3:王子様
感じたこともない心地好さから意識が引き戻される。目覚めるとふわふわした白い雲の上に寝ているではないか。シンデレラを舞踏会へやる前に天国まで来てしまったのかとガックリ項垂れながら身体を雲から起こす。
そしてぼんやりとした頭で辺りを見回す内にどうも様子がおかしい事に気付き始める。周囲が天国にしては人間の家の内装をしているのだ。しかし人間の家かと言われればそれもまた微妙だ。灰色ネズミはこれまで多くの人間の家へ忍び込んで食糧を拝借してきたが、これほどまでに豪華絢爛でどこもかしこもピカピカした部屋は目にしたことがなかった。
(……ここは、一体?)
「やぁ起きたね」
口を開けたままの間抜け面で部屋を見回している灰色ネズミへ突如声がかけられる。
「チュッ!!?」
驚きのあまり雲の上を数センチ跳び上がった灰色ネズミに、クスクスと楽しげな笑い声が降ってくる。
声の主はゆっくりと近付くと灰色ネズミの顔を覗き込むようにして笑顔を見せた。灰色ネズミの丸い目は更に丸くなる。目の前に居る人間は青い瞳とサラサラのブロンドヘアーを持つ、部屋の豪華さに劣らない綺麗な男。優しげな目で灰色ネズミを見つめている。
「兵士が乱暴してしまって申し訳ない」
「チュ?」
急に悲しげになってしまった男の表情が不思議で首を傾げると、それは苦笑へと変化した。
「バスケットの籠に綿を敷き詰めて急遽キミの寝床を作ったんだけど、寝心地はどうだい?」
この雲の説明をしているらしいと分かった灰色ネズミは数回弾んでみせる。
「気に入ったみたいで良かった」
再び嬉しそうに笑った男は灰色ネズミへと手を伸ばして来た。そこでようやく灰色ネズミはハッとする。
(人間っ! 私人間に捕まってる!)
あまりに優しい笑顔だったのですっかり忘れていたが、灰色ネズミは人間の危険性を身に染みて理解している。シンデレラ以外の人間は酷く狂暴でネズミを嫌うのだ。このまま優しい笑顔に騙されボケッとしていれば、その伸ばされた腕で灰色ネズミの首をポッキリやってしまうかもしれない。
慌てた灰色ネズミは向かって来る手から逃れようと急いで立ち上がりかけて………
「っ!?」
足に激痛が走る。
身体を支える事が出来ずにコロンと転がってしまった。
「ああ、ダメダメ。立ち上がるなんて無理だよ、君の足のケガ酷いもの。まだ歩けないよ」
男はバスケットの中でコロコロしている灰色ネズミを丁寧に寝かせてくれる。そんな優しい行動に驚くよりも先に灰色ネズミは男の言葉に衝撃を受けていた。
(私、歩けない? じゃあ腕輪はどうすればいいの?)
愕然とする灰色ネズミの気持ちを知ってか知らずか、男は彼女の頬を指の腹で優しく擦る。それに気付いた灰色ネズミがビクリと身体を揺らすと男は少し寂しそうに微笑んだ。
「大丈夫だよ。この部屋は安全だから、ここに居なよ」
灰色ネズミは自分の足の怪我に白い布が巻かれていることに気付いた。どうやら自分はこの綺麗な男に助けられたらしいということも。自然と入っていた力が抜けて来る。
「僕はこの国の第四王子のグラノだ。ちなみにキミの名前はメルにしたんだ、可愛いだろ?」
灰色ネズミはビックリする。目の前の男が、シンデレラが行きたがっている舞踏会を開く王子であったのだ。更に王子は灰色ネズミに名を与えた。それは灰色ネズミがずっと欲しかったものであり、シンデレラでさえ与えてはくれないものであった。灰色ネズミはメルとして、一匹の個体としてグラノに認識されるのだ。それが彼女には堪らなく嬉しかった。
その後上機嫌になったメルは、泡の付いたグラノの指で全身を擽られようが大人しく我慢した。足の怪我に当たらぬように慎重な指使いだ。害獣は汚いものであるのに、グラノは綺麗にしたいらしくそれがメルには可笑しかった。
続いて顔を強制的に押さえ付け上を向かされ、謎の苦い液体をスプーンで数滴ずつ流し込まれる。流石にこれには嫌がったメルだが、体内の悪い菌を殺す魔法薬に痛みどめを混ぜたものだからと必死な顔でグラノが謝るので、自慢の歯で指に噛みつくのはよした。
泡の効力により甘い香りを醸し出すメルをグラノは目を細めて顔を寄せてくる。まさか甘く味付けして食べるつもりなのかとメルに戦慄が走るが、グラノは鼻や口や頬を毛に押し付けるだけであったので首を傾げる。
しかしその後には食事の時間だとして食べたこともない味の食べ物を分け与えてくれたので、グラノの不思議な行動はすぐにメルの頭から吹っ飛んだ。グラノは食べ物を小さく千切っては一々メルの口へ運ぶ。もう食べられないと思うほど沢山胃に詰め込んだのは初めてのメル。幸せな気分で膨れた腹をポンポン叩きケフッと満腹アピールをすると、グラノは再び目を細めて腹を指で撫でてきた。
そうされているとメルは段々と眠くなり瞼が落ちてくる。それに気付いたグラノは寝床として用意したと言っていた雲の上ではなく、大きな寝台へとメルを起き自分も隣へ潜り込んだ。
「おやすみメル。良い夢を」
「……チュ」
小さく返事をしたメルは瞼を完全に閉じる。
一刻も早く怪我を治して腕輪を手に入れなくてはならない。それには充分な食事と睡眠が大切であると知っているメルはグラノが分け与えてくれるそれらを享受するのに戸惑いはなかった。