないほど大きかった。

 キャタピラーが通り過ぎると幾筋もの砂の窪みの跡がついた。


 坂道沿いに広がる畑の角に青空に映える濃緑色の葉が茂る栗の木がある。花はきれいさっぱりなくなっていた。放射状に棘の生えた淡い緑は栗の実で、葉っぱと鮮やかなコントラストを呈していた。

 地面に黒く輝くものが落ちていた。中指くらいのカブトムシだった。地面に腹這いになっている。

 自転車を停めて宇柚が屈むと、カブトムシの様子がおかしいことに気がついた。適当な小枝を手に取りカブトムシをつつく。抵抗なく仰向けになったカブトムシは鳥の仕業だろう、腹部が抉られ空っぽだった。

 柔らかな襞で覆われていたはずの部分はがらんどうになっていて、茶褐色の甲殻も遅かれ早かれ土塊になる。

 天敵の襲撃をこの不幸なカブトムシは受けてしまった。或いはミミズや微生物たちにとっては幸運と呼べるかもしれない。

 カブトムシの残骸を栗の木下に埋めた。

 坂道を登る途中で黒いワゴン車とすれ違った。玄関には新聞紙で包まれた花束と水を汲むためのポリ容器が並べてあった。仏壇の引き出しのマッチを探り当てたお婆ちゃんの背中が見えた。重たい紙袋を卓袱台に乗せる。

「暑かったろうに、さあお茶でも飲みな」

 宇柚は被っていた帽子を外してコップに口をつけた。火照った体に冷たさがしみる。開いた袋の口をお婆ちゃんへと向ける。

「これで良かった?お父さん甘いもの好きだったんだね」

「ああ麓に降りたときは晋也にいつもねだられたもんだ」

 教えられなければ和菓子店だとは分からない民家を沿道から裏手に回ると、ガラスの引き戸があった。三本脚の椅子が手前に置かれたショーケースの向こうは廊下へと繋がっていて、ラジオの電子的な音が微かに聞こえた。

 ショーケースの脇の呼び鈴を鳴らすと、宇柚の頭上で二階建ての床が軋んだ。薄暗い店内はレトロな雰囲気が漂っていて、メーカーの名前が記載されたアイスのケースが埃を被っている。

「何かご用で」

 低く嗄れた声は割烹着姿の店主が発したものだった。赤いちゃんちゃんこが似合いそうな翁だ。背丈は宇柚と変わらない。鋭い切れ長の目はいかにも職人らしい。

「これください」

 几帳面に陳列された円いどら焼を宇柚は指差した。

「幾つ」

「ええと、こし餡六つで」

 仏頂面の店主は紙袋にどら焼を丁寧に詰めた。宝物を扱うときのように柔らかな手つきだった。

「あれ、七つ入ってる」

「おまけしてくれたんでねえか。若い子が来たもんだから」

 ラッキーセブンだべ、と付け加えてお婆ちゃんは笑う。宇柚は何気なく仏間を覗く。お父さんの遺影も笑っているように見えた。


 裏山の入り口をそれてしばらく下り、曲がりくねる緩やかな傾斜を登り始めると小川が流れている。お寺のある山合は水捌けが良いらしく、目の届く範囲はどこまでも細い幹の梨畑が続いていた。

 お墓までの石造りの階段にできた小さな日陰で蜥蜴が休んでいる。瑠璃色の縞模様が美しい蜥蜴は、宇柚たちの足音を感じとるやいなや草むらに吸い込まれていった。

 坂の途中にある木造のお堂で呼吸を整える。苔むした仏堂は椚の枝葉が太陽を遮っているためにひんやりと心地よい。適度に遮られた光は万華鏡のように自在に形を変えて降り注いだ。

 殺風景な墓地にある紅一点、開花はしていないけれども艶やかな葉緑を纏った椿を目印にすれば迷うことはない。

「お父さん、会いに来たよ」

 温まった墓石は陽炎に揺らめいている。宇柚は額の汗を拭うことなど忘れてポリ容器の水をかける。

 空の高いところ、青の漸近線を鳥が悠々とたゆたう。

 線香の煙と、円いどら焼。宇柚は手と手を合わせる。隣でお婆ちゃんの吐息がする。

 風が髪を揺らす。宇柚は目を開けた。頬を湿った空気が撫でる。雲が濃くなり陽射しが和らいできた。

「さ、帰るか」

 枯れて茶色くなった花を新聞紙にくるんで立ち上がる。お婆ちゃんともと来た道を下る。宇柚たちの他に人影はなかった。お寺もひっそりとしていて、梨畑の蝉たちの鳴き声も今は遠い。

墓参りはそれぞれイメージが違うような気がします。街の中にあったり、山に囲まれていたり。海へ流すこともあるようです。近未来はそれも電子の海だったり。

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