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金魚さん

作者: 綾瀬数馬

 オチのない、ただそれだけの話です。

 この僕、緋舟千尋(ひふね ちひろ)は金魚鉢職人である。

 と言って格好をつけてみたらそれなりに見えるが、その実はとてもじゃないけどまだ職人とは呼べない見習いである。とある金魚鉢職人に弟子入りしてはや五年。多少なりとも師匠に認められつつある時のことだった――例によってその師匠が心臓発作で死んでしまった。

 前触れもなく突然ぽっくりと。

 あの人らしいと言えばあの人らしいが、独り立ちすら出来そうもない俺からすれば勘弁してほしい話である。これを言うのはやや不謹慎だが、不幸中の幸いな事に、彼の遺品は全て僕が受け継ぐことになった。仕事道具から仕事場まで全部が全部、僕のものになった。どうにもこうにも弟子に存続させると記した遺書十九枚のうち、最初に発見されたのが僕宛てのだったらしい。あの頑固親父らしからぬお茶目っぷりだが、あの人もまさかこの僕が継承者になるとは思ってもみなかっただろう。今頃あの世で後悔しているに違いない。現に僕が跡を継いだその日に、総勢十八人の弟子が出て行ってしまった。

 まあ何も何から何まで嫌な事ばかりではない。決して少なくない財産のおかげで当分は修行に専念できるし、何かあれば師匠の遺作を売ればいい。そして、何より素晴らしいものを手に入れた。

 おそらく過去にも未来にも二度と見えることができないであろうそれは――


「…………」

「――痛っ!!」


 とある梅雨の日、今日も今日とて、修行に励む僕の後頭部に鋭い痛みが走る。あまりの衝撃に竈の中に顔を入れかける。ほんの一瞬だけではあるが死の淵に立たされてしまった。痛む頭を摩りつつ、後ろを振り向くとそれは立っていた。


「へたくそ」


 それの首元に引っ掛けられたスケッチブックに拙い字でそう書かれていた。両手に金魚鉢を持っているあたりから、随分前から書いていたようだ。いや、ちょっと待て。まさかそれで僕を殴ったとでもいうのか? 


「あ、えっと、おはようございます」


 作業を中断させて、それに軽く会釈する。するとそれも金魚鉢を下して、「おはようございます」とスケッチブックに書いた。

 彼女の名は鉢屋金魚(はちや きんぎょ)。師匠から譲り受けた財産権、この工場の管理者だ。切り揃えた前髪に、無造作に伸ばされたうねる漆黒の髪の毛。ジクザクに切裂かれたシャツは残念だが、透き通る肌――心なしかくすんでいるようにも見えるが――に散りばめられた赤や黒との対比を考えるとなかなか良い格好である。その中でも群を抜いて特徴的なのは、小振りの顔を覆い隠すように被った金魚鉢だろうか。


「ちひろ。ごはん」

「もうそんな時間か。ええと、どこに置いていたかな……お、あった、あった」


 棚の上に置いてあった緑色の小袋を開けて、少量だけ匙に乗せる。その間、彼女は金魚鉢を外しておく。お互い食事の準備を終えると、茶色いそれをそのまま彼女の口に持っていった。彼女は躊躇いなく飲み込むが、すぐに顔を歪ませる。まだ入れ方が浅かったらしい。次入れるときはもっと奥にまで匙を入れなければ。


「ごちそうさまでした」

「いえいえ」

「ところで、ちひろ」

「なんですか? 金魚さん」

「そうじ、して」

「ん?」


 掃除?

 はて、朝起きた時に一通り済ませたはずなのだが、どこかし忘れていただろうか。恐る恐る、「ええと、掃除ってどこを?」と訊ねると、金魚さんは黙ったまま僕の腕を引っ張った。されるがままに彼女に連れられて辿り着いたのは大浴場だった。ここも掃除をしたのだが、甘かったのだろうか――って。


「金魚さん!? あなた何やっているんですか!?」


 いつの間にか、金魚さんは服を脱ぎ捨てて、一糸纏わぬ姿になっていた。掃除と言うのはまさかお風呂のことだったのかい。

 混乱する僕をよそに、金魚さんは水槽に道具やらなんやらを入れていく、そして、被っている金魚鉢と共に僕に差し出す。


「これ、あらって」

「ああ。なるほど……そっちでしたか」

「それがおわったらからだあらって」

「うん……分かりました」


 郷に入っては郷に従え。

 ここに来て短いが、さっさと慣れた方がよさそうだ。



 金魚鉢の掃除を終え、浴室に入ると、彼女はただ椅子に座って待っていた。洗おうとした形跡は見られるが、やはり失敗に終わったようである。器用なことに、彼女の周囲のみが泡で溢れかえっていた。


「うわあ……盛大にやらかしましたね、金魚さん」

「ん」


 僕の存在に初めて気づいたのか、すくっと立ち上がり、こっちへ向かってきた。やや駆け足気味で、いつ転んでもおかしくなさ――

「金魚さん!?」考えた矢先に彼女の足が宙を浮く。それに気づくよりも早く、僕の手が伸びる。「あ、危ない――っっ!!」

 耳元で何かを引き裂くような音がする。いや、ようなではなく実際にそうなのだろう。頬から感じる熱が果たして湯の所為なのだろうか。

 彼女の安否を確かめたかったが、彼女が乗っかっている所為で確認のしようがない。怪我をしていたらあまり動かさない方が良のかもしれない――しかし、とりあえず僕は動けないと対処ができないし、そもそもどこに連絡すればいいんだ……と、半ば混乱に陥っている時だった、突然腕を引っ張られたかと思うと、掌にひんやりとした感触が広がる。


「けがない。そっちは?」

「うん……僕は大丈夫、じゃないかなあ」

「よかった」

「…………」

「…………」

「あのう……金魚さん? 降りていただけないと僕はあなたを洗うことができないのですが」


 いつまで経っても動く気配がみられないので、しびれを切らせて催促する。すると、のそのそと動く気配がする。緩慢な動作の所為で、異様に長い髪の毛の一房一房が僕の背中をくすぐった。


「ところで金魚さん。この季節だと、髪の毛がウザったく感じませんか?」

「…………」彼女は鏡の上に指を滑らす。「うん」

「なら、髪を切ってみてはいかがでしょうか。僕、昔から髪を切るのだけは上手いと言われているんですよ」

「なぜにならなかった?」


 素早く鏡に書き込む。ならなかったと言うのは、理髪師にと言うことだろうか。


「どうやら、将来の安寧よりも可能性の幅を優先する人間だったらしくて」

「そう。それは災難だ」

「ええ。全く――で、髪の長さはどれぐらいにしますか?」

「まだ、きょかしていない」

「おやおや。僕としては短い方が似合うと思いますよ?」

「…………」


 書くのが面倒になってきたのか、あるいは、指が鏡に届かなくなったのか、首を振る彼女。揺れる髪が海草のようで面白い――と、これは女の子に対して言う台詞じゃないな。

 彼女が反応しない以上、話のしようがない。僕は黙って彼女の体を洗った。しかし、いつ見ても金魚さんの肌は綺麗だ。まあ、師匠の忘れ形見に手を出すほど僕も落ちぶれてはいないけども。あの人のことだから、あの世からでも祟ってきそうだ。


「――はい、これで終わり、と。随分さっぱりしたでしょ?」


 髪を乾かし終えると、金魚さんの髪を二つに結う。切りたい衝動は収まらないが、これはこれで新鮮味があっていい。彼女も気に入ったのか、髪の毛で遊んでいた。


「はい、金魚さん。水槽」


 洗ったばかりの水槽を渡すと、受け取った彼女は小さな口を開けて水槽の中身を呑みだした。


「ごくごくごく」


 彼女の透き通った喉に赤や黒のそれが流れていく。五リットル近くの水を飲み干すと彼女は満足げに口を拭った。

 一糸纏わぬ彼女の中で蠢く金魚は、優美で、時間を忘れてこのまま一生眺めてしまいたかった。


「ちひろ、あめやんでる」

「……ん。あ、本当だ」


 実際は小雨なのだが、ついさっきの雨を見れば止んだと言って良いかもしれない。


「わたしもまっか、ちひろもまっか、そらもまっか」


 そう言って、タオルで俺の頬を拭う。かなり出血していたようだ。よくもまあ、貧血で倒れなかったものである。


「きょう、ふかみさんがはなびたいかいやるからこいっていってた」

「深海さんが? また、知らない人の墓前でやるつもりなのか。何回怒られても懲りない人だなあ」

「きんぎょちゃんはひけしにやくだつからぜったいこいって」

「今夜は乱闘事件が起きるから、金魚さんはお留守番していなさい」

「…………」


 口を尖らせる金魚さん。なだめようとすると、外から件の深見さんの声が聞こえた。


「…………!!」


 瞳を輝かせると、裸のまま駆け出した。


「あっ、ちょっと! 金魚さん!!」


 慌てて追いかけるも、彼女の足は思いのほか速い。深海さんがこの程度で動じる人でない事は知っているが、動じないからこそ何をしでかすのか分かったものではない。

 ふと、空を眺めると、彼女の言った通り夕暮れは金魚のごとく橙に染まっていた。


 彼女、鉢屋金魚はちょっと変わった金魚鉢である。

 今回はただそれだけの話だ。



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