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閑古鳥の街

 麓の街までは自転車で往復一時間前後。滅多に山を離れることはなくなった宇柚だが、お婆ちゃんを労って買い出しを肩代わりすることがある。

 お父さんと宇柚が暮らしていた場所よりは幾分田舎である。民家や商店が少ないことで、ありふれた電信柱なのに、それぞれ特別に設えられた彫刻のような存在感を放っている。他に大きな物といったら杉木立か竹林くらいだろう。

 郵便物を投函したポストの近くに広くはない、サッカーグラウンド一つ分の校庭。小学校だろうか。遊んでいる子供たちは見かけない。

 道路から離れた河川敷にあるためか、学校ですら小さいと感じないでもない。

「あんた、見かけない顔だね」

 酒屋の正面を通りすぎる間際、道路の縁石に腰かけた白髪の老婆に声をかけられた。宇柚は自転車を漕ぐ足を緩め、歩道に滑り込んだ。

「こんにちは」

 そのまま気づかない振りをして通りすぎても良かったのだが、うつむいたままの老婆には宇柚の心を惹き付けられるものがあった。

「向こうの山から来ました。郵便局に用事があって」

「年ごろの娘はなかなかいないから目立つよ」

「そうですか、小学校があるみたいですけど」

 校庭を囲むネットが風に揺れている。長いこと修繕されていないのか、所々穴が開いていた。

「廃校じゃ、機械が見えるだろ」

 促されるままに宇柚は酒屋側から目を凝らす。錆び付いた黄色いショベルカーが河川敷に二三台。この土地のものとは異なる色の砂山が築かれている。

「まさか、最近の雨で増水したから護岸工事しているだけでしょう」

 仮に学校に関係があるとしたら、校庭拡張の目的であったとしても、わざわざ砂を運び入れる工数を廃校に費やす道理はない。

「子供らはみんなどっかに行っちまった。機械が拐ったんだ」

 白髪の老婆は目をかっと見開いたかと思うと、それっきり口をつぐんだ。


 ギンヤンマが緑色の複眼を乱反射させながら宇柚と一定の距離を保って並走する農道では、お婆ちゃんの植えた稲が生長著しい。やがて水稲は頭を重く垂れ黄金色に照り映える日が来ることを待ち望んでいる。

 勾配が継続する斜面にさしかかると宇柚は自転車から降りた。なだらかな坂だが手押しがより早く疲労も少ない。

 庭の入り口で足を止める。黒いワゴン車が納屋を塞ぐように置かれていた。ワゴン車と納屋の隙間をぬって自転車を滑り込ませる。

 スーツの男と作業着の男が縁側に正座するお婆ちゃんと向かい合って立っている。男たちは作り物のような笑みを浮かべて炎天の下直立不動を貫いている。

「土砂災害の恐れがありますし、それに田中さんの年齢を鑑みると放っておけないのですよ」

「土砂崩れねえ」

「ええそうですとも。この辺りは地盤が昔と比べると大分脆くなってましてね」

「脆くなってるのねえ」

 スーツの男は眼鏡を外し額の汗をハンカチで拭っては丁寧に畳んでポケットにしまう。庇の内側でお婆ちゃんは団扇片手にお茶を啜る。

 作業着がはち切れそうなほど腹の出っ張った男は落ち着きなく体を左右小刻みに揺らす。束子のような口髭をもごもごさせながら口火を切った。

「要するに麓の街に移るのがいい。婆さんだけじゃ心配なんだよ」

「心配してくれるのねえ」

 作業着の男は肩をすくめて鼻を鳴らした。

 拭いきれない玉の汗を地面に滴らせるスーツの男は白いハンカチを畳むのを諦めだらりと手に持っている。

 頭頂から発散する湯気が見えそうな蒸発寸前のスーツの男の足元で白い塊が身をくねらせた。それはいつか宇柚がタラノ木の傍らで出会した白い奇妙な生き物だった。

「森の外は暑いだろう」

 白い奇妙な生き物は唐突に宇柚の潜む納屋めがけて語りかけてきた。背筋に冷や汗が流れた。しかしスーツの男もお婆ちゃんもこちらに気づいていない。作業着の男は相変わらず左右に体を揺り動かしている。

「街はさしずめ地獄さ。業火に焼かれている」

 うさぎよろしく跳び跳ねて、スーツの男の背中に貼りついた。少なくとも犬ほどの重さはありそうだのに、細身のスーツの男はぐらつきもしない。

 白い奇妙な生き物はスーツの男に跨がって、宇柚が瓦葺きの屋根から眺める夜空のように吸引力のある黒い瞳で宇柚を見つめる。

 泥にまみれたワゴン車の影から縁側に出てきた宇柚の足音に三人が一斉に振り向く。スーツ姿の男は慌てた様子で汗を拭ってハンカチをポケットにしまった。

 頭の上にいたはずの白い奇妙な生き物はまたもや森で出会ったときのように、幻の如く忽然と姿をくらませた。

人が住んでいるのか、疑いたくなるくらい広大な田畑しかない土地を目にしたことはありますか。命の絶えたような砂漠でも、生物たちは息を潜めています。人が目にできる範囲は、大抵誰かがいるものです。どこかに必ず。

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