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先生と私と一枚の絵

作者: 八木愛里

 田中先生はすごい才能の持ち主だった。


 黒板がキャンバスに早変わりした。美術の技法の話になって、「こんな感じだ」と言ってチョークを手に持った。流れるようにパンダを描いたと思ったら、立体的な人間の顔になったのだ。


 教室にいる生徒は田中先生の才能に驚きを隠せなかったはず。私はその授業を見てから、田中先生の絵のファンになった。



 田中先生は身長が高くて細い。黒板を上まで使っている授業は後ろの方で見ていても見やすい。


「先生って結婚しないんですか?」


 授業中に生徒の一人が田中先生に質問する。


「まだ俺は結婚するには若いぞ」


 田中先生は三十代半ばに見えるがまだ二十五歳だ。本人は老け顔を若干気にしていることを私は知っている。「そんなに老けて見えるかな」と呟いているのを聞いてしまったからだ。


「結婚したいんだができないんだ。大人の事情があってな」


 田中先生はチョークを置いて言った。


「大人の事情って何ですか?」


 他の生徒が興味半分に聞くと、田中先生は困ったように笑った。


「大人には色々とあるんだ。さあ授業に戻るぞ」


 軽く受け流した。さすが大人だ。生徒は残念そうに「はあい」と返事をする。美術の歴史についての説明が始まった。



 * * *



 家に帰ると、ラップで包まれた夕ご飯が残されていた。両親は共働きで、私が帰る時間にはまだ帰ってこない。小学生のときから鍵を持つ鍵っ子になった。


 最近は母親が仕事の疲れが残っているようで会話ができる雰囲気ではない。話しかけても空気のように無視されてしまうのだ。父親は私たちが寝静まるときに帰ってくるけれど、仕事のストレスを母親にぶつけてしまう。家庭環境は冷え切っているのかもしれない。


 時間を見ると、夕方の七時。まだ母親が帰る時間ではない。

 私は外に出ることにした。帰宅ラッシュの流れに逆らうように歩く。人々は自然と道をあけてくれるような気がする。


 中学校が見えてきた。生徒のいなくなった校舎は私を受け入れてくれるような気がした。校舎の裏口をすり抜ける。警備が甘いのか、私に気づく人はいない。


 背中を誰かに押されるように廊下を歩く。非常灯の緑色だけが暗闇に浮かび上がる中、美術室を見つけて入る。

 暗闇に目が慣れてきて、月の光だけで部屋の様子がわかるようになった。

 田中先生の絵が無造作に壁に立てかけられている。手前にあった絵が目に入った。制服を着た女の子の絵だった。


「私……?」


 微笑している姿は私に似ていた。そういえば最近笑っていない。記憶力が落ちているのか、最後に笑ったのはいつだったのか覚えていない。


 なぜ私の絵を田中先生は描いているのだろう。気になる生徒だったからだろうか。そう考えると思い当たることはある。授業中に熱い視線を送りすぎたのかもしれない。でも、この絵を他の人が見て、私だと気づかれたら少し恥ずかしい。


「誰かいるのか?」


 田中先生の声がした。見回りでもしているのか、ライトを持っている。美術室の中を照らしている。

 どこかに隠れようとしたが遅かった。


真尋まひろ……?」


 教室の電気をつけた田中先生は夢でも見ているような声で呟いた。


 どうして生徒の一人でしかない私の名前を知っているのだろう。


「いや、生徒か。彼女がこんなところにいるはずがない。寝ぼけていただけか」


 自分で否定して前髪をくしゃと触った。田中先生の顔が教師の顔に戻った。


「君、どうしてこんな時間にいるのか。閉校の時間は過ぎているから早く帰りなさい」

「ごめんなさい。私、田中先生の絵のファンで、どうしても近くで見たかったんです!」


 思わず言っていた。言い訳に聞こえてしまったかな。半分本心だけれど、半分は何かに導かれるように来てしまったという感じだ。

 田中先生は一瞬驚いたような顔をすると、目を細めて笑った。この笑い方が好きだったんだ。


「ありがとう。僕が絵を描くようになったのも、ちょうど君のような女の子から誉められたことがきっかけだった」


 照れたように笑う姿が、幼さの残る面影と重なった。


 ――田中くん才能あるよ! 個展でも開けるんじゃない?


 私の言った言葉が頭の中に落ちてくる。私は中学生なのに、どうして田中先生の中学時代を知っているのだろう。


「こんな時間じゃなくて、放課後にでも見に来るといい。美術部の活動がない日ならだいたい描きに来ているから」

「本当ですか!?」


 絵だけじゃなくて、描いている姿も見てもいいんだ。

 少し胸が暖かくなって、家に帰った。



 * * *



 早速、その翌日の放課後に美術室を訪れた。扉の隙間から覗くと、大きなキャンバスに田中先生は黙々と絵具をのせている。


「お邪魔します……」


 気持ち小さめに声をかけて教室に入る。


「ちょっと椅子にでも座って待ってて」


 田中先生の視線の先に四角い木の椅子があった。所々散乱している絵具を踏まないように注意しながら椅子に座る。


 筆を動かす音が少し耳に心地よい。

 夕日をバックにした男の子の絵を描いていた。夕日のオレンジ色が鮮やかで、男の子に陰があたっている。男の子は決意を込めたように握った拳を上げている。


 自分が見た夕焼けの中で、この絵の色が一番綺麗かもしれない。

 道具箱の中にバナーナイフのようなものが入っていた。立ち上がって見ていると「この道具に興味あるか?」と聞いてきた。頷くと少し得意げに説明し始めた。美術のミニ講座が開かれた。


「これはペンディングナイフといって、油絵で塗るときに使う道具だ」


 田中先生は灰色の絵具をペンディングナイフにたっぷりと取り、夕日に染まっているキャンバスにのせていく。


「油絵は乾くのに時間がかかるから、キャンバスの上で色を混ぜたり、引っかいてくぼみを付けることができて表現の幅が広い」


 ペンディングナイフの灰色が夕日に浮かぶ雲になった。水彩絵具とは違い、キャンバス上で色を混ぜるということは新鮮だった。


「パレットの上で絵を描いているみたいですね」


 小学生のときに色を作ろうとしてパレットの中で混ぜていたときのことを思い出す。色の混ざり具合は偶然の連続だった。


「君、それ以上近づくとスカートが汚れる」


 言われて気づいた。キャンバスまで数センチのところにいた。田中先生は呆れたように息を吐いた。


「ったく。乾くのに時間がかかると言った側から」

「すみません」


 素直に謝って絵から離れる。

 そういえば美術の先生の服装は少しラフだった気がする。カラーシャツに綿パンツみたいな洗濯が可能な服。汚れても平気な格好だったんだ。

 真剣に絵に向き合う姿を見ていると、質問が浮かんだ。


「先生はどうして絵を描くんですか」

「その質問は難しいな」


 筆を持つ手を止めて、田中先生は考える。


「見てほしい人がいるからだろうな」


 もしかして彼女かな? 田中先生がある一人の女性を思い出すような顔をしていたから。女の勘が警鐘を鳴らしていた。



 * * *



 日曜日。学校は休みだけど完全に寝過ごした。あっという間に日が落ちかけている。成長期なのか、いくら寝ても寝足りない。

 放置主義の母親が起こしに来ることはない。


 二階の自分の部屋から下を見下ろすと背の高いスーツの男性がいた。スーツ姿は見慣れないけれどすぐわかった。田中先生だ。


 家庭訪問でもないのにどうして家に来るのだろう。私のクラスの担任ではないので家庭訪問に来ることはないのだけれど。


 紙袋に入った何かを私の父親に渡そうとしているようだが、父親は頑として受け取らない。父親は怒ったように家に入るが、代わりに母親が出てきて何かを言った。田中先生は紙袋を渡すのを諦めて、母親がドアを閉めるまで深く頭を下げて去っていった。


「もう、来ないでくれと言ってくれないか!」

「あなた、気持ちだけでも受け取ったら……」

「あいつは親の苦しみを理解していない」


 父親と母親の声が聞こえる。少し前は多忙ながらも明るい家庭だった。でもどうして、重い空気の家になってしまったのだろう。



 * * *



 月曜日の夜、急に外の空気が吸いたくなった。気の赴くままに歩いていると、いつの間にか中学校に来ていた。


 下校の時間はとっくに過ぎていた。静かな校舎だった。中に入ると胸の中に空気が入ってくるような気がした。美術室まで歩いて行くと、教室内の電気がついていた。


 こっそり中を見ると、田中先生が絵を描いていた。エプロンを着けて、筆を叩きつけるようにして絵の具をのせている。全体的に青い絵で、青い炎が揺れているように見える。

 田中先生の感情のようだった。吐き出したいけれど、言葉にできない悔しさを絵にぶつけている感じがした。


 見てはいけないものを見てしまったのだろうか。

 ペンディングナイフで所々にかすり傷を付けて、憑き物が落ちたように手を止める。荒くなっていた息を整えるように、深呼吸を繰り返している。


「いたのか……」


 田中先生はチラと私を見た。気配でバレていたらしい。


「田中先生が、感情的に絵を描くところを初めて見ました。田中先生らしくないです」


 このまま見なかったことにはできないと思った。


「どういうことだ」

「柔らかいタッチで、人の表情を細かく描くところが田中先生の持ち味だと思っていました。」

「君は僕の良いところだけしか見ていないのではないか?」


 吐き捨てるように田中先生は言った。


「田中先生の女の子の絵を見たことがあります」


 最初に忍び込んだときに見た絵だ。私によく似ていて微笑していた。


「それは……」


 苦しそうに眉を寄せた。


「あんな笑顔が描ける人が苦しそうな顔をしてほしくないです」

「……僕は彼女を死なせた」


 これで納得だろう、というように田中先生は私を見てくる。私は田中先生――田中くんのせいではないことを知っている。

 過去の映像が頭の中でフラッシュバックした。

 


 * * *



 田中くんは不思議な男の子だった。いつも涼しい顔をしているのに、美術の時間は真剣になって絵を描いている。時間を忘れて描いているようだったので「授業終わってるよ」と声をかけた。


 田中くんの絵を覗いてみたら、彼の世界が広がっていた。「田中くん才能あるよ! 個展でも開けるんじゃない?」と冗談っぽく言ったら、田中くんは恥ずかしそうに「ありがとう」と言った。


 つき合うまで時間はかからなかった。家まで送ってもらって母親と鉢合わせしたときには、律儀に挨拶してくれた。嬉しくって舞い上がっていたのかもしれない。


 一緒に帰ろうと言って、校門の外で待っていた。田中くんは先に帰ってほしいと言ったが私は「待ってる」と言ってしまった。

 トラックの運転手が余所見をしなければ、私が校門の外にいなければ、私が一緒に帰ろうと言わなければ、こんなことは起こらなかった。事故というものは悪い偶然が積み重なるもの。

 トラックが校門に衝突して、私も巻き添えになった。その時に死んでしまったのだ。


 両親は誰かのせいにしないと耐えられなかったのかもしれない。その矛先が田中くんに向いてしまった。どれだけ田中くんに重荷を背負わせてしまったのだろう。この十年間どんな気持ちだったのだろう。ペンディングナイフでつけられた傷は田中先生の心の中を見てしまったようだと感じた。


「君……」


 黙ってしまった私に田中先生が声をかける。

 私は一体何者なのか。中学校の生徒ではなかった。視覚と聴覚のある思念体――幽霊だった。でも本当に神様がいるのなら感謝したい。私の姿は田中先生だけに見えているようだから。


「きっとその彼女は田中先生のことを恨んでいないと思います。だって田中先生の心の中ーー絵の中で存在し続けているような気がするから」


 田中くんの記憶の中に私はいた。


「私がその死んでしまった彼女の立場だったら、こう言うと思います」


 少し唇を噛む。これから言うのは残酷な言葉。だけど言わないといけない。


「忘れてほしいと」


 田中先生を縛るものから解放されてほしかった。


「どうして君が泣いているんだ」


 言われて気づいた。風景が歪んでいた。涙が頬を伝って下に落ちる。だけどその涙は床を濡らすことはない。

 田中先生は女の子の涙を見て落ち着かない様子になった。ハンカチを取り出して差し出してくるが、私は「大丈夫です」と言って断った。幽霊だから受け取れはしないけれど。


 言いたいことは言ってしまった。後悔はなかった。目を閉じると体の力が抜けてくる。この世の未練はもうない。

 焦ったように呼び止める田中先生の声が聞こえたような気がしたが、時間がなかった。

 キャンバスの夕日が目の前に広がり、吸い込まれていくような感覚になった。



 * * *



 目を開けると強い光が入ってきた。光というものを久々に見た。


「お父さん、お母さん……」


 口の中は乾いていて、吐息だけの声が出た。体は重くて、手を動かそうとすると痛みが走った。腕には何本もの管に繋がれていた。


「十年間も眠っていたのよ。どれだけ心配かけたと思っているの!」


 お母さんは怒ったように言って、私を強く抱きしめた。私の知っているお母さんよりも老けていた。お父さんは黙っているが、涙をこらえているようだった。

 両親が医者に呼ばれて病室を出て行った。


 長い夢を見ていたような気がする。一枚の絵に吸い込まれるという夢だ。夕日の絵だった。夢の内容はよく覚えていない。

 微睡みかけていたところにノックの音がした。


「真尋さん」


 息を切って現れたのは田中くんだった。背が伸びて大人になっていた。でも田中くんだと一目でわかった。


「夢の中で、ずっと誰かに呼ばれている気がしたの」

「僕も君が出てくる夢を見たよ」


 田中くんが私の手を握った。田中くんの手は少し冷たかった。


「私の出てくる夢って、どんな夢なの?」


 私は夢の内容までは思い出せなかった。


「僕は君の絵を描いていた。そんな僕に君は言うんだ。『どうか忘れてほしい』と。でも僕は忘れることはできなかった」


 もし忘れてほしいと私が言ったとしたらどんな気持ちで言ったのだろう。十年経ったら、他の彼女ができて結婚していてもおかしくはない。次に進んでほしいと背中を押したかったのだろうか。


「君が僕の心の中に住み込んでしまった。忘れることができるはずがない。もうそんな悲しいことは言うな」


 田中くんは私の手を強く握りしめていたことに気づいて、そっと離した。


「うん……。そうだね」


 訳がわからなかったけれど、田中くんの真剣な顔に何も言えなくなった。

 体を起こそうとすると、田中くんは慌てて「大丈夫?」と声をかけた。その時に銀色に光るものが見えた。カーテンから漏れる太陽の光に反射していた。


「田中くんのポケットにバターナイフみたいなもの入ってるよ」


 ズボンのポケットから銀色のバターナイフの先が出ていた。田中くんは「君が目覚めたと知って、急いで来てしまったから……」と恥ずかしそうに笑った。


 そういえば変に不器用なところがあった。大人になったのに可愛いところが残っていてよかった。嬉しくなった。久々に嬉しいという感情を思い出した。


 バターナイフは夢の中で、絵を描く人の持っていた道具に似ていた。その人の顔は思い出せなかったが田中くんのような暖かい雰囲気の人だった。

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[良い点] タイトルが気になって読ませてもらいました。 感動しました これだけ短い文章の中でそれぞれの想いが気持ち良く表現されていて最後にはあぁ、良かったと思わせて頂きました。 良い作品をありが…
[良い点] 読み終わったときに、今までの疑問や矛盾が浄化され、一枚の絵が完成したときのような清々しい気持ちになりました。 田中先生が絵を描くシーンも描写がていねいで、油絵を描いたことのない私でも想像…
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