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萌芽

 今日はお婆ちゃん家を挟んで、田んぼとは正反対の方角へ向かった。森の入り口はヒトの住む世界とを分断するように、大小様々な木々が聳え立っている。

 太平洋の海流の潮目は暖流と寒流の境界を明らかにするが、黒々とした森もまた昼の明るい陽光を反射して、招かれざる者の闖入を拒む柵のようだ。

 深く息を吸って林道を進む。カーディガンを羽織って来たのに、宇柚の体は湿り気のある冷々とした空気によって熱を急速に奪い取られた。

 何度もお婆ちゃんと足を運び、ようやく裏山に入ることを許された宇柚は、高鳴る気持ちと少しの心細さを胸に抱えながら歩みを進める。

 ふかふかとした地面。腐葉土の下には甲虫を筆頭に、たくさんの生き物が息を潜めて夏を待ちわびている。朽ちた倒木が積み重なっている世界は虫採り少年を虜にし、顔をほころばすだろう。

 宇柚の息をする音すら飲み込まれてしまう静寂が横たわる。森という広範なケージの中に放り込まれた宇柚の呼吸など、ここに住む動植物たちから出入りするそれの数パーセントにも満たない。

 昨日の雨は林道を余すことなく潤し、時折見かける岩の割れ目を伝って水が溢れて染みだしている。土壌をすり抜けた雨水は斜面を下り、やがてお婆ちゃんの作業する田んぼに注がれる。

 立ち止まる宇柚の頭上で木を橋渡しにして蜘蛛の巣がかかり、銀色の水滴を散らしている。その中に黒い塊がひらひらと蠢くのを宇柚は看過することができなかった。

 干渉模様が体を捻る度にきらりと光る。宝石のようなそれはまさしく蝶に違いない。蝶の肢体がべとつく糸にがんじがらめにされている。両翼だけが辛うじて動いている。

 底なしの沼にもがけばもがくほどはまっていくようなやるせなさが宇柚の胸を締め付けた。

 成虫になるまでの過程をどのように辿ってきたのか宇柚は知らない。鳥に襲われそうになっても、餌が確保できなくても、これまで何とか生き延びてきたのかもしれない。

 それがたった今、目の前で蝶は風前の灯火よろしくぐったりと触角を垂らしている。絶命の瞬間に出会した偶然は、生き物の数だけこの森に落っこちている。俯瞰すればこそおぞましい光景は連鎖の一部分に過ぎず、当たり前の現実として循環されていく。

 再び歩き始めた宇柚の視線の先は窪地に川が流れており、さらにその奥の坂を上がったところで目的の枝振りが慎ましく佇んでいる。

 濡れて滑りやすい石を足掛かりに川を一息に飛び越えた宇柚をタラノ木が迎えてくれた。背伸びした宇柚の二倍はあるほっそりとした幹。

 先端の萌芽が儚げな緑色をしていた。一帯は宇柚の知る森の中でも比較的暖かな、日当たりの良い山の傾斜面に位置する。

 鳥のさえずりと川のせせらぎが満たす、緑に囲まれたこの空間を初めて訪れたときから宇柚のお気に入りの場所となった。

 以来お婆ちゃんと山に入るときは必ず立ち寄っていた。乾いた風が胸まで伸びた宇柚の髪を揺らす。

 もう少し上へ登ると丘があり、視界が開ける。山裾を鬱蒼と木々が覆いつくし、お婆ちゃんと宇柚の暮らすの瓦葺きの家、さらに田畑が広がる。そして灰色の街並みが対面の山の麓に蜃気楼のように続いている。

 雲ひとつない空を仰いで宇柚は深呼吸をする。吹けば飛びそうな巻雲が疎らな青空を見上げて、乾いた原っぱに寝そべり眺める。

 今にも宇柚の体が浮き上がって飛んで行けそうな気がして手を伸ばす。青空を背景に五本の指を動かしてみるが、ただ春の穏やかな風がすり抜けていくだけだった。

 成層圏の向こう側に真っ暗な宇宙があるなんて信じられない。宇宙ステーションから森にいる宇柚を見つけられるだろうか。大きくて小さくもある森に囲まれた暖かな昼さがり。


 アパートから大通りへ出ると塗装が所々剥がれ落ちた歩道橋があった。宇柚が泣いたり癇癪を起こしたりするといつもお父さんは電車の見える歩道橋まで連れていった。橋の真ん中で立ち止まり、二人とも言葉は交わさずに黙っている。

 夕暮れに染まる街をぼんやりと眺める。電車を乗降する人々の群れは宇柚を惹き付けた。どこからやってきて、どこに向かうのか、大勢の人が現れては消えていく。行き交う人々になりきって想いを馳せていると、宇柚の呼吸がリズムを取り戻す。

 お父さんに肩車をしてもらって上機嫌でアパートに帰ったあの頃が懐かしい。歩道橋は塗装し直されて、かつての面影はなくなっている。

 本当に良く泣く子どもだった。それなのに目を腫らし息が苦しくなるほど泣いた理由をなぜだろうか宇柚はもう覚えていない。

「そろそろ起きるがいい。間もなく日が暮れる」

 いつの間にやら眠ってしまったようだ。上半身を起こすと枝葉が赤く染まり、夕陽に照らされた森は薄暗く、夜へと誘われつつある。

 誰かが耳元で囁いたはずだのに、左右を見渡しても声の主は見当たらない。怪訝に思い宇柚は慎重に立ち上がる。タラノ木の傍らで白い輪郭が丸くなり、黒く光る眼差しを宇柚に注いでいる。

 丘を駆け降りて川の側のタラノ木まで辿り着いたとき、蹲っていた白い輪郭の正体がどうやら生き物であることが分かった。

 大きさは中型の犬くらいで、白い外見から羊かと思ったが、蛇に似た細長い尾がついている。得体の知れない存在に対して不思議と恐怖を抱くことはなかった。

 直感的に宇柚は襲われるようなことはないと判断した。宇柚の眠りを醒ました声の主が白い奇妙な生き物の仕業であることも察することができた。

「夜の森は危ない、早く帰るんだ」

 剛毛で被われた頭部から黒い真珠のような瞳だけをちらつかせ、白い奇妙な生き物は言った。脳内へ直接語りかけるような声をしている。声よりも振動そのものに近い。

 宇柚の返答を待たずに白い奇妙な生き物は身を軽やかに翻した。白い残像が尾を引いて視界を離れていく。

 うさぎの走り方そっくりの四肢をなぞって、宇柚は闇に閉ざされ始めた森を下山する。白い奇妙な生き物を取り巻く微かな光が道標となり、暗くなった林道を仄かに照らす。馴れない薄暮の下山でも迷うことなく森の入り口に戻ってくることができた。

「ありがとう」

 お礼とともに振り返ったときには白い奇妙な生き物の姿はなく、代わりに暗緑樹の茂みだけが横たわっていた。

 翌日と、翌々日もタラノ木の日溜まりを訪れたが、白い奇妙な生き物は現れることはなかった。

 野山にカエルの合唱が響き渡り、蝉の抜け殻が庭の紫陽花の葉にぶら下がるようになると、宇柚は白い奇妙な生き物のことを考えなくなっていった。

野生の山林には、知っているようで意外と知らないことがあります。見たことはある、けれど名前は分からない植物。見たことも聞いたこともない動物たち。この話に登場する白い奇妙な生き物も現実に存在していたとしたら面白いですね。

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