挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

おかしな短編

何人いる

作者:井川林檎
桂小五郎さんは、お若い頃から優秀で、たいそう活動的な方でした。
江戸遊学中の時など、大変な多忙ぶりだったようです。
 酒がずいぶん回ってきたようだ。
 芸者はゆるゆると三味線をつまびき、伏目の下で客の様子を探るのだった。

 既に宵であり障子の外は薄暗い。
 開け放しの縁からは虫の音が聞かれている。

 思いの他、闇が薄いのは月夜だからだろう。
 酌はいいから三味を、と言われてそのようにしているのだが、客は膝を崩してからは猪口にも手を触れようとしない。真っ赤にできあがった顔は苦し気であり、どろんとした視線がしつこく芸者に絡みついている。

 (二度目のお客さんだけど)
 物慣れた芸者は眉一筋動かさない。
 (それに、生真面目で良いお人なのだけど、過ぎている)
 酒が。

 その、過ぎた酒のために、若い客はついに尻もちをぺたんとつき、姿勢を完全に崩したのだった。
 大柄なからだが揺れ動き、行燈の橙の光に照らされて、長い影が濃く薄く壁に伸びている。

 「お水を飲まれますか」
 と、芸者は言い、客は構わんと答えた。
 そろそろ時間なのだ。客はずいぶんだらだらと飲んで過ごした。
 お座敷のほうは、いつまで居ても良いのだか分からないが、とにかく芸者の方にも都合があった。

 ほーう、ほう、と、夜の鳥の鳴き声が聞こえてくる。
 月はどれほど昇ったか。芸者はしかし、そんな内心などおくびにも出さずに、真っ赤になった客の様子を見ていた。

 ほかの御座敷から、どっと笑う声が聞こえてくる。
 大勢の宴なのだろう。
 この小部屋は、この若者と芸者の二人である。若い客は初心らしく、飲み始めてからずっと押し黙り、ただ三味線を聞きながら手酌をしているだけだった。

 「思う所がおありなのですか。なんでもお話してごらんなさい」
 と、芸者は水を向けてやった。
 若い客は真っ赤な顔を更に赤くすると、咳ばらいをした。体を傾けて、微妙に距離が縮まっている。
 芸者は若い客の吐く、酒臭い息が肌に当たるのを感じた。


 「薄気味の悪い男がいるのだ」

 ぼそっと若者は言った。
 太い手指がとんとんと畳を叩いており、まるで虫が這っているようである。
 行燈の光で陰影ができた顔の中で、目が落ち着きなく辺りを気にしている。

 ここには誰もいませんよと芸者は静かに言った。
 そして、非常にさりげなく、三味線を袋に片づけ始めていた。
 どのみち、もう時間なのである。この男は酔いつぶれかけているのだし、押しつけがましい片恋の打ち明け話であろうと、人間関係の不満だろうと、なんでも聞いてやってひとまず満足させたら、すぐにでも去るつもりだ。

 誰もいませんよと芸者は言ったが、やや間を置いて、男は言った。
 「分からん。あいつなら、どこにいてもおかしくはない」

 それ、そこに――と、畳についていない側の手で芸者の尻の下に敷かれている座布団を指さした。

 「その紫の座布団の下に平たくなっているかもしれないし、あるいは」

 と、どろんと酔った目で天井を睨みあげ、荒い息で続けた。

 「忍者のようにあそこから覗いているかもしれぬ。それとも」

 と、料理や酒の乗った膳の下、ちょうど自分の崩した足のあたりを、心底ぞっとするように見て、酔っ払いは言ったのだった。

 「この下から、ぬうと顔を出して、やあこんにちはと笑うかもしれない」
 やあ、こんにちは――綺麗に結った髷と涼やかな目元がにゅっと畳から生えてきて、にこにこと――奇遇だねえ、ここでも会ったか、僕たち気が合うんだねえ……。

 かちゃ、びいん、と、袋にしまわれた三味線が微かな音を立てた。
 さらさらと光るかんざしが横顔にかかり、芸者はこころもち視線を鋭くさせる。
 紅を塗った唇はしかし、やんわりと微笑みを刻んでいた。

 やあこんにちはと笑うだなんて、そのお化けさんは陽気なお化けさんですねえと芸者は言った。
 お化けではないのだと、むきになって男は言い返した。

 「妖怪の類だとはっきりしてくれたほうが、どんなに心休まるだろうか。ところが奴め、尻尾を出さない。まるきり一人の人間のような顔をして、涼しい顔をして、今朝の手習いでは俺の隣席にいたくせに、俺がこっそりさぼって出て来た先の茶屋では既に奴が団子を喰っていたりする。そんなことは日常茶飯事なんだ」

 さっきまで、あそこにいたはずなのに。
 もうそこにいる!しかも、その茶屋の娘と、俺より親し気だ。
 ……。

 「それどころじゃないのだ。水練池で、俺たちが泳いでいた時に、あとから来たあいつが、どうれ僕もと、ばさばさとその場で脱ぐだけ脱いで、じゃぼんと入ったと思ってくれ」

 水練の池で、「あいつ」たる人物が遅れてやって来て、やあ僕もと笑顔で着物を脱ぎ散らかしたと思ったら、じゃぼんと飛び込んだ――随分、自由な気質だこと、と、芸者は微笑んだ。

 「先生は怒らなかったんですか」
 と、芸者がまるでとんちんかんなことを尋ねたので、若者は鼻息を、ふん、と吐いた。
 先生はたまたま席を外していたのだ、その合間に、実に要領よく、奴は現れて仲間に入ったのだ――ええい。

 「じゃぼんと飛び込んで、しばらくたっても頭が出てこない。どうも変だと俺は思ったが、奴については俺よりよく知っている先輩方は、まああいつなら大丈夫だろうと笑うばかりで何もしない。そのまま水練は終わり、午後の手習いが始まった」
 わなわなと酒客の手が震え始めている。目が血走っている。

 「先生が漢詩を読み始めた時は、確かに隣席に奴はいなかった。ところが」

 授業が始まって半刻ほど。
 前に座る先生が指名し、これの意味を申せと言った。
 指名されたのは、かの男だった。
 ごくふつうにその男は「はい」と返事をし、すらすらと問われたことを答えたという。

 「本当に、さっきまでそこにいなかったのだぞ」
 がたがたぶるぶる。
 酒客の団子鼻には油汗が浮き始めていた。
 芸者は白塗りをした頬に手をあてて、ふふと笑った。

 「さぞ、涼し気な横顔だったことでしょうね」
 と、芸者は言った。男は何も気が付かないまま、がくがくぶるぶる震えながら答えたのだった。

 「ああ、確かに男前だからな。まるで何もなかったかのように、涼し気な顔をして、一糸乱れぬ姿で、そこにいるんだよ」

 そこにいるんだよ!
 男は叫んだのだった。

 夜、そっと遊びに出て歩いてみて、誰も知り合いがいないだろうと入った店にも、奴が先に入って飲んでいる。

 「やあ、奇遇だね、あっは……」

 それで、とてもそこで遊ぶ気になれなくて、入りかけたのを逃げて出て、すぐにまた他の店に入ってみたら、すでにそこにも見覚えのある姿が座っている。

 「あれ、また君か、あっは……」

 また君かじゃねえよ、こっちはお前と一緒なのが嫌だから逃げ回ってるんだよと言いたいのを喉で堪えて飛び出して、仕方なく壕の手前のうどん屋に入ったら、またあいつが座っていて、しかも親父と気心が知れた風に喋っているのだった。

 「江戸じゅうの酒を飲み尽くすんじゃねえだろうな」
 と、無口で頑固と評判の親爺が冗談を言っているではないか!
 はっは、まさか、僕でもそんなに飲めないよと彼は気さくに答えながら、今更のように振り向いて、微笑むのだった。

 「やあやあ、君か。よく会うね、あっは……」
 ……。



 芸者は微笑んでいる。その眼は男を見ているようで、まるで別のなにかを映している。
 酔っ払いはやけくそのように続けた。

 こんなことばかりだ。
 厠に行ったら、二回に一度の割合で奴がいて、明らかにぶりぶりぶりゅりと大きな音をさせたくせに、出てくるときは涼やかで海風のような爽やかな笑顔なのだ。

 「僕たちどこでもよく会うなあ。はっはっは……」



 お勉強や剣のお稽古はどうなんですかと芸者はきいた。
 客は答えた。

 「嫌になるほどできる奴だよ。とんでもない化け物だ。あいつはどこかおかしいよ。なんでもできる上に、金があって、しかも誰とでもよく喋り――とにかく、わけがわからないのだ」
 自分がどうしてあいつをこんなに薄気味悪く思うのかも、わからんのだ。ああ!

 「どこででも出くわすから気味が悪いのだろうか。よもや何人でもいるのやも知れぬ。ぶぶぶ、分身、分裂だ」

 障子をひらけば、そこにいる。
 厠の戸がひらけば、奴がいる。
 泳いでいたら、奴が出る。
 風呂に入れば、奴がぬぅ~。
 茶を頼んだら、既にそこには奴がいた。

 「あっちもこっちもどっちもそっちも、いるんだよ」
 これは一体、俺だけなのか。他の奴もみんな、あいつにやたらと出くわしているんだろうか。
 訳が分からない!

 わなわなと震えながら男は怒鳴った。
 唾を飛ばしている。
 芸者はそっと体をずらして唾を避けた。

 天井裏にも、畳の下にも、縁の下にも、どこかに必ず奴がいる。
 なぜなら、この店に入って未だ、奴が現れんからな!

 「あああっ、さては、さてはおぬしが奴だろう」
 いきなり客は、芸者を指さした。
 完全に酔っぱらっている。日頃の鬱憤が破裂したのだろう。逆上のあまり男は立ち上がり、芸者に掴みかかろうとした。

 「おまえ、変装までするようになったか、なんでそんなに似合ってるんだ」
 こんちくしょう、桂め!
 ……。



 唐突に、酔っ払いは横に倒れた。
 気配なく開いた障子からは、すらっと丈の高い侍が入っており、立膝をついている。酔っ払いはその足元で潰れていた。
 もう少しで芸者に掴みかかるところだった男を、ぴいんと張った手刀で叩いたらしい。
 がすんとも、ぐしゃっとも音がしなかったところを見ると、そんなに力を使ったわけでもなさそうだ。

 立膝をついたまま、自分の手を撫でさすっている若侍に、芸者は花のような微笑みを向けた。
 「やあれやれ、ちょっと酒が過ぎるようだな」
 明日、手習いの時に顔を合わせたときにでも、ちらっと言っておこう。

 涼やかな顔の若侍は苦笑して、潰れてそのまま眠ってしまった酔っ払いを眺めた。
 するっと芸者は立ち上がる。
 若侍も何食わぬ顔をして立ち上がる。
 二人は目を見合わせて微笑み合った。

 「迎えに来てよかったなあ」
 と、若侍はさりげなく三味線を持ってやる。
 二人はそのまま廊下から縁に出る。縁の下には、ちゃんと履物まであった。

 りいんりんりん。
 虫の音が鳴る夜だった。
 月はどこまでも明るい。
 まだしつこく続く、どこかの御座敷からは、底抜けに陽気な歌が聞こえていた。

 「ずいぶん活発な日々を送っておられるご様子ね、小五郎さん」
 あなた、一体、なんにんいるの……?

 芸者の冗談めかした問いかけに、若侍は海風のように爽やかに笑ったのだった。

 「桂小五郎は一人しかいない。当たり前じゃないか」
 あっはは……。



 うーん、ここにも桂、そこにも桂。
 座敷で伸びた酔っ払いがうなされているのが、小さく聞こえた。
長編「小五郎のおんな」を執筆する準備として
資料をまとめているところなのですが、
しょっちゅうおかしな方向に妄想が走るので、
たまにバカな短編を書き散らかすかと思います。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ