8:身ばれ
「メル? メルだろ?」
ふらふらとグラノが近付く。伸ばされた手も発せられる声も弱々しく震えていたが、目だけはしっかりとメルを捉えていた。
「なんで………」
思わず飛び出した呟きに咄嗟に口を押さえるが時既に遅し。
グラノの真剣な眼差しがギラリと強まり、メルはそれに怯えた。
(お、怒られる)
震えていた筈のグラノの手は己を力強く捕えんと迫り、メルは思わず目を固く瞑る。張り手でも食らうか、それとも腕を捩じ伏せ地面に頭を押し付けられるか。盗人である灰色ネズミをあの優しいグラノが一体どのように扱うのか全くの未知であり、メルは次に起こる事を戦々恐々と待った。
そしてグラノはメルの予想とは全然違う行動へと出る。
「この感覚、香り……やっぱりメルだ」
「グ、グラノ!?」
伸びてきた腕はメルを引き寄せグラノの胸の中へと誘った。抱き締めるというよりは、一回りも二回りも小さいメルの身体に凭れかかるグラノ。あまりに予想外な展開に声を上げるが、グラノの方はメルの首筋へと顔を埋めて動物のように鼻をスンスンと動かすばかりでまともに反応を返さない。
メルの混乱が時間と共に段々と収まってくるまでそうしていたグラノはようやく顔を上げ、青い瞳をウルウルと揺らし泣き笑いのような表情をメルに見せた。
「心配したんだよメル。怪我はしてない? 寒くはなかった? お腹は減っていないかい?」
「……うん、大丈夫」
ネズミの時と変わらない優しい仕草で頬を撫でるグラノに、メルの心がほっこりと温かくなり安堵に包まれる。寝床の天井裏やシンデレラの近くよりも彼の隣は安心を与えてくれる。思わず緩むメルの口元を見たグラノも蕩けるように微笑んだ。
「メルはネズミでも人間でもその愛らしさは全く変わらないんだね、どちらもとても魅力的で脳が痺れてしまいそうだ」
「うん、それでなんで私が分かったの?」
これぞ王子様!な口説き文句のような台詞は世の女性ならば誰もがそれこそ痺れて惚けるだろうが、残念ながら灰色ネズミのメルにはあまり通用しない。メルのいい雄の基準は足の速さとか軽快な身のこなしとか毛艶とかである。
しかしグラノの方もメルのスルーを全く気にしてはいなかった。なぜならグラノが口にしたのは口説き文句などではなく全て本心なのだから。
「理屈じゃないんだ。僕はメルがどんな姿であろうと見つける自信があるよ」
「やっぱりグラノは凄いね! 流石王子様だね!」
“王子様”という役職の神秘に浮かれたメルは、頬にあったグラノの手を取りピョンピョンと嬉しげに飛び跳ねてみせる。グラノもそれを微笑ましそうに目を細めて見守っていたが、ふいに顔を引き締めた。
「僕は愚か者だ。メルに逃げられたと思い込み、怒り嘆いていたんだから」
怒り嘆いていたという言葉にメルはハッと身を強張らせる。再会を喜んでくれたものの、やはり腕輪を盗んだことを許された訳ではないのだと。
「キミを捜している間気が狂いそうだった。捕まえたら今度は絶対逃がさないよう檻に一生閉じ込めておこうなんて醜悪な考えで一杯だったんだ」
「ご、ごめんなさい……」
自分は無期禁錮となるのかと思うと急にグラノの側がずっしりと重く感じる。しかし彼はそんなメルにゆっくりと首を横に振る。
「メルが謝る必要なんてこれっぽっちもない。僕の為に人間にまでなってくれたメルの想い……キミを信じなかった僕が愚かなのさ。どうか許しておくれ」
よく分からない言葉に首を捻るメル。人間になったのはグラノの為ではない。何故自分まで人間にしたのかと問い詰めるメルに魔女は『ヒヒヒ。メル、お前さんも楽しんでくるといいさね』なんて怪しく笑っていたのだから、完全に彼女の気紛れであろう。
「……でも私、腕輪を盗んだんだよ? 怒らないの?」
「ああ、そういえば腕輪も持って行っちゃったよね。あんな物どうするんだい?」
恐る恐る訊ねるが、なんでもないようにあっけらかんと訊ね返されメルは困惑する。
「えっと、東の森の魔女との契約だったの。腕輪を盗み出せば魔法をかけてくれるっていう。私はその為に城へ忍び込んでいたの、ごめんなさい」
メルがペコリと頭を下げるとグラノは目を丸くさせて驚いていた。
「魔女に魔法をかけて貰う為に城へ忍び込んだ?」
「う、うん」
唖然としたまま喋るグラノにメルはしゅんと項垂れる。彼女が元の姿であったのなら、きっと長い尻尾も丸い耳もヘニャリと垂れていることだろう。
「つまりそれは怪我以前からメルは僕の事を………だから人間の姿で会いに来てくれようと?」
「は?」
「ああ、なんて事だっ!」
突然叫び声を発し頭を抱えるグラノに驚きビクリと肩が上がる。
「僕がもっと早くメルの存在に気付いていれば、キミが危険な目に合ったり怪我をする事なんてなかったのに! ごめんよメル………嗚呼なんて愛しい人、キミの一途な想いが胸を締め付けて苦しいよ」
何やら涙ぐんでは一人で盛り上がるグラノに唖然としていたが、唐突にガバリと身を包み込むように抱き締められる。そのままギュウギュウに締め付けられて益々唖然としてしまうメル。
「あの……でも、腕輪、魔女に渡したからもう返せないんだけど………」
「そんな物どうでもいい。メルが望むなら世界中のあらゆる宝を贈ろう」
そんな物と言われてメルは度肝を抜く。腕輪は一番高価なものだと話していたのに、あれは聞き間違えだったのか、いや確かに聞いたのだが。グルグル考えが脳内で回るメルを抱き締めるグラノから、ふと笑いが漏れる。それがあまりに嬉しそうな声だったので、少し苦しい抱擁にもメルは文句を言うのを止め我慢した。
「僕が目一杯抱き締めても、これでもう潰れてしまわないね。なんて幸せだろうか。これからはずっと一緒に居ようねメル」
「ずっと? でも私は……」
十二時を過ぎれば元の灰色ネズミに戻ってしまうよ、と告げようとしてメルは最も大切な事を思い出した。
(シンデレラ!!)
正体を見破られたことですっかり頭から抜けていた存在に焦り、ネズミサイズな可愛い己の脳みそを恨んだ。
「グラノ! 急いで舞踏会に戻って、こんな所に居ちゃ駄目じゃない!」
腕の中で突然ジタバタと暴れ始めたメルを不思議そうに覗き込むグラノ。
「急にどうしたんだい?」
「舞踏会に戻ってダンスを踊って!」
シンデレラが変身して任務を達成した気でいたメルだが、肝心のグラノが舞踏会の会場に居ないのでは今までの苦労は水の泡なのだ。しかしグラノはやはりまだ分かっていないようで、何故だかパッと花が咲いたように楽しげな顔つきに変化する。
「踊りたいのかい? それなら会場で一緒に踊ろう。皆にメルを自慢したいし」
「違うよ違う! 灰色の服じゃ会場に入れないし、それにネズミはダンスなんて踊れないよ」
ブンブンと落ちてしまいそうな程首を横に振ると、楽しげだったグラノは訝しむように眉間に皺を寄せた。
「そうじゃなくてシンデレラと踊って欲しいの」
「……シンデレラ?」
グラノの顔は益々険しくなるが、それに気付かずメルは必死に訴える。
「そう、シンデレラ。ガラスの靴を履いた、今夜の舞踏会で一番綺麗な女の子だよ。彼女は王子様と踊るのを楽しみにしてるの。お願いだから彼女と踊ってきて」
「………僕は興味ないな、メル以外の女性となんて」
「それはまだシンデレラに出逢ってないからだよ。彼女を一目見ればきっと……お願い、お願いグラノ!」
「………………」
グラノの上質な生地の服をギュッと掴んで懸命に訴えるメル。上目遣いで迫られたグラノは険しかった表情を簡単に解除し、更には頬を赤らめデレッと締まりがなくなってしまう。咄嗟に自分の状態に気付き、誤魔化すべく咳を一つして王子様スマイルを発動させた。
「分かったよ……メルの願いなら叶えないわけにはいかないね。ちなみにその女性とメルはどんな関係なんだい?」
メルの顔が明るくなる。それにグラノは一瞬再び眉をしかめたが、悟られぬようにすぐさまにこやかに笑顔を作った。
「シンデレラは私の巣があるお屋敷の女の子で、命の恩人なの。それに食べ物をこっそり分けてくれるんだ。グラノと一緒で灰色ネズミの私にも優しいとっても素敵な子だよ」
「そうか、メルの恩人なんだね。それならば是非会ってお礼を言おうじゃないか。すぐ戻るから待っていておくれ」
嬉々として語るメルの話にグラノは得心したように頷くと、彼女の頭を一頻り撫でまくる。「いつまでそうしてるの?」とメルから若干苛立った質問が上がり、ようやく城へ戻る為に身を翻した。
「ガラスを履いた一番綺麗な女の子だからねー! 間違えないでねー!」
何度もこちらを振り返りつつ名残惜しげに去って行くグラノに手を振り叫ぶメル。その姿が見えなくなると、ようやくネズミ心地が付く。
これできっとグラノとシンデレラは恋に落ちて永遠に幸せになるのだろう。 あとはそのハッピーエンドを隅の隅で見守っていればいいのだ。
なんと素敵な物語だろう。どうか二人を幸せに。
メルは美しい夜空を仰ぎ満月に祈る。その胸中にある一抹の寂しさは、二人の人間の内どちらに対しての感情であるのか分からなかった。