悪役令嬢弁護士 第2話 婚約破棄代理人 逃げたい令嬢
本作は「悪役令嬢弁護士」シリーズの第2話です。
プロローグに当たる第1話「悪役令嬢、断罪されたので反対尋問します ~前世が弁護士なので、法的思考で王子に和解を呑ませてもいいですか?~」を先にお読みいただけると、より楽しめます。
第1話が好評をいただきましたので、続編として本作を書きました。
一 依頼
勅裁議会を設立してから三か月が経った。
あの断罪イベントの噂は、思った以上に広まったらしい。「侯爵令嬢が王子を論破した」「契約書を読んだだけで断罪を跳ね返した」「婚約破棄を和解に持ち込んだ」——尾ひれがついて、いまや王国中の社交界で語られている。
(論破はしていない。弁護士の仕事は論破じゃない。第三者が納得するかどうか、だ。——まあ、世間的には「論破」のほうが分かりやすいのだろうが)
その噂のせいで、面倒なことが起きた。
手紙が来る。毎週のように。
「婚約について相談したい」「契約書を見てほしい」「夫の浮気を——」「隣家の薔薇が境界線を越えている」「息子が学園の令嬢に告白された、どうすればいい」。
(最後の二つは法律相談じゃなくて人生相談だ。——「薔薇の越境」は不動産トラブルとして受けられなくもないが、「息子の告白への対処法」は弁護士の業務範囲外です。お母様、それはお友達に聞いてください)
カタリナが手紙を分類してくれるようになった。「法律相談」「人生相談」「その他」。「その他」が一番多いのが泣ける。——もっとも、法律相談に人生相談が混じるのは弁護士あるあるだ。前世でもそうだった。
(前世の弁護士三年目を思い出す。ボス弁の案件と自分の案件が重なって、おにぎりを食べる暇もなかった。——依頼が来るのは弁護士として嬉しいが、この世界にはまだ弁護士が私しかいない。一人事務所の限界を早くも感じている。せめて事務員がほしい。いや、カタリナがいるか。カタリナは最高だ。報酬は焼き菓子で許してくれるし)
ある日、カタリナが応接間に——相談室、と呼ぶことにした——お客を連れてきた。カタリナの手には、すでに「法律相談」の札が乗った銀のトレイがある。
(この子、いつの間にか受付業務を完璧にこなしている。前世の事務所の新人事務員より優秀だ。あの子は初日にFAXとコピー機を間違えて、訴状を相手方の弁護士に直送した。——FAXもコピー機もこの世界には存在しないのだが、あの衝撃を超える事務事故にはまだ遭遇していない)
「ルイーゼ様。この方が、どうしてもお会いしたいと」
若い女性だった。十八か十九。三つ編みの栗色の髪、そばかす、少し痩せすぎ。爵位は——服の刺繍の紋章を見る限り、子爵家。手が震えている。革鞄を抱えている。
(……前世のデジャヴだ。金曜日の夜、泣きながら事務所に来た依頼者。書類を抱えた震える手)
カタリナが何も言わずにお茶の用意を始めた。客人の表情を見て、温かいハーブティーを選んでいる。——この子は、人の心が読めるのかもしれない。
「お名前をうかがっても?」
「マリア・フォン・ヴァイデンフェルト。ヴァイデンフェルト子爵家の長女です」
「それで、マリアさん。ご用件は」
「……婚約を、解消したいんです」
声だけはまっすぐだった。だが、目は泳いでいる。
「相手は?」
「グロイスバッハ男爵家のフリードリヒ・フォン・グロイスバッハ。——来月、挙式の予定です」
(来月。かなり切迫している)
「理由を伺ってもいいですか」
マリアが口を閉じた。三秒、五秒、十秒。
(言えないこと。言いたくないこと。あるいは、嘘をつくこと。——弁護士としての経験則が言っている。そのいずれもが、大抵の場合、一番大事な事実だ)
「言いにくいことは、無理に話さなくていいです。でも、一つだけ聞かせてください。——怖い、ですか」
マリアの目に涙が浮かんだ。
「……はい」
(——やっぱりだ)
弁護士がやることは決まっている。お茶を出す。ハンカチを渡す。そして——待つ。
この世界でも前世でも、やることは同じだ。
二 契約書
落ち着いたマリアが、革鞄から書類を出した。
婚約契約書。
「こちらを、見ていただきたくて」
読んだ。
一読して分かった。——これは「婚約契約書」の形をした檻だ。
まず全体の構造。通常の契約書は、双方の義務と権利を対等に定める。自分の婚約契約書もそうだった。ところが、この契約書は違う。義務のほぼ全てがマリア側に偏っている。「契約」と名のつくものでこれほど一方的なのは、前世の携帯電話の約款くらいだ。もちろん、私も仕事では契約書を読むが、プライベートで約款を隅々まで読んだことは一度もない。あれも誰も読まないという点では同じか。
第三条。「婚姻後、妻は夫の領地において家政を司り、実家への帰省は夫の書面による許可を要する」。
(帰省に書面の許可。——前世で何度も見た。DV加害者が使う支配条項と同じ構造だ。「実家に帰れない」ようにして、被害者を孤立させる。……この時代にシェルターはないし、逃げ場もない。逃げ場を作るのが、私の仕事だ)
第七条。「妻は婚姻中の財産管理権を夫に委任する。委任の取消しには夫の同意を要する」。
(財産管理権の一方的委任。しかも取消しに夫の同意が必要。——つまり、結婚したら自分のお金を自分で使えない。解除もできない。靴一足買うにも夫の許可がいる。前世の民法なら、夫婦別産制の原則に反するとして無効になりうる条項だ)
そして——第十二条。
「一方的に婚約を解消する場合、解消を申し入れた側は、違約金として自家の所領の二分の一を相手方に譲渡する」。
(領地の半分。——逃げるために、全財産の半分を差し出せと。この条項が入っている限り、マリアは逃げられない。たとえ逃げたくても、ヴァイデンフェルト子爵家が破綻する。……よくもまあ、こんな契約を考えつくものだ。前世の悪徳消費者金融の契約書より性質が悪い)
読み終わった。お茶を一口飲んだ。
「マリアさん」
「はい」
「この契約書は、誰が作りましたか」
「フリードリヒ様の……お父様の、グロイスバッハ男爵です」
「マリアさんのお父様は、この契約書を読みましたか」
「はい。でも……父は、『グロイスバッハ男爵家は財力がある。この縁は家のためだ。細かいことは気にするな』と」
(「細かいこと」。爵位は子爵のほうが上でも、財力では男爵家が上なのだろう。——この父親にとっては家の経済問題だ。でも、娘にとっては人生を左右する条項だ。前世でも同じだった。「契約書なんて読まなかった」と泣く依頼者を、何十人も見てきた)
「マリアさん。もう一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「フリードリヒ様は——あなたに手を上げたことは、ありますか」
長い沈黙。
「……直接は、ありません」
「『直接は』」
「物を……投げます。壁を、殴ります。あとは——怒鳴った後に、急に優しくなるんです。『ごめん、愛しているから』って」
(——典型的なDVサイクルだ。暴力の後に甘い態度を見せて被害者の判断力を奪う。「緊張蓄積期→爆発期→ハネムーン期」。王国が変わっても、男が変わっても、この構造は変わらない。——ちなみに、目の前で物を壊す、壁を叩くのも、立派なDVだし、前世の日本なら刑法上の暴行罪だ。直接触れる必要はない。「愛しているから」は、法的には免責事由にならない。前世でも、この世界でも)
「マリアさん。あなたの判断は正しいです。逃げてください」
「でも、契約書が——」
「契約書は、わたくしが読みます」
三 逃げ道
夜。自室で契約書を広げた。
カタリナが隣に座っている。最近、法律の勉強を兼ねて「助手」をしてくれている。——いや、「助手」というより「同志」のほうが近い。カタリナ自身も、婚約契約書の不平等さに関心を持っている。
「ルイーゼ様。第十二条、これは……」
「ひどいでしょう。でも、ひどいだけでは契約は無効にならない。法的な根拠が必要」
(前世の日本なら、公序良俗違反で無効を主張できる。民法九十条。暴利行為にも該当しうる。——でもこの世界に民法はない。「公序良俗」という概念も、まだない)
ならば、この世界の法の中から探すしかない。
王国法典を開いた。婚姻に関する勅令集も開いた。転生前にツクヨ——私をこの世界に送った神様——に頼んで読んだ資料と、それ以降に自分で集めた資料。
コーヒーがないのでハーブティーを五杯飲んだ。カタリナが途中で焼き菓子を持ってきてくれた。厨房長の焼き菓子。バターの香りと、少しだけレモンが効いている。うまい。——前世の依頼者が送ってくれたマドレーヌに似ている。弁護士は焼き菓子に縁がある職業なのかもしれない。
二時間が過ぎたころ、カタリナが黙って膝掛けをかけてくれた。
「……ありがとう」
「ルイーゼ様、集中すると肌寒いのに気づかないでしょう」
(図星だ。前世でも、事務所で徹夜していたら、先輩弁護士が「お前、また飯食ってないだろ」とこっそりコンビニのおにぎりを置いていった。——なんで私の周りの人は、こうやってさりげなく心配してくれるのだろう。嘘じゃなく嬉しいが)
三時間読んだ。そして——
「見つけた」
「えっ!?」
王国法典の第百十二条。
「契約の一方当事者が、著しく不均衡な義務を相手方に課し、かつ当該義務が契約締結時の事情に照らして不相当である場合、裁判機関はその条項の効力を制限することができる」
ある。この世界にも、暴利行為を制限する条文がある。使われていないだけだ。
前世の日本なら、消費者契約法とか、民法九十条とかがあった。それに近いものか。しかし、整理されていないな、王国法典は。同じ趣旨の条文が別の章に二つあったりするし、まるで「汚部屋」だ。
おそらく、元々は商人間の取引で、一方が不当に損をする契約を押しつけるのを防ぐために作られた古い規定だろう。「神聖な」貴族の婚約に適用できると考えた者がいなかった——あるいは、考える必要がある人間が、今までいなかった。
(法律があっても使われない。前世でも同じだった。知られていない法律は存在しないのと同じだ)
「カタリナ。この条文、知っていた?」
「初めて見ました……」
「第十二条の違約金——領地の半分——は、婚約解消の違約金としては『著しく不均衡』だ。婚約解消は婚姻解消より軽い行為に過ぎない。それに対して領地の半分は重すぎる。この条文を使えば、第十二条の効力を制限できる」
「制限というのは——」
「ゼロにすることも、相当な額に減額することもできる。ただし、勅裁議会でそう認められる必要がある」
しかし、もう一つ手がある。
「それと、この契約書にはもう一つ問題がある」
「何でしょう」
「この契約書にはマリアさん本人の署名がある。署名した以上、彼女も契約の当事者。なのに、マリアさんには内容が説明されていない。契約の意味を理解させずに署名させた場合——」
「それって……騙したのと同じでは?」
(カタリナ、よくできました。前世で言う「錯誤」に近い概念だ。契約の重要な部分について誤解があったまま締結された契約は、取り消しうる。あるいは、そもそも契約に必要な意思の合致がない、とも言える)
「そう。契約は、双方が中身を理解して合意して初めて成立する。父親が『細かいことは気にするな』と言って詳細を隠した。マリアさんは第十二条の意味を理解していなかった。——これは契約締結過程の瑕疵よ」
カタリナの目が輝いている。
「ルイーゼ様。わたくし、法律って面白いです」
「面白いでしょう。——でも法律の面白さは、使い方にある。知っているだけじゃ意味がない。どう使って、誰を守るか。それが大事なの」
前世の自分に言い聞かせている気もする。でも、悪くない。この子には、最初から正しく教えたい。
「あと、もう一つ頼みたいことがあるわ」
「なんでしょう」
「フリードリヒ様の過去を調べてほしい。以前の婚約歴、解消の経緯、先方の家から話が聞ければ、当時の状況も。社交界の伝手で構わないから、当たってみて」
「お任せください」
カタリナの目が、夜の灯に照らされて光っていた。
四 交渉
グロイスバッハ男爵家に書状を送った。
内容はシンプルだ。「婚約契約書の第十二条について、王国法典第百十二条に基づき、違約金条項の効力制限を求める。なお、契約締結過程における説明義務違反についても、別途、勅裁議会に申し立てる用意がある」。
(本来、交渉段階でここまで法的根拠を明示することはしない。手の内を見せすぎだ。——でも今回は事情が違う。マリアさんの挙式まで一か月しかない。相手を驚かせて、交渉のテーブルにつかせる必要がある。時間がないときは、最初の一発で動かす。弁護士の時間管理だ)
三日後、返事が来た。
グロイスバッハ男爵本人からだ。——代理人を立てていない。弁護士がいないこの世界では、本人が交渉するのが普通だ。本人交渉は御しやすい。直接相手に届き、感情的な返事が返ってくる。手玉にとりやすい。弁護士はそれを知っているから、自分の事件は他の弁護士に頼むのだ。
「エーレンフェルト侯爵家の令嬢だからといって、わが家の婚約に口出しをするのか。侯爵家の庇護があると思って増長しているようだが、婚約は両家で合意した契約だ。部外者が口を挟む余地はない」
「部外者」。前世でも言われたことがある。「弁護士は部外者のくせに」と。違う。弁護士は「当事者の代理人」だ。部外者ではなく、当事者と同じ立場で交渉する資格がある。もっとも、この世界には弁護士資格がないので、そこは説明が必要だが。
返書を書いた。
「わたくしエーレンフェルト家のルイーゼは、マリア・フォン・ヴァイデンフェルト嬢より正式に委任を受けた代理人です。委任状を同封いたします。なお、代理人による交渉は、王国法典の契約一般原則の下で認められております。——ところで男爵。わたくしが『部外者』であるかどうかより、第十二条が王国法典第百十二条に適合しているかどうかのほうが、男爵にとって重要な問題ではございませんか」
(前世の弁護士レターの定型だ。感情に反応せず、論点を戻す。「あなたの怒りは理解しますが、法律の問題を話しましょう」。これが一番効く)
一週間後、グロイスバッハ男爵が直接会いたいと言ってきた。
(動いた。——交渉のテーブルにつく気になった。怒りの手紙を送ったのに、冷静に法律で返されて、自分の立場が危ういことに気づいたんだ)
マリアに報告した。
「相手方が交渉に応じます」
「え、本当に……?」
「ただし、マリアさん。交渉の場には来なくていいです。わたくしが代わりに行きます」
「でも……わたくしの問題ですのに——」
「だからこそ、です。この交渉は感情的になる可能性がある。マリアさんがフリードリヒ様やその父君と直接対面すれば——辛くなります。依頼者を辛い場所に立たせないのも、代理人の仕事です」
マリアの目が、また潤んだ。だが、それは怯えの涙ではない。
「先生……わたくし、はじめてです。誰かに『飛び出しなさい』と言われたのではなく、『飛び出す必要はない、わたくしが行く』と言われたのは」
自分以外の誰かが代わりに行く。それだけのことが、どれほどの救いになるか。弁護士は感情で動かない。感情で動かないが、心は動く。
(弁護士の仕事は、勝つことじゃない。依頼者が前を向けるようにすることだ)
五 対面
グロイスバッハ男爵邸。
出迎えたのはグロイスバッハ男爵とフリードリヒ。親子のそろい踏みだ。
(フリードリヒ、初めて見た。——体格がいい。顔は整っている。目が、冷たい。マリアが「物を投げる」と言った手は、大きい。あの手で壁を殴ったのか)
「お初にお目にかかります。エーレンフェルト家のルイーゼです」
男爵が値踏みするような目で見た。
「……噂は聞いている。王子殿下を言い負かした令嬢だとか」
「誰も言い負かしたことはありませんわ。言い負かされて言うことを聞いてくれる人はいませんもの。——さて、本題に入りましょう」
交渉は二時間かかった。最初の一時間半は堂々巡りだった。法典の条文を示すたびに男爵は「そんな法律は知らない」と繰り返し、「知らなくても存在します」と返す作業が続いた。
男爵の主張は終始一貫していた。「契約は双方合意の上で締結された。違約金条項も含めて合意済みだ。今さら撤回は認められない」。
残り三十分。勝負に出た。
「合意の前提が崩れています。マリアさんは第十二条の意味について十分な説明を受けていません。加えて——」
ここで声を落とした。
「男爵。わたくしが調べたところ、フリードリヒ様には過去にも婚約歴があります。先方から解消を申し入れられている。理由は——ここで申し上げましょうか」
革鞄から書類の束を取り出し、テーブルに置いた。前の婚約者の実家から得た陳述書。壁の修繕記録。カタリナが社交界の伝手をたどって集めてくれた資料だ。
男爵の顔が強張った。
前世のDV案件と同じだ。加害者には「前歴」がある。一人目の被害者がいる。調べれば出てくる。弁護士は、調べる。
「……それは、関係のない話だ」
「関係があります。婚約契約書の第十二条——違約金条項——は、マリアさんが『逃げられない』ように設計されているとわたくしは見ています。マリアさんが解消を申し入れないように、違約金を法外に高く設定した。——これは契約ではなく、支配です」
フリードリヒが立ち上がった。椅子が音を立てた。
「ふざけるな。あれは前の女が頭のおかしい奴だったからだ! マリアは俺の婚約者だ!」
「座ってください。立ったまま怒鳴るのは、議論ではなく威圧です」
怒鳴る男。壁を殴る男。物を投げる男。前世で何十人も見てきた。怒鳴ることで相手を黙らせようとする。だが弁護士は黙らない。法廷で裁判長に怒鳴る馬鹿はいない。ここは法廷ではないが、私がいる限り、法廷と同じルールが適用される。
「フリードリヒ様。婚約者は『所有物』ではありません。婚約は契約です。——そして契約は、対等な当事者間で結ばれるものです」
フリードリヒが拳を握った。
(——ああ、きたきた。この拳。マリアさんが「壁を殴る」と言っていた拳。私に向けられている分には、怖くない。前世でもっと怖い裁判官を見たことがある)
男爵が息子の腕を掴んで座らせた。父親のほうが、まだ冷静だ。
「……で、エーレンフェルト嬢。何を要求する」
「三つです」
「第一。婚約の合意解消。双方合意の形式で。マリアさんの名誉は守ります」
「第二。第十二条の違約金条項は無効とする。王国法典第百十二条に基づく申し立てを、勅裁議会に行う準備はできています。そちらに行く前に、ここで解決しませんか」
「第三。マリアさんへの接触の禁止。男爵家からヴァイデンフェルト家への直接連絡は、今後、わたくしを通してください。——これに違反した場合、違約金として金貨五十枚をヴァイデンフェルト家に支払う旨、合意書に明記していただきます」
前世の保護命令に相当するものが、この世界にはない。だから、契約の形で距離を作る。金貨五十枚といえば、男爵領の税収の数割が吹き飛ぶ額だ。ただの嫌がらせのために払える金額ではない。違反にペナルティをつけることで、口約束ではなく法的な縛りにする。法律がなくても、仕組みは作れる。
男爵がしばらく黙った。
「……違約金なしで、婚約解消だと。わが家の面目は」
「面目を気にされるなら、むしろこの条件を受け入れるべきです。もし勅裁議会で審理されれば——男爵家が意図的に不平等な契約を結ばせたことが、公になります。社交界にとって、どちらが不名誉でしょうか」
(追い詰めるのではなく、折れるための花道を用意する。前世でもこの世界でも、和解交渉の基本は同じだ。相手にとって「折れたほうが得だ」と思わせる)
男爵が目を閉じた。長い沈黙だった。息子のフリードリヒが何か言いかけたが、男爵が片手を上げて制した。
「……分かった」
「賢明なご判断です。では、こちらに署名を」
革鞄から、あらかじめ作成しておいた合意書とペンを取り出し、テーブルの中央に滑らせた。
男爵が目を見開いた。そして、かすかに苦笑いした。
「……最初から、こうなる前提で来ていたのか」
「備えあれば憂いなし、と申します」
六 報告
マリアに報告した。
「終わりましたよ。婚約は合意解消です。違約金はありません。——カタリナが完璧な証拠を集めてくれたおかげですわ」
マリアが崩れるように泣いた。
「先生っ……ありがとうございます……ありがとう——」
(先生、と呼ばれた。この世界で初めてだ。——前世の事務所では当たり前の呼ばれ方だったのに、なぜか、少し嬉しい)
「泣かないでください。——いや、泣いてもいいです。今日は泣いていい日です」
マリアが泣き止むまで待った。カタリナが少し照れくさそうにハンカチを差し出し、お茶を入れ替えてくれた。今度は、少し甘い香りのハーブティー。泣いた後には、気を張るお茶ではなく、疲れた心を癒すお茶がいい。——カタリナ。あなた、本当に人の心が分かるのね。助手として、完璧だ。
「マリアさん。一つだけ」
「はい」
「これから先、誰かに『契約書に署名しろ』と言われたら——必ず、全部読んでからにしてください。分からない条項があったら、分かる人に聞いてください」
「……はい」
「契約書は、あなたを守るためのものです。あなたを縛るためのものじゃない。——もし、読んでも分からなかったら、いつでもわたくしに持ってきてください」
マリアが涙を拭いて、少しだけ笑った。
「先生。……わたくし、もう一度、誰かを好きになれるでしょうか」
(——前世のDV離婚の依頼者が、全く同じことを聞いた。橋本理沙だった頃の私が「そんなの分からない」と答えたら、隣にいた先輩弁護士が呆れた顔をした。「お前さぁ、そこは『なれますよ』って言うところだろ」って。——あの時は、嘘をつくのが嫌だった。でも、あれから分かったことがある。弁護士の言葉は、法律だけじゃなく、依頼者の未来にも影響する)
「なれますよ。——ただし、次は契約書をちゃんと読んでからね」
マリアが笑った。今度は、本当に笑った。
七 エピローグ
夜。自室。
カタリナが帰った後、一人でハーブティーを飲んでいた。
婚約破棄の代理人。前世で言えば「離婚弁護士」だ。あの頃は、離婚案件ばかりで嫌になることもあった。人の不幸を食い物にしている気分になる。でも違う。人の不幸を「解決」しているのだ。不幸を食い物にしているのは、不幸を作った側だ。
マリアさんの件は解決した。だが、あの契約書の構造は一件だけの問題じゃない。ヴァイデンフェルト家だけではなく、この王国には不平等な婚約契約書が山のようにあるはずだ。令嬢たちは中身を確認させてもらえず、父親が「家のためだ」と言って署名させる。仕組みの問題だ。
一件ずつ救うのは大事だ。でも、百件を一件ずつ救うのは、弁護士一人では無理だ。仕組みを変えないと。勅裁議会に、婚約契約書の「標準条項」を提案しようか。最低限の保護条項を義務化する。実家への帰省制限の禁止、財産管理権の一方的委任の禁止、違約金の上限設定。できるかな。いや、やるしかない。
窓の外は暗くなっていた。星がきれいだ。前世の東京では、星なんて見えなかった。
悪役令嬢弁護士、婚約破棄代理人。なかなか格好いい肩書きじゃないか。前世の名刺にも書きたかった。「橋本理沙 弁護士 離婚・婚約破棄専門」。うん、依頼者が来ない名刺だな、これ。「子爵家の令嬢まで救った」と書いたら依頼が来るかもしれないが、それは守秘義務違反だ。
カタリナが帰り際に言った言葉を思い出した。
「ルイーゼ様。わたくしも、契約書を読める人になりたいです」
それと、もう一つ言っていた。
「ルイーゼ様。明日のお茶の時間、うかがってもよろしいでしょうか」
「……もちろん」と答えた。
乙女ゲーの世界に百合ルートはない。ないはずだ。でも、この子のお茶を断る理由もない。契約書に「カタリナとお茶をしてはならない」と書いてあったら、王国法典第百十二条で無効にするが。
いいよ。教えてあげる。多くの令嬢が契約書を読めるようになったら、この世界はもう少しマシになるかもしれない。
手紙の束を見た。まだ五通、未読がある。
次の依頼者が待っている。
もう少しだけ、この地味な仕事を続けよう。テンプレみたいな人生だけど——テンプレは罪じゃない。使い方が、すべてだ。
焼き菓子の最後の一つに手を伸ばした。——カタリナの分を残しておくべきだったか。
明日、厨房長に追加を頼もう。「二人分で」と。
星の明かりの下で、ハーブティーの最後の一口を飲んだ。少しだけ冷めていた。でも、悪くない味だった。
——明日のお茶は、あたたかいのがいいな。
お読みいただきありがとうございます!
「悪役令嬢弁護士」シリーズ第2話です。
前世で離婚・DV案件を何十件も扱ったルイーゼ(橋本理沙)が、異世界の婚約問題に切り込みます。「婚約破棄」は乙女ゲーの定番ですが、弁護士から見ると「契約解除の手続き問題」なんですよね。
ちなみに、現実の日本でも婚約は「契約」です。婚約破棄には正当事由が必要で、不当に破棄すれば慰謝料が発生します。——実は婚約は契約の中でもかなり特殊な性質を持っていたりするのですが、そのあたりは、また今度。テンプレの世界でも、現実でも、約束を一方的に破ることは許されないのです。
本作の執筆にあたり、とある方にアイディアのご提供と助言を頂戴しました。この場を借りて御礼申し上げます。
◆「悪役令嬢弁護士」シリーズ
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