シトラスの香り
青年が密かに思いを寄せている少女がいた。お互いに目が合えば軽く会釈をする程度の、ほんの些細な関係しか築き上げる事が出来なかったが、そうと気付かぬうちに彼女の存在は彼の心に強く印象づけられていたのだった。
青年と少女が住んでいたその町には、市街を縫うようにして一本の川が流れていた。その川は町で暮らす人々にとっては欠かせない存在であり、生活の一部であった。
人々は目を覚ますと、その川で顔を洗った。汲んできた水で食事の支度を行い、洗濯をするのにも使用した。不思議と水が濁る事はなく、いつ見ても澄んでいてとても綺麗だった。人々は生活に必要な量だけそこから手に入れていたし、水路として利用する事はなかった。ごく稀に、遥か上流の方から一艘の小船が流れてくる事はあったが、それ以外に人がこの川を行き来する事はなかった。
青年は町の清掃員として働いていた。太陽が東の空から顔を出して再び西の空に沈むまでの間、町に落ちているゴミを拾い続けるのが仕事だった。しかし、“仕事”といっても、彼らの働きを監視するような者はいなかったし、集めてきたゴミの量に関わらず支給される賃金は無に等しかった。そのため、彼の知っている他の多くの仲間と同じく、青年も“仕事”をしている振りをして一日をやり過ごしていた。彼は大半を、川沿いのベンチに腰掛けて過ごしていた。そして、陽の光を浴びて銀色に輝いていた水面が、静かな黒色に変わっていくその瞬間が訪れるのを、ただひたすら待ち続けていた。
いつの頃からか、青年の側のベンチに見知らぬ少女が腰掛けるようになっていた。いつも決まった時刻になると姿を現し、やがて何処かに行ってしまうのだが、そこにいる間は、緩やかに流れ来る水面をただじっと見つめていた。彼女が見守るその先では、風に吹かれて散っていった花弁が一面を色鮮やかに埋め尽くしている時もあった。
真っ白なワンピースに幅の広い帽子。物思いに耽っているかのようなその顔は、両手でしっかりと支えられ、揃えられた両膝の上にちょこんと載せてあった。右手の薬指に光る指輪からすると、幼く見えるその見た目よりは、もう少しだけ大人の女性なのだろう。
彼女の存在に青年が注意を払うようになったのは、当然の成り行きと言えるかもしれない。自分でも気がつかないうちに密かな関心を抱くようになっていた青年は、いつしか無意識に少女の様子を伺うようになっていた。そしてある日、声を掛けてみた。君は誰なのだ。一体、こんな所で何をしているのか?しかし、少女は青年の問いに答える事はなく、何も告げずに何処かへと姿を消してしまうのだった。
少女は不思議といつも決まったベンチにしか座らなかった。ところが、彼女がいつも座るはずのベンチがある日、親子連れの零したアイスクリームによって汚されていた事があった。青年は少女がどうするのか、様子を伺っていたのだが、彼女はその汚れを避けるようにして、少し離れた場所に腰掛けるのだった。またある時などは、野良犬が寝そべっていた事もあったが、自分が座るべき場所にいるその犬を見た少女は、激しい非難の眼差しと共に近くにあった石を投げつけて、犬を追い払う事さえしたのだ。そんな様子を青年は、面白おかしく眺めていたのだが、少女の視線が自分に注がれると、自分の心の裡を見透かされているようであり、また、自分が仕事をさぼっている事を非難されているような心持がして、そそくさと席を立って仕事に取り掛かる振りをするのだった。そして、彼女と擦れ違う瞬間には、いつも微かにシトラスの香りがするのだった
その日は朝から深い霧が立ち込めていた。青年はその日も、いつもの様にベンチに腰を下ろして一日が過ぎるのを待っていた。こんな天候であれば少女は現れないだろう、そう青年が思った矢先、少女は姿を現すと、いつものベンチに腰を下ろした。そこまでは普段と変わらない光景であった。ただ、少女の視線はいつもと違って川の上流を見つめていた。
青年が少女の視線の先を追いかけると、ぼんやりとした明かりが近づいてくるのが目に入った。それは初め非常に小さな点でしかなかったが、次第に大きくなっていき、やがて二人の目の前で止まった。深い霧を透かしてみると、それは一艘の小舟の舳先に取り付けられたランタンの明かりだった。その小船には黒い人影が乗っていた。
少女はベンチから立ち上がると、その小舟に向って歩き出した。
「待って、待って。それに乗ってはいけない。」
青年は自分でも良く分からないままにそう叫ぶと、少女を惹き止めようとして手を差し出した。しかし、青年の言葉など耳に届かなかったのか、少女はそのまま振り返りもせずに小舟に乗ってしまった。
少女を乗せた小舟はするすると岸を離れると、やがて青年の目の届かない彼方に消えてしまった。青年に残されたのは、彼女の記憶を呼び覚ましてくれるシトラスの香りだけだった。