惚れ薬
私には“博士”と周りから呼ばれている、一風変わった友人がいた。その呼び名が示すとおり、彼は毎日部屋に引き篭もって妙な研究にばかり没頭しているような男だった。
博士はこれまで、数多くの発明品をこの世に送り出してきていた。それらの一部は、私達が過ごす普段の生活の中でも欠かす事の出来ない存在となった物もあり、彼がもたらした功績は計り知れない程素晴らしかった。
それにも関わらず、“富”と“名声”は、ひどく彼の事を嫌っていた。彼を昔から良く知る私としては、未だに無名で貧乏な暮らしをしている彼の姿を見て非常に歯がゆく思っていたのだが、当の本人はそんな事を一向に気にする風でもなく、ただただ自分の好きな研究に熱中しているばかりだった。
そんなある日の事、久しぶりに博士から私の元へ一本の電話が掛かってきた。最近彼が取り組んでいた研究の成果について、是非とも私に見てもらいたいと言うのだ。博士はこれまでも、私を呼び出しては様々な研究の成果を披露してくれていた。そんな訳でその日も、私は彼に誘われるままに彼の自宅へと足を運ぶ事にしたのだった。
玄関の呼び鈴に応じてドアを開けてくれた博士は、私を研究室へと迎え入れるとこう言うのだった。
「まあ、好きな場所に掛けていてよ。今、お茶でも入れるから。」
しばらく私が来ない間に、研究室の中は恐ろしい程散らかっていた。博士は素晴らしい頭脳の持ち主なのだが、研究に没頭し始めると周りの事に関心が向かなくなる困った性格の持ち主でもあった。長年に亘り彼と付き合いがある私としては特別驚く出来事でもなかったので、自分が座る場所を確保する目的もあって部屋の片付けを始めるのだった。
そんな訳で、私がソファーの上に散乱していた書籍を棚に戻していた時の事である。何処からか物が崩れ落ちる盛大な音と食器が割れる音が聞こえてきた。それを耳にした私は、急いでその音がした方へと駆けつけてみた。そこには私が予想していた中でも最悪の、しかし予想通りの光景が目の前に広がっていたのだった。
「えっと〜・・・申し訳ない。お茶は今、きらしていたんだ。」
私の姿を見つけた博士は、床に散らばったお茶の葉と割れた食器の破片に囲まれて、何とも情けない表情を見せていた。やむなく、博士を研究室へと追いやった私は、彼にそこで大人しく待っているように言い残し、自らは二人分のコーヒーを入れる事にしたのだった。
私が再び研究室に戻ってみると、博士は叱られた後の子供のようにすっかり沈み込んだ様子で大人しく座っていた。そうしてしばらくの間は私が差し出したコーヒーを申し訳無さそうに飲んでいたのだが、やがて今回の研究の成果について話し始めてくれた。
「人類の長年の夢だったある薬の開発に成功したんだ。一体、何だと思う?」
私は自分が思いつく限りの素晴らしい効能を持った薬について、色々と挙げてみた。それは『若返りの薬』ではないか。それとも『不老不死の薬』だろうか。しかし、そのどれも博士が開発した薬とは異なるようだった。
そんなやり取りを交わしているうちに、博士は徐々に自信を取り戻していったようだった。ようやく普段の彼らしくなると、私への説明にも次第に熱が入るようになっていた。
「駄目だよ。君がそうやって挙げてくれた薬の効能は、全て自然の摂理に反する事ばかりじゃないか。僕はこれでも一人の科学者だよ。そんな事が不可能な事くらい十分に熟知しているつもりだし、そんな無駄な事に時間を費やすほど愚かじゃない。僕が作ったのは、人間の精神に作用して恋愛感情を抱かせる薬。つまり媚薬なんだ!」
タマネギやチョコレートといった現在では日常的にありふれた食材も、長い歴史の中では媚薬としての効果があると伝えられてきた。そういった食材には刺激性物質が含まれているため、その様な効果をもたらすという風に人々に信じられてきたのだろう。もちろん、それらの食材は本当の意味で媚薬ではない事くらい誰もが知っている事である。そもそも、チョコレートならいざ知らず“イモリの黒焼き”に媚薬効果があると伝えられているからと言って、一体誰がその効果を試してみようと思うだろう。“媚薬”という言葉に込められた響きに、私は非常に懐疑的な印象を覚えずにはいられなかった。
しかし、博士は好んで冗談を言うようなタイプではない。彼がそう言うからには何かしらの根拠があっての事なのだろう。そう考えた私は、もっと現実的な観点からその薬が“フェロモン”を生成する様な、何か特殊な効果を生み出すのではないかと問い質してみる事にした。
「蛾の雌が雄を誘引するように、人間にも異性を引き付けるような物質・・・それを“フェロモン”と呼ぶとして・・・そんな物質を生み出す薬があるならば、それは『媚薬』と言えるだろうね。しかし、昆虫と違って人間の構造は複雑だから、誰にでも等しく効果が現れるような物質を作るというのは難しいんだ。僕が開発したのはもっと単純で、興奮剤の一種なんだよ。」
博士の説明によると、不安定な場所におかれた男女は、自分が抱く一時的な緊張感による興奮状態を相手への恋愛感情と錯覚するのだという。それは“吊り橋理論”と呼ばれて心理学的にも実証されている事なのだが、彼はそれを応用した薬を開発したと言うのだ。
その理論については私も知っていたのだが、それはあくまでも心理学に基づく理論である。私の疑問に対し、博士は付け加えてこう説明した。
「もちろん君の言うとおり、興奮状態に陥っただけで誰かを好きになるなんて事はないだろうね。この薬にはそれ以外にも人間の脳内で分泌されるPEA(フェニルエチルアミン)という物質を分泌しやすくする性質が含まれているのさ。人は恋に陥ると、普段よりも多くその物質が分泌されるようになる。」
博士が開発したのは科学的な根拠に基づいた『惚れ薬』らしいのだが、そんなに簡単に薬の力で人が恋に陥る事があるのだろうか。仮にその薬を使って相手が恋愛しやすい体質になったとしても、その好意の対象が自分に向かなければ、まったく意味がないのではないだろうか。
私がふと思いついた指摘だったのだが、思いがけず博士は頭を抱えてしまった。
「・・・まったく、君は意地悪な奴だな。しかし、その点は考えていなかった。悪いが今日は帰ってくれないか。もう一度作り直してみよう。」
博士はそう言うと、再び研究に戻ってしまった。こうなってしまっては研究以外の存在など目にも入らないだろう。私は彼の邪魔にならないように小声で別れを告げると、自宅へと帰ったのだった。
博士から再び連絡があったのは、それから一週間後の事だった。今度こそ完璧な薬が出来上がったと自信満々な博士の誘いを受けて、私は再び彼の元を訪れる事になったのだった。
博士は私を研究室に迎え入れると、お茶を用意しようと思ったらしく、席を立とうとした。前回の惨事を再び起こすまいと思った私は、彼を大人しく研究室に座らせたままで、二人分のコーヒーを用意したのだった。
「君は“刷り込み”を知っているかい?」
私が入れたコーヒーを啜りながら、博士はそう説明し始めた。
「鳥は生まれた直後に見た動く物を親だと思い込む。それを“刷り込み”って言うんだけれど、それを応用してみたんだ。この薬を飲んだ者は、初めて見た相手に好意を持つようになる。どうだい、これなら完璧な惚れ薬と言えるだろう?」
その後も延々と薬に関する説明は続けられていたのだが、私はそのほとんどを聞いていなかった。私に関心があった事はただ一つ。その薬が今、博士の目の前の机の上に置いてあるガラス瓶の中に入っているというその事だけだった。そしてそれは、私が手を伸ばせばすぐ届く距離に置いてあった。
「実は既に、ある老夫婦に協力してもらってこの薬を使ってみたんだ。実験は大成功だったよ。見ているこちらが照れるくらいの熱々ぶりでね。二人とも新婚時代に戻ったみたいだって喜んでいたよ。さて次は、どんな研究を始めようかな。今度は・・・・そうだな・・・・・若返りや不老不死は叶わないけれど・・・・・・老化を抑える薬くらい・・・・なら・・・・作れるかもしれ・・・・・・・。」
博士は私が見守る目の前で、深い眠りについてしまった。私がコーヒーの中に入れておいた睡眠薬が、ようやく効き始めたからだ。
「おやすみなさい、博士。どうか良い夢を・・・。」
私は彼が完全に眠ってしまったのを確認すると、先ほどまで座っていたソファーから立ち上がり、机の上に置いてあったガラス壜を手に取った。世界中の誰もが欲しがる媚薬が、今こうして私の手の中にあるのだ。これさえあれば、私は素晴らしい未来を手に入れられる事だろう。何故なら、私は自分の思うままに意中の相手を振り向かせる事が出来るのだから。
それから数時間後。睡眠薬の効果が切れた博士は、ようやく目を覚ましたようだった。
「博士、お目覚めの気分はいかがですか?」
彼は目の前にいる私を見て、ひどく驚いている様子だった。
「僕は知らないうちに眠ってしまっていた様ですね。すみませんでした。」
「きっと、研究に没頭されていてちゃんと睡眠を取っていなかったのでしょう?私が起こしても、ちっとも目を覚まさなかったですから。」
私は素知らぬ顔で彼にそう告げるのだった。彼は未だはっきりとしない頭を抱えたまま、ぼんやりとした表情で辺りを見回していた。その時、机の上に置いてあったはずのガラス瓶がなくなっている事にも気がついた事だろう。そして、私の方をじっと見ているのだった。
「それは失礼しました。ところで・・・・あの・・・・・あなたにお聞きしたい事があるのです。」
博士は非常に言いにくそうにそう告げると、私の反応を窺う様にしてしばらくの間黙っていた。
「何でしょう。私で分かる事であれば何でもお答えしますよ。」
「それはですね、あなたじゃないと答えられない質問なのです。それは・・・。」
「それは・・・・?」
「・・・・・・・・・・好きです。僕と結婚してもらえませんか、麗子さん。」
博士はそれだけ言うと、私の返事をじっと待っているのだった。私は彼の突然のプロポーズに、驚いて何も言えなかった。
「やっぱり駄目ですか。そうですよね。あなたの様な美しい女性だったら、僕なんかよりも素晴らしい相手がいるに決まっているんだ。」
彼はいつまでたっても私が無言でいるので、自分のプロポーズが断られたと勘違いした様子だった。私は慌ててこう答えた。
「・・・・・私でよければ、喜んでお受けします。」
「本当ですか!」
博士は私の返事に大喜びだった。それこそ、部屋中を飛び回るような勢いだった。私がこれまで見た事がない彼の姿だった。
「ただし、一つだけ条件があります。もう二度と『惚れ薬』は作らない事。これがプロポーズを受ける私からの条件です。」
「麗子さん、あなたが結婚してくれるというのに、何でわざわざ『惚れ薬』なんてものを作る必要があるのです?そんな薬は僕には必要ない。君がずっと側に居てくれたら、それ以外には何も望む事はありませんよ。さて、挙式は何時にしましょう。早いほうがいいですよね。」
こうして私は、長年の夢が叶って博士と結婚する事が出来たのだった。既に皆様お気づきの事と思うが、私は睡眠薬で彼を眠らせた後、例の『惚れ薬』を飲ませたのだ。彼が作った『惚れ薬』は、本当に素晴らしい効き目を発揮してくれた事になる。
しかし、薬の力を使って彼の心を射止めた事を、私は結婚してからしばらく経って後ろめたく思うようになっていた。そして、ついに耐えられなくなった私は、彼に全ての事実を打ち明ける事にしたのだった。
私の話を聞いた彼の答えは、単純明快だった。
「僕はこれでも一人の科学者だよ。“好きでもない相手に結婚を申し込む”、そんな自然の摂理に反する行為を科学者である僕が行うと思うかい?それが喩え『惚れ薬』を飲まされていた状態であったとしてもね。」
私と博士は今でも幸せに暮らしている。彼は今でも私に夢中だったし、私の方でもそんな彼に夢中だった。私が一つだけ分からない事があるとすれば、彼が開発した『惚れ薬』が本物だったのかどうかという点だけだった。しかしそんな事、私にとってみればどうでも良い事なのだ。どちらにしても、彼は私の事を愛してくれているのだから。それこそ、自然の摂理と同じように覆しようのない真実なのだから。