痺れぬもの
私の体験談、つい先日の事なのですが、これは――。
或夏の一夜の話です。
「うおわ」
玄関先で、男のものと思われる声が聞こえました。彼がふと時計を見ると、彼の父が帰宅するのに相当なくらいでしたから、「それ」を見た父が思わず声をあげたのだと思いました。
また、人殺しがあったのです。彼の家の間近で、今し方起こったと言うのです。凄惨な現場になる事で有名な一連ですから、さも悲惨な現場を目の当たりにしたのに相違ありません。彼の脳裏には、未だ見た事もない――それで居て想像特有の現実味を持つ――ばらばらの死体が見えました。
「あら」
突然後から声が聞こえました。彼の母が外の様子を訝しんでいるのです。まだ彼奴が彷徨いているかもしれないのに、何の準備もなしに、全くの無防備に戸を開けようとする母をたしなめると、彼は傘立てに差さっていた竹刀を手に取り、二人は外に出ました。
いつ雨が降ってそれが止んだのかは定かではなく、今はただ、生暖かい空気と、月明かりでぬらぬらと光る地面だけが在ります。
さて、鼻をすんすんと鳴らしてみましても、雨臭さしかなく、人死にが在ったとは到底思えない景観でした。これはどうにも可笑しいと思う最中、竹刀を軽く振るってみたものの、思う様に動きません。嫌に重く感じた竹刀遊びはそこそこにして、又何か探し始めました。
が、かれこれ二三分は経ったでしょうか。一向に物語りが進展しません。漫ろとしているのにも飽いてきたので、二人は家に戻る事に致しました。最初聞こえてきた声は、きっとどこぞの家の親父が、御器噛でも見つけ思わずあげた声か何かでしょう。未だ名残惜しそうに探し物をする母を差し置いて、彼が家の戸に手を掛けた瞬間の事でした。
「あ兄ちゃん」
と、やや舌足らずな少年の声が響いてきたのは。
しかし、これは不思議な事なのですが、聞こえた、と言うより、頭の中にじかに響いた音のように感じられたそれは、彼にとっては、恐怖疑心が聞かせた幻聴だとしか思えませんので、頓着せずに戸を開いてしまいました。開いてしまったのです。
玄関には、目新しい某が在りました。背が高く、やせ形の男の輪郭が口元だけを仄かにしてこちらに笑みを浮かべています。
とん、と彼は男の胸元に竹刀を突きつけました。男の右手には、雨上がりの地面の如く光に照らされてぬらぬらと光る何かが在ったからです。ただそれが短く見えたものですから、反射的に間合いを取っただけの事で、彼の手からは竹刀を持つ感触さえ失せていました。
その時、虚の中にある男の目が、彼の目を捉えたように思われました。風が暗闇に吸い込まれるのを微かに感じた彼は、これから玄関に向かってくる母の事、家の中で寝息を立てている姉の事、これから帰って来るであろう父の事を考え、そして、体中に強烈な痺れを覚えたのです。
やあ、人を殺せる人は、やはり人に非ず。殺されるのにこれだけ痺れを覚えると言うのに、殺すのであれば、どれだけ痺れてしまうのか。それだけで死んでしまうのではないか。
彼がそんな考えを持ったのは、或夏の明け方の事でした。
――つまるところ、生々しい夢物語なのです。
観てから半刻は、怖いのなんの、眠れませんでした。