本の番人
雨にけむる、花冷えのある夜のこと。少年は、太陽のにおいが染み込んだ羽根布団にくるまって、窓の外に降る、静かな雨の音を聞いていた。庭先の鯉の池に、水の輪が限りなく描かれる様子を、雲間からわずか零れる月明りが照らしている。少年は上肢を起こし、横になる前読んでいた読みかけの文庫が、きちんと閉じて置いてあるのを見つけた。少年はその文庫を、頁を開いたまま伏せて置いていたのである。
頁の間から、なにかきらきらと光るものが畳の上へ長々と連なっている。よく見ると、それは米粒よりも小さい、粟と同じくらいの大きさの珠が、いくつも繋がれたものだった。その細かな細工の糸を部屋の暗闇で辿ると、閉じた押入れに中に吸い込まれていた。その押入れには、少年が好む天体図鑑や、母や姉から失敬した宝石のカタログや、夏に海辺で拾い集めた、波によって飴玉のように角が取れ丸くなったガラス、そして特に気に入りの紫水晶の原石は綿に包まれて、愛媛みかんの段ボールに収められて仕舞ってある。
少年は手のひらと膝で布団を抜け出し、珠の糸の脇を這った。背にした庭の池で、雨音の下で、鯉の跳ねる音がした。少年は押入れの襖の隙間の闇を見つめる。そこに爪を引っ掛けて、そうっと拳ひとつぶん開いた。愛媛みかんの文字が、かろうじて読める。糸は、「媛」を割って、箱の中に忍び込んでいた。少年は、糸をつまみ上げた。四つん這いの目の高さまで持ち上げる。間近で見る糸についた珠は、ひとつひとつがとても小さいのに、どれも違った色をしていた。赤いもの、青いもの、黄色いもの、どの色とも形容しがたいもの、虹色に光っているもの。
少年はしばし見惚れ、この先はどうなっているのかと、少し力を込めて引っ張ってみた。すると箱の中から、珠糸に引かれ、小さなヒトが転げ落ちてきた。少年は短く声を上げ、畳の上で頭をこちらに向け、うつ伏せに伸びたその物体を見つめた。もう少し丁寧に扱ってくれないと、困るよ。もそもそと起き上がりつつ、小人は口を尖らせた。せっかく、あの壁を登れたって言うのにさ。壁って。これさ。小人は親指を背後の愛媛みかんに向けて言った。なるほど、小人にとってこの段ボールは壁なのだ。
あんた、ぼくの声が聞こえるんだな。聞こえるよ。ふうん、じゃあ、間違いないな。君、どこから来たの。少年は小人のなりをしげしげと眺めまわした。文字通り、小人だ。おそらく、少年の膝小僧にも満たない大きさで、足も腕も、もやしほど。濃紫と薄紫の、サテンのような生地を重ねたケープの下に、羽毛をそのまま織り込んだような白いズボンを穿いている。足元は、つま先が丸く不自然に大きい、踵の高いブーツだ。手袋をしている。その手には少年が追ってきた煌めく珠糸。唯一素肌を見せる顔は真白く、つややかな頬に影を落とす長い睫に囲まれた大きな瞳はケープと同じ紫で、目のすぐ上で切り揃った髪は、月光を集めて真珠色に艶めく。部屋の暗がりで小人の恰好がよく見えるのは、小人のからだがまるで、擦り硝子の覆いがついたランプのように、ぼんやりと光っているからだ。
ぼくは「地底宮殿」の番人さ。あんたが今読んでいる本の。少年は、枕元に置いておいた読みかけの文庫を振り返った。確かに僕は「地底宮殿」を読んでいるけど、まさか君、あの本から出て来たの。その通りさ。人間は知らないと思うけどね、物語にはそれぞれ、その物語の世界を守る番人がいるのさ。物語の世界と、現実の世界の境目の扉を守るんだ。ぼくたちがいないと、あんたたち人間は現実の世界に帰って来れなくなってしまうんだぜ。小人は狭い胸と張って言う。首に巻いた真珠色のスカーフの間から、銀色に光る小さな鍵がちらりと見えた。それが世界の境目の扉の鍵らしい。
小人は続ける。人間が表紙を開くと同時に、ぼくらは扉を開く。そこからは番人の腕の見せ所さ。どこまで物語の世界に引っ張り込めるか。君はどうなんだい。ぼくか、そりゃ、あんたが証明してくれたよ。少年は首を傾げる。どういう意味だろうか。あんた、アメジストの原石持っているだろう。……アメジスト。紫水晶さ。ぼくの頭くらいの、丸いやつ。ああ、持ってるよ。おととい、祖母の墓参りに行ったとき、霊園の裏のむき出しの岩場で拾ったんだ。母に見せたら水晶だと言うんで、綿に包んでとってある。あんた、むき出しの岩場なんて、その霊園にはないんだぜ。少年はすぐさま首を横に振る。確かに、霊園の裏で拾ったよ。憶えてるもの、あの本を読みながら歩いていて、ふと足元に目をやったら、そこにあったんだ。そこは「地底宮殿」の世界さ。あんたは本に入り込みすぎて、向こうの世界に行ってしまったんだよ。ぼくがすぐに出してやったけどね。
少年は、段ボールの中から、綿に包まれた紫水晶を取り出した。綿を剥がすと、クルミの大きさくらいの、紫の濃淡のある透明な結晶が出て来た。少年の手のひらに載ったそれを、小人は背伸びして確認する。そうそうそれ。あんたが「地底宮殿」の世界から持ってきてしまったやつだ。向こうの世界では大騒ぎさ。まさか、物語の世界からものを持ち出せる人間がいるなんて、上の連中も想定外だったらしいんだ。
小人は少年の小指につかまり、手のひらによじ登った。小人にしてみれば巨大な水晶を腕に抱える。これは返してもらうぜ。……気に入ってたんだ。それはありがとよ。「地底宮殿」の番人にとっちゃ、嬉しい言葉だ。小人はひょいと少年の手を離れ、畳の上をとことこ走った。小人が握ったままらしいあの珠糸も、するすると滑っていく。ねえ、そのきらきらした糸はなに。小人はくるりと振り返り、珠糸を掲げて答える。これはぼくと、物語の世界を繋ぐ糸さ。小人は珠糸の挟まった文庫の頁を持ち上げると、そこに片足を突っ込んだ。今度この糸を見つけることがあったらさ、本に挟んである方をつかむといい。そしたら、「こっち」の世界に入り込めるぜ。ま、出られなくなっても知らないけどね、小人はいたずらっぽくそう付け加え、するり、と頁の隙間へと消えてしまった。
翌朝、少年は雨の匂いのする羽根布団の中で目を醒ました。枕元を見る。きちんと閉じた文庫が、何事もなかったように畳の上に鎮座していた。少年は目を逸らしかけたが、頁の隙間から何かが飛び出ているのを見つけて、慌てて本を手にとった。ぱらぱらと頁をめくる。挟まっていたのは、小さな小さな、手袋だった。
少年は紫水晶の代わりに、小さな手袋を綿に包んで、愛媛みかんの段ボールに入れ、夜を待つ。「地底宮殿」の番人が、煌めく珠糸を握って、落としてしまった手袋を探しに来るのを楽しみにして。
「こんな小人がいたらいいなあ」という作者の望みをそのまま書きました。本のなかの世界に行ってみたい、永遠の願いです。
読んでいただきありがとうございました。