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ホラー傑作選

妖婆伝説

作者: 山谷麻也

挿絵(By みてみん)


 その一


(寄る年波には勝てないな)

 孝介はつくづく思った。

(あの房江さんが‥‥)

 孝介の落胆は大きかった。


 房江が頬かむりを取ると、浅黒い顔が現れた。目は窪み、額や目じり、口角には深い皺が刻まれている。手は完全に老婆のそれだった。

「久しぶりです。お元気でしたか」

 孝介の視線に気づき、房江は両の手を腰の後ろに回した。

         ☆

 孝介が勝手口の鍵を開け、開き戸を引いた瞬間、かびの匂いが入り口に漂った。

 土間に足を踏み入れると、すぐ目の前にクモの巣があった。蚊や蛾などの死骸が巣にかかっていた。巣は破れ、クモの姿はなかった。


 妻の洋子が後から来ることになっていた。

 洋子の実家は県境をまたいだ隣の町にあった。

 姉が跡を継いでいた。一昨年、夫を亡くし、最近、姉も病院通いを続けている。

「会いたがってるから、どうしても寄っておきたいの。あなた、先に行って、掃除しておいてよ」

 洋子は姉を気遣っていた。


 その二


 孝介は手荷物を運びこむと、三分ほど歩いて、隣家の房江に挨拶に行った。

 姉の法事で帰ったことを告げると

「美代ちゃん、もう三回忌になるの。早いなあ」

 房江は驚いていた。姉の美代子の同級生だった。

         ☆

 孝介は戸を開け放して、室内の空気を入れ替えた。物干し竿を拭いて、布団を干した。

 眼下に廃屋がいくつか見える。田畑は荒れるに任されていた。廃屋の周囲には杉が鬱蒼と繁っていた。


 孝介はこの地で一八まで育った。

 同級生のほとんどが都会に就職していく中、孝介は進学した。新制高等学校の一期生だった。一〇キロ以上離れた国鉄の駅までバスを利用し、高校のある町までは汽車通学した。


 孝介の家は農業と林業を兼業していた。

 当時の農家は大家族を養うために、山中にまで分け入って田畑を開墾した。麓の商店街には周辺の村に土地を借り、農作物を栽培する家もあった。もちろん、そういう土地は条件が悪く、収穫量は少なかった。


 その三


 子供たちが家の手伝いをするのは、当たり前のようになっていた。

 孝介がイヤだったのは、山仕事の手伝いだった。一日中、拘束された。

 ある日、炭俵を架線で街道まで降ろす作業に駆り出された。木炭は山奥の窯で焼かれ、出荷のために、何本かの架線が張られていた。


 中学の頃は単なる手伝いだった。一緒に働く大人の指示に従っていれば、時間は過ぎた。ところが高校生になると、一人前扱いされた。その日、孝介とペアになったのが、隣の房江だった。


 房江の父親は房江が七つの年に山で事故死した。母親をひとりにするわけにいかず、房江は中学卒業後も村に残った。

 農家の次男坊、三男坊が口減らしを兼ねて近隣に婿入りすることは珍しくなかった。美代子の結婚が決まったという話が伝わっても、房江の母親は焦らなかった。娘にも縁談が持ち込まれる日を、心待ちにしていた。しかし、村の若い衆の多くは兵隊に取られた。時世は戦時色一色に染まっていた。

         ☆

 孝介と房江は倉庫のある峠に向かった。

 滑車で炭俵がひとつずつ運ばれてくる。届いた炭俵を孝介が架線から外し、房江が小屋の中に運んだ。

 昼になり、二人は弁当を食べた。孝介は疲れから睡魔に襲われ、軽く目を閉じた。


「高等学校って楽しい?」

 房江が話しかけてきた。

 孝介は通学の大変さを話した。遠方から通っている生徒が多いことなども語ったような気がした。


 いつの間にか眠っていた。

「孝ちゃん、こんなに大きくなって」

 夢うつつの孝介に、房江の声が聞こえた。頬に何かを感じて目が覚めた。房江の手だった。

 孝介は固まってしまった。目を閉じたままでいると、房江の唇が孝介の唇に触れた。

 孝介は顔を背けて起き上がった。二人の間に気まずい時間が流れていた。

 午後、二人は無言で作業を進めた。


 その四


 ふだん顔を合わすことがあると、孝介は房江から視線をそらした。その一方で、忙しい高校生活にあっても、孝介は房江とのあの場面を忘れることがなかった。それは二度と訪れることのない、過ぎ去った一瞬に思われた。

 しかし、二人にまた林業手伝いの依頼があった。

 房江は作業の間、つっけんどんだった。孝介は朝から落ち着かなかった。房江と話そうとすると、声がかすれた。


 仕事が終わり、片付けに取りかかった。

 孝介は気まずい時間から解放されようとしていた。房江が孝介の前を横切った。孝介の手は無意識に房江に伸びていた。

「何するの。いやや。私のことなんか、好きでもなんでもないんでしょ」

 房江は孝介の腕を振りほどこうとした。孝介は積まれた炭俵に房江を押し付けた。孝介が房江の下着の中に手を入れた。

 房江はきっと孝介をにらんだままだった。


 孝介にそれ以上のことはできなかった。

 孝介は高校を卒業して村を出るまで、房江の冷たい視線を意識しなければならなかった。

         ☆

 孝介の兄は終戦の前年に亡くなった、ことになっている。兄は一六の年に失踪した。七年後に死亡と認定された経緯がある。

 母親は一九七二年に六二で病死した。孝介と姉は、ひとり遺された父親を心配した。孝介と妻の洋子は父親を引き取る準備を始めていた。ところが姉が単身、田舎に帰ると言い出したのだった。姉の結婚生活は幸せではなかったのだ。

 姉は父親を看取り、一昨年春、亡くなった。がんだった。手術を勧められるも、姉は治療を拒否して最期を迎えた。何も思い残すことのなさそうな、安らかな死に顔だった。


 その五


 夕方、布団を入れていると、房江が手料理を持ってきてくれた。

 房江には母親、父親、そして姉の葬儀と、ずっと世話になりっぱなしだった。

「奥さんが着くの明日になるっていうから、これ作って来た」

 房江はいそいそと、食器を洗って拭き、コタツの上に料理を並べた。

「孝ちゃん、確か、お酒、強かったよね」

 気を利かせて日本酒も持ってきていた。

 孝介は房江にも勧めた。法事などで目にしてきた房江と違って、お猪口には口を付けなかった。


「一人で大変だね」

 孝介は房江の来し方に思いを巡らせていた。

「寂しいなあ。村は三軒だけになった。それに、上西さんとこのおばあちゃんは老人ホームに入ってる。岡田のおじいちゃんはぼけとる。おばあちゃん、もう目が離せんて言うとる。私がいちばん若いのや」

 この村も数年後には消滅する運命だった。

         ☆

「孝ちゃん、私にひどいことしたの覚えてる?」

 房江は突然、話題を変えた。

 四〇年ほど前の出来事が蘇ってきた。

(だけど、最初に思わせぶりなことしたのは房江さんじゃない)

 孝介にも言い分があった。

「あの時は悪かったね」

 孝介はとりあえず謝った。


「私、孝ちゃんのことだんだん好きになってきて。お兄ちゃんも好きだったけど、お兄ちゃんには村に夢中になっている子がいた。寝たことあるって言ってた」

 兄にも青春時代があったのだ。女の子と付き合うこともなく、兄はある日突然、姿を消したと思っていた。孝介は兄の鎮魂を祈り続けてきた。


(房江さんは兄のことをいろいろ知っているのでは)

 孝介は房江の酌を受けながら、そんな思いを強くした。

「兄はなんで失踪したのでしょうね」

 房江はその問いには答えなかった。


「お兄ちゃんから、水車小屋に呼び出しがあったの。約束の時間に行ったわ。もしかして、という期待が大きかった。でも、待っていたのはお兄ちゃんの友達だった。私は小屋に引きずり込まれ、乱暴された。お兄ちゃんは小屋から離れたところで見張っていたのよ。その子は何日かして志願兵で出征した。私はまるで『一夜の花嫁』。昔、若い兵士が出征する前に、年頃の女をあてがう慣習があったのよ。その子は戦死した。母に真相を話すと、とても怒っていた。死んだ子はしようがないとして、お兄ちゃんだけは許さないって。母は私のことが知れるのを恐れた。父親のいない、しかも『傷物』にされた娘に婿入りする者なんかいない。母親はお兄ちゃんと会い、何かを言ったはずなの。でも、今となっては闇の中ね」


 その六


 房江は台所へ酒を燗しに立った。孝介は今夜に限って早く酔いが回っていた。

「戦争が終わって、私はある人と付き合うようになったの。母は喜んだ。でも、私は最後まで体を許すことはできなかった。水車小屋のことが頭から離れなかったの。破談になった。私はもう結婚をあきらめていたわ」

 房江は孝介に酒を注いだ。孝介のお猪口を持つ手が、動悸で小刻みに揺れた。


「それでも、不思議なもので、孝ちゃんが大きくなって、お兄ちゃんに似てくると、次第に胸がときめくようになった。だから、峠で孝ちゃんと一緒に仕事すると聞いた時、とても楽しみだった。母は最初、猛反対してたけど、折れた。ただし『孝介の子供をはらめ』というのが条件だった。母は毎晩、熱心に祈祷していたわ」

 娘に妊娠させることにより、何を狙っていたのだろう。孝介には理解の域を超えていた。


「倉庫で孝ちゃんの寝顔を見た時、なぜか体の芯が熱くなり、自分を抑えきれなくなったの。『今なら男の人を受け入れることができる』って思ったわ。だけど、孝ちゃんは私を拒否した。孝ちゃんが私の体を求めてきた時には、私は嫌悪しか感じなくなっていた。孝ちゃんが先に帰り、私はゲーゲー吐いていたわ」

 孝介はトイレへ向かった。廊下で足がもつれた。後ろで房江が食器を片付け、雨戸を閉める気配がしていた。


 その七


 洋子がタクシーを降りた。そこから先は行き止まりだった。孝介のクルマはなかった。

(買い物が多いので、第一便は一人で行ったのかな)

 くらいに考えた。

 細い坂道を登ると、孝介の生家が見えた。隣の生垣から老婆の顔が下方をうかがっていた。


 庭は草が伸び放題だった。玄関は閉まっていた。勝手口の戸が風に音を立てていた。

 勝手口から中に入ると、髪にクモの巣がまとわりついた。干からびた蝶や蚊に混じり、クモの糸でぐるぐる巻きにされた大きな蛾が、かすかに羽を震わせていた。


 異状に気付き、洋子は外に出ようとした。庭に老婆が立っていた。

「奥さん、長い間、留守にしとると、家は傷んでまっしゃろ。こんな老人やけんど、何かの役には立てますよって、言いつけてつかあさいよ」

 洋子は老婆をみつめたまま、ゆっくりと会釈した。

「あなたは確か房江さんでしょ。その節は孝介の姉もお世話になりまして」

「いや、房江は今年はじめに、死にましてな。私はあれの母親です。いろいろやることがあって、なかなか引退できませんのや。お陰で、こんなになってしもうた」

 老婆は笑いながら、節くれだった手を見せた。

 

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