5.回想
「レオン、そこは違うわ。接続詞の使い方が少し乱暴」
母・アグネスの穏やかな声が、書斎の窓辺に響く。
この日はアグネスの教えを受けるため、幼馴染のユリウスとアグネスも屋敷に来ていた。
「えー、これでもちゃんと読めてるってば。ね、ユリウス!」
「俺を巻き込むな。お前の文法は、たしかにちょっと乱暴だな」
ユリウスはくすりと笑いながら、隣の机に座っている。レオンより三歳年上の彼は、すでに文官の教養を身につけつつある。淡い銀髪が陽光を受け、やわらかに輝いていた。
「むぅ……アメリア姉さんに見せたら『可愛い字ね』って褒めてくれたのに」
「それは内容じゃなくて、字面の話だろう」
読書机のそばでは、父レオナルドが庭師に軽く挨拶をしていた。窓越しに見える庭には、まだ幼い花々と、駆け回る小さな動物たち。護衛たちの姿も穏やかで、剣の鍔鳴りすら平和な音に聞こえる。
ユリウスがふいに席を立つと、レオンの額に軽く指をあてた。
「でも……少しは上達したな」
「えっ、なにそれ、褒めたの? ねえ、今の褒めたってことでいいよね?」
「うるさい。……ほら、アグネス様に叱られるぞ」
くすくすと笑うアグネス。レオンはふざけながらユリウスの袖を引っ張り、騒がしくも穏やかな昼下がりが流れていった。
――それが、最後の平穏だった。
夜。ユリウスとアグネスが帰った後。
風が冷たく、妙に静かだった。
遠くで犬が吠える声がした直後、屋敷の裏手から「ガシャン」と何かが砕ける音が響いた。
「……?」
寝間着姿のレオンは、目を覚ましていた。何かおかしい。胸がざわつく。蝋燭を手に部屋を出ると、すぐに階下で何かが燃えているような匂いが鼻を突いた。
「…逃げて!…レオン!」
声を聞くより早く、アグネスが彼の腕をつかんでいた。焦燥の浮かぶ表情――いつもの穏やかさはなかった。
「今すぐ、屋敷の裏口に行って。そこから川辺に逃げるのよ」
「なにが、どうして――父上は!? 」
「いいから早くなさい!ユリウス殿下にはすでに伝えたわ。彼は……きっと、あなたを探しに来る」
音が近づいてくる。階段を重い足音が駆け上がってくる気配。
階段の下、燃え広がる炎。父の怒号。鉄の擦れる音。悲鳴。
炎の向こうから姿を現した父がレオンの肩に手を置いて言う。
「生きろ、レオン、スワニルダ家の誇りはお前が守れ」
「でもっ…!」
「走れ、レオン、二度と振り返るな」
火の手が回る廊下を、レオンは夢中で駆けた。
足元には割れた陶器と倒れた燭台、床には見知った者たちがうつ伏せになって動かない。煙が目にしみて、喉を焼く。頭の中は真っ白で、ただ母の言葉――「川辺へ」が何度も反響していた。
(父上…母上……。俺だけは生きなきゃ)
壁を支えにしながら、屋敷の裏口に続く細い通路へ滑り込む。そこは、昔、厨房の使用人たちが使っていた通路。ふざけて忍び込んでは叱られた、その隠れ道が、今や命の綱だった。
背後で建物が爆ぜるような音を立てる。振り返らない。レオンは歯を食いしばり、息を詰め、ただ足を前に運んだ。
やがて冷たい夜気が、煙の中から顔を出す彼を包んだ。
「……っ、ハァ……ハァ……!」
見覚えのある石垣を越え、小道を抜け、かつて父と釣りをした小川を目指す。
だが、道半ばで足を取られ、彼は倒れ込んだ。
「く……そ……!」
足首をくじいたのか、痛みが走る。それでも立ち上がる。炎の匂いが追ってくる。闇の中から誰かの足音も聞こえる。探されている。
草をかき分け、川べりの茂みへと身を滑り込ませる。背を木の幹に預けたとたん、全身から力が抜けた。どこかで鳥が鳴いた。夜の森は、惨劇と無関係に静かだった。
涙は出なかった。ただ、視界がぼやけていく。頭の奥がずきずきと痛み、眠気が襲ってきた。
「なんで……誰が.....」
その呟きが誰に聞かれることもなく夜の闇に溶けたときには、レオンの瞳はすでに閉じられていた。