我楽多フォークロア
0
――――『創作』をする人間は嘘吐きなんだ。
あの時。あの先輩はそんな言葉と共に語り始めたんだった。
――――例えば。
絵描きがキャンバスに瑞々しい果実を描いたとしよう。絵描きはここに果実があると主張する。だが、そこにあるのはただの紙と塗りたくられた絵の具であって、果実では決してない。
――――例えば。
物書きが壮大な話を書いたとしよう。読む者がのめり込み、胸を躍らせるようなそんな物語。だが、現実にはそんな出来事は起こっていない。物語を盛り上げる登場人物だって存在しない。それは重ね続けただけの、ただの言葉の連なりに過ぎない。
……彼が語るに曰く、あらゆる創作物というものは『嘘』で出来ているらしい。
――――漫画。ゲーム。ラノベ。純文学。絵画。映画。演劇。音楽。
あるいは……奇々怪々な語りが綴る 宇宙的恐怖。むかしむかしあるところにから始まる御伽噺に、古き荘厳なる神話。 それらに加えて、下卑た世間記事から真実を騙り語るものですら、その本質は変わらない。
その悉くは創作物でしかなく、紛れもなく偽物であり、現実に足り得る事は決してない。 現実ではないものが存在すると言うのであれば、それは『嘘』に他ならない。
そして、その『嘘』は大きければ大きいほど、真に迫れば迫るほど。人は、『嘘』に騙される。あたかもその現実が存在しているかのように、空想が現実であるかのように、錯覚してしまう。認識してしまう。納得してしまう。つまり――――
――――その創作物は、面白くなるんだよ。
悪意と皮肉を混ぜた笑みを浮かべて、あの先輩はそう嘯いたのだった。 本当に、性根のねじ曲がった人だったと思う。
傲岸不遜、唯我独尊、傍若無人なんて言葉が彼ほど似合う人物もそうはいないだろう。
他人が懸命に創ったであろうものを平然と嘘呼ばわりし、嘲笑うことが出来るのはあの人ぐらいだ。先輩とは呼んでいたものの、とてもじゃないが尊敬できる要素なんて欠片も持ち合わせてはいなかった。
でも、そんな彼だからこそ、俺は一歩を踏み出せたんだ。 思考から行動、主張。それら全てが到底、俺には理解出来ない人間ではあった。だけど、間違いなく俺にとって、人生の転換点となった人だった。
狂言回しなんてガラじゃないけど、俺――香久山古儀は語ろうと思う。 もう過去になってしまった、しかし今でも鮮明な思い出。その始まりの日のことを。
……俺がこれから語るのは、きっと創作物の話だ。
嘘に嘘を重ね続けて創作られた雑多な与太話。 人の真実がただの我楽多になる、文字通りくだらない話。
1
「――――なに、変な顔して女子の方を見てんだよ?」
そんな声で俺はハッと我に返る。声の方を見ると、前の席にいる男子が怪訝そうな顔していた。そして俺の表情から何かを察したのか、ニヤニヤと笑いだす。
「なに? もう気になる子でも出来たの? 香久山はボーッとしたやつだと思ってたけど、案外みるところはみてんだなぁ」
「別に。そういうのじゃないって」
露骨に嫌そうな顔をして、目の前でにやけ面を晒す男子――近江幹也の戯言を一蹴する。彼の追求から逃れるように、俺は窓の外に目を移した。
開放された教室の窓から吹く春風は、まだ冷たい。昔はもうこの時期には暖かくなっていた気がするけど、年を重ねる毎に季節がずれ込んでいるような気がする。
俺が高校生になって数日が経った頃。今はちょうど昼休みの時間で、教室には昼食を食べている生徒がまばらにいる。俺は購買で買った惣菜パンを咀嚼して飲み込み、気持ちを落ち着けると再び廊下の方を見た。
「なぁ、近江。あそこの廊下に居る子らの名前ってもう覚えてる?」
「やっぱ、興味あんじゃねーか。んー……左から鳥見、桜井、橿原、後は石上だな」
「……そっか」
「へぇ。あの中に気になるやつがいんの?」
「だから、違うって」
「そんな照れるなって。じっと見つめててよー、言い逃れは見苦しいぜー? 誰よ誰? 誰にも教えないからさ。俺にだけ教えてくれよー?」
ニヤニヤと笑う近江に対し、目を伏せる。
「違うって言ってるだろ。それに、その言い方は広めるやつが言うものだ。もしそうだとしても信用出来るか」
「うわー。親友に対してなんて言い草だ」
「親友も何も、会ってまだ数日じゃないか」
「はぁー、なんだよ。ノリ悪いなぁ」
そう言いつつも近江はやれやれと引き下がり、紙パックの牛乳に手を付ける。会って数日ではあるが、俺は彼の竹を割ったような性格は嫌いじゃなかった。
「……そういや、今日から部活勧誘の解禁だっけ。先輩らもはりきってたし。お前、もう部活とか決めてんの?」
「んー、帰宅部のつもりだけど」
「ま、うちの学校は強制する訳でもないし、別にそれでもいいみたいだけどなー。香久山は身長もあるんだし、運動部入ればいいじゃん。一緒に野球しようぜ?」
言葉の通り近江は頭を丸めており、自己紹介でも中学からずっと野球部に所属していていたと言っていた。春から練習にも混ざっているらしく、やる気と期待に満ちた面持ちで笑う。
「……悪い。俺、家の手伝いとかもあるからさ」
「あー、なんかそんなことも言ってたっけ」
申し訳なさそうにする俺に、近江は少し気まずげに頭を掻く。
「ま、強制しないとはいえ野球部に限らず少子化だかで生徒が減ってからこの学校、勧誘が凄いらしいからさ。帰宅部希望ってなら放課後はさっさと帰った方がいいかもな。お前、変な部活に無理矢理入らされそうだし」
「それ、どういう意味だよ」
「ははは。……そういや、変なのといえば先輩におかしなこと言われたんだった」
「おかしなこと?」
「『白衣を着た変なやつ』に絡まれたら速攻逃げろ、だってさ」
「……なんだそれ? 変質者かなにか? お前じゃなくて?」
「はははこやつめ。……聞いたら急に先輩たち皆顔真っ青にしてさ。詳しくは聞けなかったんだよ」
「ふーん」
よくわからないな、と曖昧に相槌を打つと同時に昼休みの予鈴が鳴った。
「やべ、次は移動教室だったか」
近江の言葉を聞いて周りを見回すと、いつの間にか教室の中にはほとんどのクラスメイトはいなくなっていた。
急いで準備をして、彼と共に教室を後にする。その間際……俺は再び、件の女子たちが居た場所を一瞥する。
そこにはまだ一人の女生徒が佇んでいた。何の変哲もない、普通の少女だ。……長い髪から覗く肌が土気色をしていなければ、だが。
どうみても生きている人間には見えない。双眸は血ばしり、誰もいないはずの空間に向かって、独りで話を合わせるように時折、頷いている。
……気のせいだ。気のせい。
いつものように俺は目を瞑り、頭の中で言葉を繰り返す。そうして再び目開けた時、視界から女生徒は消えていた。
「なにしてんだよ。行くぞ」
「悪い、今行く」
家の手伝いというのは嘘ではないが、この時の俺はそもそも学校に長居をしたくなかったのだ。
2
放課後。
ホームルームが終わってから、俺はすぐに駐輪場へ向かおうとした。が、近江の言っていた通り……というか、想像以上に部活の勧誘は熾烈を極めていた。中庭に渡り廊下。一年生が通りそうな場所は全て喧騒に溢れている。
それぞれの部活のユニフォームを着てのアピールはもちろんのこと、運動部も文化部も関係なしに入り交じる校内はもはや混沌と形容すべきものだ。
これはもはや争奪戦だ。そこにいる皆が部員を得ようと必死だ。そんな戦いが、そこには繰り広げられていた。
結局は俺も類に漏れず、更に言えば身長が人よりあるが故に、運動部の猛攻を受け続けることになった。吹奏楽部の演奏に若干惹かれつつも、なんとか俺は人混みから離れることは出来た。
出来たのだが……遠ざかっただけで、目的の駐輪場からは随分と離れてしまったようだ。
「これじゃあ、しばらくは帰れそうにないな。……どうやって、あの包囲網を突破しよう」
渡り廊下を歩きながら、ため息と共に俺は独りごちた。 背中越しに、喧騒がまだ聞こえてくる。
目を背けながら、どうしたものかと思案するものの、まだ学校に慣れていない俺に名案が浮かぶわけでもなく。ただ漠然と時間だけが経っていった。
「……あれ?」
気付けば。周りから人気が一切無くなっていた。周囲を見回すと、いつの間にか校舎の中に俺はいた。
微かなカビの臭いが鼻に付く。廊下が木の板になっていて、歩く度にギシギシと音を立てている。リノリウムの床しか見たことがなかったので、なんだが新鮮に感じる。
「……やけに古臭いな、ここ。でも、こんな校舎この学校にあったけ?」
少なくとも、入学してから俺は古い校舎があるという事を知らなかった。まだ入学して間もないから、見逃していたんだろうか。
「……そっちは危ないよ」
「え?」
唐突の声に振り向くと、そこには見覚えのない女生徒がいた。俺の顔を覗き込んだ後、その女生徒は、にっこり微笑んだ。
濡れ羽色の長髪におっとりとした表情に、俺とは頭三個分ほども差がある小柄な体躯。どこか垢抜けない雰囲気があるけれど、美人な女性だった。
「あぁと、この旧校舎、見ての通り古くて。ところどころ老朽化してて……立ち入り禁止になってたはずなんだけど。大丈夫?」
「は、はい……大丈夫です。……先輩」
一目見た時から、彼女にどこか違和感を覚えていたが、それがクラスメイトが着ている制服とはデザインが違っていることだと気付いた。そう言えば、今年からこの学校の制服は新しいものになったと担任が言っていた気がする。
ついでに言えば、この学校では学年毎で男子はネクタイ、女子ならリボンの色が違う。一年生、つまり俺の代は青。二年生は黄色。そして、三年生は赤といった感じだ。彼女の制服のリボンは赤色だ。つまり、三年生ということが察せられた。
「あぁ、そっか。君、新入生ね。大丈夫、立ち入り禁止になってると言っても、先生に怒られるようなことはないから」
「……すみません。いつの間にか道に迷ったみたいで」
「そういうこと。いいよ、皆がいるところまで連れて行ってあげる」
「あ、ありがとうございます」
どうやら思案に暮れている間に、変な風に廊下を歩いていたらしい。また変な場所に行かないとは限らないので、彼女の申し出はありがたかった。
「いえいえ。……君も勧誘に逃げてきた口?」
「まぁ……そんなところです」
「この学校、悪いところじゃないんだけど。毎年あの強引さはどうかと思うんだよねぇ」
「本当にそれです……」
「ふふっ」
困憊して同調する俺に彼女は笑った。きっとこの人も新入生の時、同じような目に遭ったのだろうか。彼女の言っていることが理解出来て、親近感を覚えた。
「君は入る部活をもう決めてたりするの?」
「いや、帰宅部のつもりです」
「なるほどね。うーん、そうだねぇ……それなら、図書室に行ったらいいよ。今の時期ならほとんど人居ないだろうし。ほとぼりが冷めた頃に帰ったらいいと思う」
「なるほど。わざわざ、ありがとうございます」
「でも……」
「でも?」
「うん。大したことじゃないんだけれど。下校時刻になるより前には帰った方がいいよ。……この学校ね。出るんだ」
「出る?」
「お化けとか、幽霊」
ふふ、と笑う彼女の声は、何処か熱を含んでいた。
「……ねぇ、こんな話は知ってる?」
続けて彼女が語り始めたのは、よくある都市伝説だった。
どこかで聞いたことあるような語り口。どこかで聞いたことがあるような言い伝え。どこかで聞いたことがあるような結末。
でも、どこかで聞いたかは思い出せない。そんな、どこにでもありそうな与太話だ。
――――その昔、この学校にある一人の生徒がいました。
その生徒はある日、不幸にも事故の加害者となりました。加害者となっただけで終わればただ彼が悪いという話で終わるのですが、相手が悪かったのです。
被害者からの様々な要求に応えましたが、最終的に彼は闇医者に肝臓を取られた後、それを苦に理科室で自殺しました。
肝臓は再生する臓器だけれど、当時はあまり知られてなかったのです。
それからしばらくして、この学校では人体模型の肝臓だけはいつの間にか紛失するようになりました。いくら買い替えても、いつの間にか肝臓だけがなくなっています。
そう、自殺した生徒は人体模型に宿るようになったのです。そして、失った肝臓を求め、今も日が沈む頃になると学校内をさ迷っているのです。
自分の失った肝臓を求め続けて。
「……これが、この学校に残ってる不思議の一つ『動く人体模型の怪』」
気づけば俺は彼女が語り終わるまで、ただ呆然と聞いていた。語り終えた彼女は満足そうに微笑む。
俺は反射的に首を振った。
「そんなの、いるわけないじゃないですか」
「……うん、そうかもね。……こういう話が私好きで。つい、語りすぎたみたい。そう言えば名乗ってなかったね。私、朝比奈かおり。よろしくね」
「……俺、香久山古儀と言います」
「よろしくね、香久山くん。変な話しちゃってごめんね? それじゃあ、いこっか」
そうして、俺は彼女の案内で、旧校舎を後にしたのであった。
3
『――――下校時刻になりました。残っている生徒は速やかに下校してください』
寂しげな蛍の光と共に放送が流れている。窓を見ると、既に日が傾き始めていた。空は橙色に染まり、夜が顔を出し始めている。
「うわっ。もうこんな時間か」
結局、俺は朝比奈先輩の助言通り、図書室で過ごすことにした。
図書室に辿り着いた俺はまず蔵書の量に驚いた。流石に漫画は少ないが、ラノベも豊富。そして、居るのはやる気なさげな司書と他に生徒の二人のみ。勧誘もなく、静かな空間だった。彼女の助言に従ったのは正解だったようだ。
本を借りることが出来るようになるのはもう少し先だろうが、そうなれば入り浸ることになりそうだ。
来た時にはまだ聞こえていた勧誘の喧騒も既になくなっていた。
「帰ります! さようなら」
「……はーい。さようなら」
来た時に居たはずのもう一人は既に帰っていたらしく、司書のやる気のない返事だけが返ってきた。
「明日も部活の勧誘あるのかなぁ……」
なんとなく、足取りが重い。
理由はわかっている。勧誘のこともあるが……別れる前、朝比奈先輩が語った都市伝説。それが俺の頭から離れない。どこにでもある、よく聞く与太話。怪談。そのはずだ。
「うわっ」
そんな思案に耽っていると、俺は廊下の角の陰から現れた人影に気づかず、ぶつかってしまった。勢いのまま尻もちをついた後、慌てて立ち上がる。
「痛ッ、すみません! て、えっ……?」
そして倒れた人影の正体を見て、俺は固まったのだ。
それは……確かに人の形をしていた。
人の頭。人の腕。人の足。人の体。それらは紛うことなき人の形をしている。だが、人工物特有の無機質な光沢を持った肌。何より、内臓が全て丸出しになった体が、それが生きた人間ではないと証明している。
学校に一つはある、人体模型だ。それが目の前で倒れていた。
「なんで、こんなところに人体模型が……?」
周囲を見回してみるものの、誰もいない。再び人体模型へ視線を戻す。……いつの間にか立ち上がっていた人体模型と目が合った。無機質な、感情どころか命すら感じられない瞳が俺を捉えてるようの錯覚する。
「…………」
――――……これが、この学校に残ってる不思議の一つ『動く人体模型の怪』。
彼女の真実味を帯びていた語り口が、頭の中で反芻される。
だが、そんなはずはないんだ。
俺は無言で目を瞑る。いつも通り『気のせいだ』と心の中で呟く。何度も、何度も呟く。腕に冷たい感触。驚いて、俺は目を開けた。
人体模型は俺の腕を掴んでいた。そして、動かない口からは「カエシテ……」という言葉が繰り返されている。
「あ…………」
動く人体模型。数時間前に朝比奈先輩から聞いた話、そのままの姿だ。
逃げようと、俺は必死の思いで踵を返そうとした。
……しかし、俺の体は動かない。焦りが全身に伝播する。
「どうしてッ……!」
人体模型に掴まれた腕も振り払うことが出来ない。冷たい感触が伝わる。
……あぁ、そうだ。
そこで、俺は悟った。
……こういったよくわからないものを俺は何度も見たことがあった。昼に見たあの女生徒もそうだ。それだけではない。この学校に来る以前からずっとだ。
昔から、俺にはそういったモノが見えることがよくあった。当然、その事を人に話せば気味悪がられるか、嘘吐き呼ばわりだ。
人は自分の認識出来るものしか信じることは出来ない。たとえ、自身に見えたとしても、他の多数の人間には見えなければ信じることは出来ない。
たった一人だけ見えてしまった人間は、異端となる。おかしなやつだと。嘘吐きであると。理解できないものであると、異端は奇異な目に晒され、排斥されてしまう。
俺は小さい頃に、嫌というほどその事を知ってしまった。
だから、俺は他人に見えないものは見なかったことにした。
幸いなことに、今までこういったものが害をなすことはなかった。目を瞑り、『気のせいだ』と思えば消えていた。
見えるだけで関わることも無く。初めこそは他の人には見えない異質な存在に恐怖したが、害がなければ存在しないのと同じだ。
だから、やつらは自分に手出し出来ない、ただの気のせいで、見えるだけの存在。生まれてからの十五年という年月は俺がそれに慣れるには十分だった。全部、なかったことにすればいい。そうすれば、俺は他の人と同じように、普通でいる事が出来る。そう、思っていた。
だが、人体模型に掴まれている感触が、それが幻想であったことを証明している。
つまり、これまで見てきたもの全てが現実に存在しているものだったと俺は理解した。してしまったんだ。
気のせいだということで折り合いをつけていたものたちが、気のせいではなかったと知ってしまった俺は……
……正気でいられるはずが、なかった。
動けないでいる俺に向け、人体模型のもう片腕が伸ばされる。
『失った肝臓を求め、今も日が沈む頃になると学校内をさ迷っているのです。自分の失った肝臓を求め続けて……』
求め続けて。その続きはどうなるのか。……決まっている。失ったものは取り戻さなければならない。
取り戻すには、自分のものを見つけるか……自らもまた、持っているやつから奪うしかない。そんな思考だけは働く自分が嫌になる。
あぁ、俺はここで死ぬのかな。なんて他人事のように思った。そんなのは嫌だ。心はそう思っている。だが、体は動かない。
足掻こうにも、足掻くことを体は拒否している。いくつもの今まで『見なかった』ことにしてきた存在が囁く。
『お前には逃げ場なんてないぞ』、と。
そうして、人体模型の指が俺の胸に触れて――――
――――直後、盛大な音を立て吹き飛んだ。
4
「――――なんだ、お前は」
まだ混乱から立ち直れない最中、人体模型を蹴り飛ばした人影から、そんなぶっきらぼうな男の声が聞こえた。
「……助かった、のか?」
安堵よりも先に、視線が動く。
吹っ飛んだ人体模型はぴくりともしない。腹に納まっていた内臓は廊下に盛大にぶち撒かれていた。続けて声をした方に目を向けて――その人影を俺は二度見した。
一言で言えば、その人物は変な人だった。
シャツとズボンは同じ学校規定のものであり、その男が生徒であるのはわかった。わかったのだが。
寝癖がついたままの、ぼさぼさ頭に眼鏡と無精髭。ズボンの裾を捲り、履いているのは学校規定の上履きではなく便所スリッパに見える。ネクタイを外し、シャツをだらしなく前開きにして、中には猫が蹲踞の構えで滝に打たれているダサいプリントTシャツ。その上に、薄汚れた白衣を羽織っている。
「……なに、この人」
「開口一番、とんだ挨拶だな」
大きなクマを作った死んだ魚のような目で、その男は不満を口にした。とんだ格好をしている人に言われたくない。校則をなんだと思っているんだろうか。思っただけで、俺は口を噤んだ。
「人……ですよね?」
「見りゃあわかんだろ。お前さんにはオレが怪物か何かにでも見えんのか?」
「すみません……」
「ふんッ」
不機嫌そうに鼻を鳴らし、その男はのっそりと人体模型へ近づいていく。
「何を……しているんですか?」
「見りゃあ、わかんだろ」
今度は本当にわからないから訊いたのだが、気怠げ
に同じ言葉を発した彼に答えるつもりはないようだ。
困惑する俺を余所に、彼はいやらしくニヤリと笑った。何がそんなに面白いのだろうか。
俺に構わず、じろじろとまるで品定めするかのような目線を男は俺に向けてくる。
「……なにか?」
「いや。お前さん、見慣れていると思ってな。少し気が変わった。一つ、いい事を教えてやろう」
「いい事……?」
「……『This Man』という昔、ネットやテレビで流行った都市伝説がある。知ってるか?」
唐突に、また都市伝説だ。この学校ではそういった話が流行っているんだろうか。実際、話を聞いた後に動く人体模型を見たので、決して馬鹿に出来ないのだが。
「いえ……。それってどんな話なんですか?」
「おう、そうだな……」
――――『This Man』
それは、十年以上も前に流行った都市伝説だ。
とあるサイトで、複数の人の夢の中に現れるという見知らぬ男が話題となった。見たという人によって描かれたその男の似顔絵はネットで世界中に広がり、テレビにまで公開された。そうしてしばらくすると、次々と世界中からその男を見たという報告が集められたんだ。
その目撃報告は優に二千人も超えたそうだ。
国も民族も、世界をも無関係に。多数の人の夢を渡り歩く、奇妙奇怪な男。それがThis Manという都市伝説だった。『だった』んだ。
……そう、過去形。この話には続きがある。話が広がってから数年後。この話自体が、ある企業の社会学だかなんだかの実験だったということが判明した。男の似顔絵は真っ赤な嘘。実際は実験の首謀者のただの顔写真を弄っただけのものだったって話だ。
それからというもの、This Manの目撃情報はぴたりと止まったらしい。
この話は単なる『嘘』で、それを信じた連中が勘違いしたってのがオチなのさ。
嬉々とそんな話を語り終えた先輩は、満足そうに口元を歪めた。
「この話を、お前さんはどう思う?」
「どうって……」
わからない。そんな話と、この動く人体模型とどんな関係があるのだろうか。俺には全く関係性を見出すことが出来ない。
ニヤニヤといやらしく笑い、彼は倒れた人体模型へ馬乗りになる。同時に人体模型は動き始めた。
「ッ! まだ動くのか!」
しかし、馬乗りになられた人体模型は藻掻くだけだ。男は構わず、人体模型の腹に残った臓物を取り出した。
一つ一つ、丁寧に。矯めつ眇めつ、まるで検品する業者のように丁寧に、迅速に。
辺り一面に消えた肝臓以外の臓器……腸、胃、肺……心臓。人を模造したそれらが生きているかのように蠕動して転がっている。生物特有の温もりすら感じるそれに吐き気を催したが、俺はその光景から目を離すことが出来なかった。
「……こいつらは、なんだろうな」
男は独りごちる。その答えを俺は持っていない。そんなこと、自分が知りたいぐらいだ。
「さっきのThis Man、オレはあの話に疑問がまだ残っているんだ」
――――創作物だったというオチまで聞けば、世間が与太話に踊らされていただけだったって思うだろう。実際、そういうことにするのが一番に平和に近い。
だけれど、本当にそうだろうか。
二千を超える人々が見たと言った男は、本当に気のせいだったんだろうか。世界中と言ったが、それはインターネットやテレビを見える国、見た人間に限った話だ。そういった見る機会がなかった人間からも聞き出せたら。一体、何人がThis Manを目撃していたんだろうな。
「昔から言うだろ? 『幽霊の正体見たり、枯れ尾花』ってな。だが、本当にそうか? 幽霊だと思っていたものが、よく見たら枯れ尾花だったからって、幽霊はいなかったと何故証明が出来る?」
「……それは」
存在するということは証明出来ても、存在しないということは証明出来ない。……確か、悪魔の証明と言ったか。今の俺には目の前の男こそ悪魔のように思えたが。
「ハハッ」
男の哄笑が静寂の校舎に反響する。いつの間にか、彼の手には高校生が持つはずもないものが握られていた。
医療用のメスだ。
メスだけではない。剪刀、鑷子、鉗子等。どこに隠し持っていたのか、あらゆる手術器具が彼の手に握られていた。
「――――人が他の動物より優れてる点。俺が思うに、それは『好奇心』だ。人は人を知りたいと思った時、人の腹を裂いた。心を知りたいと思った時、人の心を壊した。そうやって『好奇心』を満たし、人間は世界に繁栄をしてきた」
今であればこそ、極論だと思う。だが、この時の俺は、それが極論だとも思えなかった。完全に飲まれていたんだ。
「こういったよくわからないものが相手だろうが、それは変わらない。むしろ、人間にとってよくわからないものに対してこそ、好奇心というやつは発揮される。理解出来ないものが現われれば、無理矢理にでも理解しようとせずには居られないのが人間だ」
彼の言葉は、人と会話をしている気がしなかった。俺に言葉を向けているし、俺に対して喋っている。しかし、全く俺を見ていないような感覚。この人が何を考えているのか、俺には全くわからない。
だが、確かに……俺は先程、確かに知りたいと思ったのだ。
魅入られたように、俺は彼から目を離すことが出来ない。
「好奇心があったからこそ、人は他の生物を淘汰し続けれた。……仮定しよう。神も、悪魔も、天使も、妖怪、幽霊、怪物。あるいは名立たる英雄も。ありとあらゆる今は空想だとされるものが実際、こいつらと同じように存在していたとしたら? こいつらみたいなのがいるからには可能性はゼロじゃない。ならば何故、今は存在しない?」
そんなこと、わかるはずがない。しかし、やはり彼は俺などどうでもいいように、言葉を続けた。
「こいつらは、真実を暴かれた時に死ぬ。そういった存在なんだ。誰かの言葉を借りて言うのならば、こうだ。『神は死んだ――――――――俺たちが、殺したんだ』とな」
凶器を携えた彼は……一切迷いなく、人体模型へそれを突き立てた。
突き立て、ほじり、穿ち、切り刻まれる。鮮血が辺りに飛び散った。有り得るはずのない光景が繰り広げられる。その人体模型は生きていた。内臓を失い、抵抗する術も失い。それでもなお、生きようと足掻いていた。そんなはずはないのに。
俺は言葉を発することも出来ない。目を逸らすことも出来ない。『恐怖』より『好奇心』が勝っているのだ。彼の言う通りに。
これはきっと、人間が幾度となく行ってきた行為だ。神も悪魔も、こうして人間は殺し続けてきたんだと理解した。
人体模型は見る間に解体されていき、最後は……やはり、ただの樹脂の塊となっていった。
藻掻きも止まり、もう動かない。鮮血も存在しなかったように消え失せている。初めから、ただの人体模型だったように。ようにではなくそれが真実で、現実だったのだ。
真実は暴かれた。幽霊は既に幽霊ではなく、枯れ尾花となったのだ。
その行為に満足した男は、やはり口を歪ませ笑っていた。
好奇心は猫を殺す。そんな言葉が一瞬、脳裏に浮かぶ。だが、俺はこの人を『好奇心で猫を殺す』人間だと思ったのを今でも覚えている。
そうして、彼は俺を見て笑いながら……新たな『好奇心』を抱いた顔でこう言った。
「お前さん、良くないものに出くわさなかったか? 例えば――――取り壊された筈の旧校舎に現れる怪談語り、とかな」
ゾクリと背に悪寒が這った。
そして、ここでようやく俺は、昼に近江が言っていた『白衣を着た変なやつ』には関わるな、という言葉を思い出したのだった。
5
これが俺とあの傲岸不遜、唯我独尊、傍若無人を憚らない真砂坂優樹という先輩と出会った時の話だ。
これから様々な出来事に、主にあの人のせいで俺は巻き込まれていくのだが、それはまた長くなってしまうのでまたの機会があれば語ろうと思う。
この話はただの創作話にしか聞こえないだろうが、これは確かに俺にとっては現実の話だった。
狂言回しである俺には、この話を聞いた人が何を思ったかに、とやかく言う資格などない。
人が創作物に触れて感じ得たものは、その人だけの物だからだ。
少なくとも、俺はそう思う。
ただ……俺はこの話を聞いてくれた誰かに、二つの思いを抱いている。
一つは、優樹先輩の言うようにこの話が真に迫っ て、誰かが面白いと思えるように。
もう一つは……この話が読んだ者にとって、現実になってしまわないように。