こうして勇者になりました
今朝は、久しぶりに昔の夢をみた。
それは僕がまだ両親と祖父母と兄と産まれたばかりの妹と暮らしていた頃の夢だ。
昔の僕は常に腹を空かせていて、家でも外でも目が開いている時は食べ物ばかりを探していた。親の手伝いで畑を耕す小さな両手は、骨ばって硬く、染みついた茶色に汚れていて、それと同じ手を持つ二つ上の兄は理由もなく僕をよく殴った。
昔の、ありふれた日常の夢。
僕は目を覚ましてから、自分の右手をじっと見てみた。あの村を出てから十年。僕の手は、薄暗い室内でも分かる、やわらかくきれいな手になっている。
「ジャム、ジャムッ、ジャムジャムンッ!どうかこの通りだよろしく頼む!」
台所の扉がぶち開けられた時、僕はいつも通り、一人で朝食を食べていた。数人いる同居人のほとんどは朝も夜も関係ない不規則な生活を送っているため、食事の時間が合うことはあまりない。おはようの挨拶より先に土下座してきた兄弟子も、可愛い弟分と一緒に朝食を取りにきたわけではなさそうだ。
「おはようございます、アン兄さん。また何かしましたか」
僕は口の中でもぐもぐしていたパンをゆっくり飲み込むと、床の上に額を擦りつけている兄弟子にそう尋ねた。
僕が今食事を取っている机は、本来は食卓ではなく作業台であるから、一人分の朝食を置かれるだけでいっぱいいっぱいになってしまう小ささだ。それでも一応椅子は二脚あるのだが、兄弟子はそこに座ろうとはしない。よく朝日に例えられる金色の頭は微動だにせず、ごめんなさいを繰り返している。とうに成人した大人が蹲り、涙声で謝罪してくる姿はこの世の不幸を一身に引き受けているようで悲壮感に満ちていたが、僕はこの兄弟子が師匠や他の兄弟子達にしょっちゅう土下座しているのを見てきたので特に何も思わなかった。強いて言うなら、僕にまで謝ってくるのは珍しいなぁ、とか、そんな平和な感じだった。あと、すごく上手な土下座だから、僕も何かあったら真似しよう、とか。
「うん……いや、本当にごめん。こんな情けない兄で、ジャムには申し訳ないと思ってる。本当にごめんな、ジャム。でもおまえは俺に似ないで優しく責任感の強い子に育ってくれて、兄さん本当に嬉しいよ」
申し訳なさそうにそろそろと顔を上げたはずの兄弟子は、僕を褒めだすと途端にへにゃりと相好を崩した。そうやって笑うと、爽やかで優しそうな好青年と評される顔に少し可愛らしさが出て、女心をくすぐる、らしい。
確かに兄弟子の顔がいいことは認めるが、こんな土下座ばかりのろくでもない人間がもてはやされるなんて、女性はみんな寛大だなと僕はいつもハンカチーフを噛みしめている。全くもって不条理だ。
「謝るよりも先に、何に対する謝罪なのかを言って下さい」
「ああ、そうだった。ごめんな。実は俺がこの前決めた国仕えの件、行けなくなった。だから、俺の代わりにジャムに行ってもらおうと思って」
「そうですか。代わりに……って、え?」
僕は、サラダをつついていた手をとめた。驚いてまじまじと兄弟子を見るが、そこに冗談の色はない。
「いや、無理です。だって国仕えって、アレですよね?」
「そうだ、アレだ。だから、今さら行けないとは言えないんだ」
兄弟子は、戸惑う僕に大きく頷いてみせる。
師匠から一人前と認められ、独り立ちを決めた兄弟子は故郷に帰って国に仕えると言っていた。そこまではいい。他の兄弟子たちの多くも、同じことを言っていたのだから。でも、僕は、それがただの士官でないことを知っている。
だって、彼は、師匠の反対を押し切って決めたのだ。
昔の夢を叶えたい、と。
青空に似た色の目が、すごく近くで真っ直ぐに僕を見ている。言葉が喉に詰まった。手に伝わる生温い温度。気づけば、目の前に迫った兄弟子に手をとられていた。
「ジャム、ジャム。ジャムジャムン、俺の自慢の弟……どうか、俺の代わりに、勇者になって国を救ってくれ」
苦しそうな兄弟子の顔を、僕はフォークを持ったままの右手で思いっきりぶん殴った。
そして兄弟子は逃げ出した。