お、お前さん、あれを見たのか……? :約3000文字 :コメディー
「ふー、お風呂いただきましたあ! はー、生き返った気分」
夜。山々に囲まれたとある静かな田舎の一軒家。外では虫の声が途切れ途切れに響き、遠くで風が木々を揺らしている。居間へ入ってきた女は、首にかけたタオルの端で頬や額をぽんぽんと軽く叩きながら言った。湯上がりの蒸気がまだ体からほのかに立ちのぼり、頬はほんのりと赤い。濡れた髪が首筋に張り付き、細い水滴が肩口を伝っている。
座布団の上で胡坐をかいている老人は、「おー」と低く応じた。それから目を細め、手にしているビール瓶の口を傾け、座卓の上に置かれた空のグラスを指した。
「あんたも飲むかい? さっき冷蔵庫から出したばかりだ」
「わー、うれしい! ぜひいただきます!」
女は屈託のない笑みを浮かべ、ぱたんと座布団に腰を下ろした。グラスを両手で包み込むように持ち上げると、うれしそうに目を細めた。
「……しかし」
老人はビールを注ぎながら、ぽつりと口を開いた。
「あんたみたいな若い女が、なんで夜にこんなところを一人で歩いていたんだい?」
「そんな、若いだなんて。ふふふ」
女は少し照れたように肩をすくめ、「いただきます」と小さく言ってからグラスを傾けた。喉を鳴らしてぐっと飲み干し、ぷはっと満足げに息を吐いた。
老人はその様子を横目で眺めながら、低く呟いた。
「……今夜は泊まっていきなさい。このあたりは夜、誰も外に出ちゃいけないことになってるんだ」
数十分前のこと。庭に出て夜風に当たりながら外を眺めていた老人は、家の前の道をふらふらと歩く女を見つけた。肩に掛けた重たげなバッグに引っ張られ、今にも倒れそうな足取りで進んでいた。
その姿を放っておけず、思わず声をかけた。女はどこか戸惑った様子だったが、「とりあえず」と事情もよく聞かぬまま、老人は家へ招き入れたのだった。
「ありがとうございます。でも……外に出ちゃいけないって、どうしてですか……?」
女は首を傾げ、訊ねた。
「聞かないでくれ。この村には……いや、いい。とにかくカーテンも閉めて、決して外を見ちゃいけない。いいね」
「は、はい……」
居間に重たい沈黙が落ちた。壁に掛けられた古い柱時計の秒針の音が、やけに大きく響く。
その空気を払うように老人は小さく咳払いした。
「……あー、一人旅ってやつかい?」
老人はビール瓶を持ち上げ、女のグラスに近づけながら言った。女は小さく頭を下げ、グラスを差し出した。琥珀色の液体が再び泡を立てながら注がれていく。
「歩きは大変だろう。えらく大きなバッグだが、テントでも入ってるのかい?」
老人は部屋の隅に置かれた大きなバッグをちらりと見やった。女は「ありがとうございます……」と礼を言い、困ったように笑った。
「いえ、実はこの近くまで車で来ていて」
「ほう、車」
老人は枝豆を一つ摘まみ、指で殻を割ると口に放り込んだ。
「はい。……そういえば、変なものを見たんですよね」
「……変なもの?」
老人の動きがぴたりと止まった。顔に刻まれた皺に深い影が差した。
「ええ。林道を走っていたら、急に開けた場所に出たんですけど、そこに……なんというか、くねくねした人がいて――」
「お、お前さん、あれを見たのか……?」
老人が手にしていた枝豆の殻がぽとりと畳の上に落ちた。その指先はひどく震えている。
「はい? えっと、白い着物の人が背中を折って地面を覗き込んだり、急に空を見上げたり、なんか変な動きをしていたんですけど、あれっ――」
「知らん、わしは何も知らん!」
老人は突然大声を上げ、激しく頭を振った。そのまま女から顔を逸らし、畳の一点を見つめた。
「あれっ、探し物してるのかなって思って車を止めたんです。ヘッドライトで照らしてあげようかなって。道も聞きたかったですし」
「もう寝る。あんたも早く寝ちまうといい……」
短く言い、老人は膝に手を当ててゆっくりと立ち上がりかけた。
「そしたらその人、急にこっちに向かってきて。私、びっくりして後ろに下がろうとしたんです。でも間違えて前に進んじゃって」
「だから、もうその話は――」
「その人を轢いちゃったんですよね」
「轢いた!?」
「はい。慌ててたので……」
「お、おお……いや、だがあれは轢いたくらいでは、な……」
「それで、そのまま車を走らせていたんですけど、林道に入ってしばらくして、こう……小さな祠のようなものが見えたんです」
「そうか、あれを見つけたのか……」
老人は腕を組み、天井を見上げた。
「なら、話さねばなるまいな……。あれは、この土地に住まう神を封――」
「急だったから止まれなくて。壊しちゃったんですよ」
「壊した!?」
「はい。道も悪かったですし、場所も最悪でしたね。カーブの直後で、ブレーキも間に合わなくて。それで、そのまま走らせてたんですけど」
「あんた、全然気にしないのな」
「今度は組体操……ですかね。大勢の人が折り重なって、神輿みたいな形になっているのが目の前に現れて」
「ああ……そうか、あれを見てしまったのか」
老人はゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。
「恐ろしい……それは、今までの犠牲者たちを取り込んだ、いわば――」
「正面からぶつかっちゃって」
「ぶつかっ……まあ、むしろ流れからいって、驚きはしないか」
「その人たち、窓から手を突っ込んできたんですよ。私の身体を触ろうとしたり、助手席のバッグを引っ張ったりして。だから頭にきちゃって、思いっきりアクセルを踏み込んでやったんです」
「おお……!」
「でもハンドルを切りすぎて、車ごと崖下に落ちそうになって」
「そ、それで?」
「だから、バッグを掴んでドアから外に飛び出しました。ほんと、間一髪でした」
「それから、どうなったんだ!?」
「はい。それで、ドン! って爆発して。炎が一瞬、崖の上まで噴き上がって、すごい断末魔の叫びが響き渡りました」
「おおお……!」
「崖の下を覗き込むと、激しく燃えながら悶えているのが見えて」
「よしよし……! あ、ちょっと待ってくれよお」
老人は女から目を離さぬまま、慌てた手つきでビールをグラスに注ぎ足し、ぐいと喉に流し込んだ。
「でも……手を伸ばして、ゆっくりとよじ登り始めたんです」
「ぬう……!」
「来る――そう思ったその直後でした。崖が崩れ出したんです」
「おほう!」
「その人たち、すっかり埋まってしまいました。ほんとすごい崩れ方で、あわや私も巻き込まれるところでしたよ」
「ほほう……さっき遠くで聞こえた音はそれだったのか」
「それで歩いていたら、この家の灯りが見えて」
「なるほどな……。あんた、とんでもないことをしたな。いや、ほんとに」
老人はもはや笑うしかないといった様子で、「ははは」と乾いた声を漏らしつつ、グラスを口元へ運んだ。
「それで、車をお借りしようと思ったんです」
「車を? じゃあ明日の朝、近くの町まで連れて行ってやるよ」
老人はふうっと満足げに息を吐いた。すごい話を聞いたものだ――そう内心で呟きながら、何度も小さく頷いた。
「いえ、もっと遠くへ行かないと。死体は車と一緒に土に埋まりましたけど、雨が降ったら見つかるかもしれないので」
「死体? ははは、いやいや、あんたが崖から突き落としたのはな、昔からこの土地に伝わる――ん? えっ、それは……? あ、あ、あんた、何を」
女はすっと立ち上がり、バッグの前へ歩み寄ると、ゆっくりと腰をかがめた。ジッパーを下ろす音が静かに響いた。
中から取り出したのは、スタンガンと鈍い光を帯びた包丁だった。
そして女はゆらりと老人に近づき、立ったまま見下ろした。その暗く凍てつくような目に老人は息を呑み、尻を畳みに擦りつけながら後ずさりした。
「私がお風呂に入ってる間に、バッグの中……見ましたよね?」
女が一歩踏み出した。
「見ましたよね? 見ましたよね? 見たでしょ? 見たでしょ? ねえ、見たでしょ?」
「し、知らない、わしは何も見てない!」
まあ、どっちでもいいですけど――女はそう言い捨てた。
次の瞬間、バチッと鋭い音が弾けた。部屋の照明がかすかに揺れ、壁に映った影が床へと崩れ落ちた。
開いたままのバッグの口から、ぎっしり詰め込まれた札束の一つがするりと畳の上に落ちた。




