憧れの人と婚約できたと思ったのにぬか喜びでした。きっともう婚約破棄をするしかありません。
まだ政略結婚の思想は根強く残っているけれど、時代は少しづつ移り変わってきた。
新しい女王陛下が即位したこの十年程で、変革は特に顕著になってきている。
皆が自由に恋愛できない風習はもうお終い。そんな思想を掲げた女王陛下は様々な意識改革をしていて、この女王主催のダンスパーティもその一環だった。
一般的に、ダンスは男性が誘うものだし、女性は好きでなくても家の利益になるのであれば誘いを承諾せざるを得なかった。
だけど女王主催のダンスパーティは、会場で誰が誰を誘っても良い。
勿論、女の子が積極的に男性を誘っても誰もとがめない。
だから、どうせ政略結婚させられるのだから恋愛なんてしてはいけないと諦めていた女の子たちが、この場を借りてどんどんと幸せになっているらしい。
今回も、王国中の適齢期の貴族が招待されているというから、エメルデ・ワイトベルはさんざん悩んだ末に、参加を決めた。
……結婚なんて私はぜーんぜん全く興味はないし、まあ別に?誘いたい人なんて全然いないけどっ?
しかしエメルデはこの日の為にドレスを選んだり、念入りに肌を磨いたり、色々と準備をしてきた。
そして、いざ会場。
エメルデは竦んでしまいそうになる足に喝を入れ、気合を入れる為に頬まで叩いた。
エメルデは精霊数式学の分野で既に頭角を現している理数系の才女である。(特殊系のオタクとも言う)
大勢の前でのプレゼンなんて馴れている筈だし、男だらけの職場での競争にも負けていない。
……ちょっと男性に声をかけるくらい、よ、よゆう。
エメルデはえいっと胸を張り、ズンズン大股で会場内を突っ切って歩く。
男性が声をかけようとしてくるのも無視する。
おめかしした女性がエメルデの気迫に驚いて、小さく悲鳴を上げて脇に避けたのも無視する。
脇目もふらずに歩いてきて、ようやくエメルデが立ち止まったのは会場の隅。
「お、踊ってあげても良くってよ!」
仁王立ちして、勇気を出して言ってやった。
おそるおそる、目の前の人物の反応を見る。
「……は?」
目の前の人物はぽかんとしていた。
「だ、だから、お一人で余ってしまったんでしょう。この会場にいる女性は233人に対して男性は265人もいるから単純計算で32人も余ることになるわ。だから私がボランティアで貴方と踊ってあげても良くってよ!!!」
「はあ……」
エメルデの目の前にいて、目を丸くしているのは、グリシス・エンデバーグという男性だ。
黒髪で背が高くて、シュッとした目とすっと通った鼻筋の伯爵子息。
知り合いの令嬢達はみんな口々に、「超美形」とか「冷たい感じがいい」とか「女嫌いそうなところが素敵」なんて言う。要するに、彼は女性に人気がある。
(私も、正直に言うと顔がどタイプなのよね。こんなにかっこいい人は見たことないわ)
コホンと咳をして、エメルデはグリシスを見た。
……のはいいが、目があってしまうと恥ずかしくて、勢い余って強めに睨んでしまった。
印象最悪だろう。けれど、後に引けずそのまま押し通すことにした。
「き、聞いてます?私が、お、踊ってあげましょうかと言っているの。あ、でも勘違いはしないでよね。貴方が誰とも踊らず一人だったから、適当に声をかけただけなの」
「そうか」
まくし立てたエメルデに、グリシスは小さく相槌を打った。
グリシスは特段嫌そうな顔をしているようにも見えないが、嬉しそうでもない。
グリシスはあまり感情が表に出ないタイプらしい。
しばしの沈黙ののち、耐えかねたエメルデが再び口を開いた。
「だ、だんまりじゃなくて、そろそろ、へ、返事をくれてもいいんじゃない?私と踊るの?踊らないの?」
「まあ、いいが」
「ふうん。あらそう。まあ私も貴方が一人で可哀そうだと思って声をかけてあげただけだし?別に断るのなら好きにしなさいな。私は別に全然がっかりなんてしてないし、私だってこう見えて、頑張れば今夜の踊りの相手なんていくらでも………………って、え?」
エメルデは潔く去ろうとして足を止めて、グリシスを二度見してしまった。
「今、何と言ったのかしら?」
「踊ろうか?」
エメルデの喉から、蛙のような声にならない悲鳴がもれた。
……踊ってくれるの?え?嘘?ちょっと待って。ありえない。私なんて、理数系コミュ障女なのよ?幻聴だったのかも。
普通に振られると思っていた。
99.9999%の確率で容赦なく断られると思っていた。
最近両親が縁談の話をチラチラしてくるようになったので、ずっと片思いを引き摺っているのも良くないと思ったエメルデは、これを一生に一度の記念の告白にするだけの予定だったのに。
(実は2年前にハンカチを拾ってもらってグリシスに一目ぼれして、今までずっと好きだったのよね)
エメルデが混乱したまま突っ立っていると、持っていた飲み物のグラスを給仕に返したグリシスが首を傾げた。
「大丈夫か?」
「大丈夫……?も、勿論大丈夫よ。でもその、誰と誰が踊るの?」
「君と俺だと思ったのだが」
「えっ?!じゃ、じゃあこれから貴方と踊るのって、私ってことなの?」
「?……そうじゃないのか?」
「あ、えっと……コホン。ま、まあどうしてもと言うなら踊ってあげなくもないんだから!!!」
声が上ずってしまった。
だけどなんとか誤魔化して、エメルデは何とかグリシスと踊り切った。
グリシスが踊っていることを目ざとく見つけた女性たちからの視線が痛かったけれど、それ以上に緊張が激しくて、何を喋ったか覚えていない。
しかし曲が終わった最後に、どんな会話をしたのかだけははっきりと覚えている。
「踊った相手同士、後日一緒に出掛けたりする人たちもいるようだけど、ど、どうするの?まあ私、週末にシーフードが美味しいレストランあたりに行こうと思っていたから、ついでに貴方も来るというのなら招待してもいいわよ」
「その日の予定はないが」
「ふうん?じゃあ来ればいいじゃない」
「そうだな」
「あらそう。別に行きたくないというのならいいわ。私だって友達くらいはいるから、貴方と行かなくたって全然残念なんかじゃないもの………………って、え?貴方、私に会う気なの!?」
「?……そういう話ではないのか?」
「あっ、えっ、そうだけど?!まあ私は忙しいけど、貴方がどうしてもって言うのなら仕方がないわよね。とびっきりの食材を仕入れておくようにシェフに言っておくわ。ちなみに貴方、アレルギーはあるの?」
「いいや」
「そ、そう!なら面倒が省けていいわ」
…
「それ熱いから気をつけなさいよね!」
「わかった。ありがとう」
「べ、別に貴方の舌が火傷しようと私には関係ないんだからお礼なんて要らないわよ!」
「これは美味しいな」
「ふ、ふうん。貴方はそういうのが好みなのね……あ、別に貴方の好みをもっと知りたいとか、そういう事は全然考えてないんだから!」
「そうか」
「蟹は手で食べるのが一番おいしいな」
「あら、それはマナー違反だわ……と言いたいところだけど、私もお母様がいないところでは手で食べる派よ!ほら、こうやって!」
「はは、両手に蟹足を持っている令嬢は初めて見た」
デートの当日も、エメルデは終始こんな調子だった。
もっと可愛げと優し気があれば、百億分の一くらいのラッキーでグリシスに「楽しかったからまた出かけようか」なんて言ってもらえたかもしれないのに、どうしても緊張してしまうエメルデは、どうしようもない喋り方しかできなかった。
食事を終えて、レストランから夜道に出ても相変わらずだ。
「今日は貴方とご飯を食べられたなんて楽し……じゃなくて、その、いい時間潰しにはなったわ」
「そうか。俺は思ったより楽しかったが」
「まあ一緒に食べた相手はともかく食事は美味しかったでしょ。口利きしておいてあげるから、またいつでも好きな時に来たらいいわ。他の女性とだって勝手に来たらいいんじゃない?………………って、貴方、楽しかったの?!」
「まあ、そうだな」
「へ、へえ、ふーん?!別に私は楽しくなんてなかったけど、貴方がそう思うのなら別にそう言うことにしておいてあげてもいいわよ?!……あ、これシェフに用意してもらったお土産。貴方が美味しいと言っていたやつよ。お家で食べなさいな」
「2つも?こちらは君の分では」
「別にいいわよ、美味しかったんでしょ!それより私、もう忙しいから帰るわ。それではさようなら!!」
片手に持っていた自分の分のお土産までグリシスに押し付けて、大通りで馬車を捕まえるためエメルデは走り出した。
心臓がもう限界だった。
しかし、そんなエメルデの心境など無視して、グリシスに呼び止められた。
「次、いつ空いている?」
「え?!」
冬の夜道は冷たい。
しかし足を止めたエメルデの心臓は何よりもうるさくて、寒さなんて全然感じていなかった。
「次いつ空いてるって、まさか、もしかして貴方まさか、よよよ予定を聞いてる?」
「ああ」
「そ、そう、へー、ふうん?!っていうか、だだだだだ、誰の予定を聞いているの?!」
「君しかいないと思うが」
「わわわわ私の予定なんて知ってどうするのよ!」
「次は俺がレストランにでも連れて行ければと」
「えっ」
……はい?え?なんで?ちょっと待って。一度っきりのデートじゃないの?
「に、二回目があるの?」
「無理にとは言わないが」
どうやらエメルデの聞き間違いではないらしい。
エメルデは蒸発してしまいそうになりながらも、何とか首を縦に振った。
「ま、まあ私も暇だし?行ってあげないこともないけど」
「では来週末はどうだ」
「そ、そうね。友人と食事会があるけど、たった今キャンセルする予定になったから丁度暇ね。いいわ、あなたの誘いに乗ってあげる」
「いや、すでに予定があったのならそちらを優先してくれ」
「キャンセルする予定と言っているでしょ。あ、いえ別に、貴方に会えるのを楽しみにしている訳じゃないわよ?!」
「そうか、わかった。では来週末」
「し、仕方ないわね。じゃあ来週末に」
そんなこんなで来週末も会う約束をして、エメルデは今度こそ帰路に着いた。
帰りの馬車の中で、何度もグリシスの顔を思い出してしまった。
胸が躍る。顔がにやける。
でもグリシスのようなかっこよくてモテる人が、エメルデのような女を本気で相手にしようと思っている筈がない。
だから落ち着け。浮かれてしまっては駄目だ。
引き続き、振られるに決まっているという心持ちで毎日過ごすくらいでなくては。
しかし、会うたびにさりげなく次の予定を取り付けられて、エメルデは月に二、三回グリシスに会うようになっていた。
グリシスは口数が多い方ではないが、エメルデの話を良く聞いてくれる。
冷たい見た目をしているがハンカチを拾ってくれた時と変わらず優しいし、時々エメルデの高飛車な物言いにも笑ってくれる。
「良い色のコートだな」
「え?!べ、別に今日の為に仕立てた訳じゃないわよ。今日なんて全然楽しみじゃなかったし、むしろ忘れてたくらいなんだから!」
「はは、そうか」
「口にソースが付いている」
「え、嘘!?美味しすぎて気付かなかった……じゃなくて、これはほくろよ。淑女がこんなミスを犯すはずないじゃない」
「本当にほくろかどうか拭いてみてもいいか?」
「だ、だめよ!ほくろは触ると大きくなるわ!」
「ははは。そうきたか」
「この間、夜寝られない事があるって言ってたでしょ。ハーブのお香作ったからあげるわ。いらなかったら庭の肥料にでもして構わないから」
「作ってくれたのか?」
「べ、別に、貴方ががんばってるから、ちょっとでも休んでほしいって思ったわけじゃないの!ついでよ、適当に作っただけなの!……あ、この手の絆創膏は何でもないんだから!」
「そうか、ありがとう。大切に使う」
「た、大切に使わないで!適当に作っただけだって言ってるでしょ!」
なんとなく、グリシスとの距離が徐々に近くなっている気もしていた。
だけどエメルデは、毎回自分を戒める。
グリシスはとてもかっこよくて文武両道で、騎士としてどんどん功績を残している。
性格も穏やかで紳士的だ。
まあ一つ難点があるとすれば、序列が低めの伯爵家の出身で、しかも家は継げない次男らしいというところだけれど、そんなものあってないような欠点だ。
そんな彼はもちろん、女性たちから放っておかれるはずもなく、令嬢のお茶会に出席すると必ず名前が挙がる。
(このあいだも、「彼のことを誘ってみたいんだけどね~」と言っている令嬢がいてドキッとしたのよね)
それに比べて、エメルデはまあまあ名の知れた侯爵家の娘ではあるが、勉強が少しできるだけのコミュ障の女。
グリシスの隣を歩くたび、分不相応すぎて益々緊張する。
しかも最近、風の噂によると、あの聖女様もグリシスを狙っているなんて聞いた。
実際、騎士団に訪問した聖女がグリシスにやたら話しかけていたとか、あの目は恋する乙女だったとか、色々な話をそこかしこで聞く。
だから正直、グリシスが聖女といい感じになって、エメルデを誘わなくなるのは時間の問題だと思う。
エメルデとしてはグリシスをどんどん好きになっていく自覚はあるし、誘われれば絶対に断れないけれど、だからこそ危険だ。
近い将来、「聖女と結婚するから」なんて言われてもう誘われなくなるだろうと思って生きるのが賢明な気がする。
頭の中で、純粋無垢で可愛い聖女と、自分のようなコミュ障の理数系で高飛車な物言いをする女の魅力度を計算して答えをはじき出し、エメルデは一人静かに頷いた。
勿論、計算結果は聖女の圧勝だ。男はほとんど聖女に惚れる。
リアリスティックに生きなければ。
「今日のレストランもまあまあだったわね。98.999点と言ったところかしら。ギリギリ友人にお勧めできるレベルよね」
「それはよかった」
この日もグリシスに誘われてレストランに赴き、食事を終えて帰路に着いていた。
最近はグリシスが行きも帰りも馬車で送ってくれる。
今日のグリシスはいつものように停めた馬車にエメルデをエスコートしてくれたが、御者にエメルデの家ではない行き先を告げていた。
「これからどこかへ行くつもりなの?」
「ああ、勝手にすまない。どうしても話したい事があって」
馬車に乗り込んできたグリシスが少しだけ目を伏せた。
何だろうと思ったが、この態度にエメルデはピンときた。
……聖女の話に違いないわ。
まあグリシスは真面目だから、エメルデに対して聖女と恋仲になった報告をきちんとしようと思い立ったとしても不思議はない。
エメルデはしばし馬車で揺られ、大きな白亜の神殿迄連れてこられていた。
そこは武力を司る精霊が祀られた神殿で、騎士団員がよく祈りを捧げている場所でもある。
神殿の中に入ってキョロキョロと見まわすと、橙に照らされた白いタイルの幻想的な空間が広がっていた。
祈りを捧げている人もチラホラ見受けられる。
前を歩いていたグリシスがピタリと止まったので、エメルデは口を開いた。
「それで、話しって何?本当は今すぐ逃げたいけど、仕方ないから聞いてあげる。……ストーカーになったり聖女を虐めたり、そんな非生産的なことはしないから、こんなところまで連れて来て宣言しなくてもよかったとは思うけど」
「?……聖女?ストーカー?」
「その話がしたいんでしょ」
「ちがう」
大きな精霊の像の前で、グリシスがくるりと振り向いて、エメルデの前に立った。
じっと目を見つめられる。
グリシスの雰囲気がいつもと違うので、エメルデは思わず後ずさった。(でも、いつにも増して顔がいいわ!)
そして堪らなくなってエメルデが目を逸らすと、グリシスがもう一歩分距離を詰めてきて口を開いた。
「話と言うのは、その」
「ええ、どうぞ」
「ええと」
「もう、歯切れが悪いわね。言いにくいことなのは分かっているわ。でも私、自分の身のほどは分かってるつもりだから、容赦なく振ってくれて構わないわ」
「いや。逆だ」
「はい?」
「婚約、してほしい」
「はい!?」
よく分からないことを言われた。
「いや、いきなり過ぎたな」
「……はあ」
「ごめん、気持ちを押し付けてしまった。ただ、どうしても伝えたいと思って」
「はあ」
「勿論、嫌だったら断ってくれても」
「はあ」
「まあ、断られたらどう立ち直ればいいか分からなくはなりそうだが」
エメルデはショートしてしまった頭で、断片的に聞こえて来た言葉を解読していた。
しかしいまいちよく分からなかったので、恐る恐るグリシスに聞いてみた。
「質問、いいかしら」
「どうぞ」
「婚約って言った?」
「言った」
「それ、貴方と聖女様の話よね?」
「……は?!」
しかし思い切って聞いてみると、グリシスはものすごく驚いた顔をしていた。
「なんでここで聖女なんて出てくるんだ?!」
「でも聖女様と比べたら私なんてゴミ同然でしょ?」
「はあ?!いつ誰がそんなことを言った」
「でも私、理数系のコミュ障女だし、一緒にいても楽しくなんてないでしょう?」
「楽しくないと言ったことは一回もない。確かに最初話しかけられた時は変な女性だと思ったし驚いたし訳が分からなかったけど、君は本当は優しいし明るいし真面目で……可愛いし……、今では誰といるより楽しい」
「え?!で、でも……」
何度も何度もしつこいくらいに確認したが、グリシスはエメルデが良いと言い切った。
こんな女のどこがいいのか、よく分からない。
でも、グリシスに惚れてしまっているエメルデの返事なんて一択しかなかった。
「話は分かったわ……えっと、その、仕方ないから、ここここ婚約くらいしてあげてもいいわよ」
「本当か」
「こ、こう見えて頭だけはいいの。良妻くらい簡単になれると思うわ。お金も侯爵家から引っ張ってきてあげるし、コネも全力で使うわ。貴方には何不自由ない暮らしをさせてあげる」
「それは俺の台詞では」
グリシスははははと笑って、小さくエメルデの手を取った。
この日が、多分エメルデの幸せの絶頂だった。
そしてそれは、儚い一瞬の夢だった。
婚約が決まって数か月後、エメルデはどん底に突き落とされた。
真実は、やっぱり幸せなものでは無かったのだ。
「聖女のフロリーナ様はやっぱり可愛いなー」
「ああ。でもあの子、グリシスと付き合ってるぜ」
「え、グリシスって婚約してなかったっけ?!」
「してたっけ?」
「してたしてた!美人だけどコミュ障な感じの金持ちの侯爵令嬢!」
……私の事だわ。
久しぶりに仕事が早く終わったので、アポなしで騎士団の訓練場に立ち寄ったエメルデは、渡り廊下を歩く二人の騎士の会話を偶然聞いた。
エメルデの足はショックで動かないが、幸い二人の騎士はエメルデに気付いていない。
「じゃあ二股ってこと?」
「まあ一回婚約すると中々破棄できないから今は二股になってるだけで、本命は聖女様だろ?グリシスも聖女様の為に早々に婚約破棄するんじゃね?やっぱり聖女様に本気でアピールされれば落ちない男はいないからな」
「そうだよな。でもグリシスは真面目で一途なやつだと思ってたんだけどなー」
エメルデは去っていく二人の騎士を見送って、その場に崩れ落ちた。
……私だって、真面目な人だと思ってたわよ……。
聖女のことなんて考えたことないって言ってたくせに、やっぱり本気でアピールされたらカンタンに落ちちゃうんじゃない……。
しばらく立ち上がれる気がしなかった。
……このままここで植物になりたい……。
だけど、少し頭が冷えてくると、人の話を鵜呑みにせず本人に確認するべきなのでは、と思考が戻ってきた。
力をふり絞り、よろよろと立ち上がる。
「……帰ろ」
それからエメルデは、どうしても起きられず3日間仕事を休んだ。
グリシスには何も連絡はしなかった。
そして4日目に覚悟を決め、グリシスに聖女のことを問い詰めようと訪れたエンデバーグの屋敷で、エメルデは更に決定的なものを見てしまった。
「そうだ。今日、お暇でしたらこれからお茶でもしませんか。お菓子を作って来たんです」
「え、お菓子を作ってきてくれたの?」
「はい」
純粋無垢な見た目で可愛らしい声の聖女が、玄関前でグリシスと手を繋いでいた。
「この間はピクニックに連れて行ってくれたでしょう?だからそのお礼です」
「別に、俺が連れていきたかったから連れて行っただけだよ。気を遣わなくてもよかったのに」
「でも嬉しかったので、その気持ちをお伝えできたらと」
「そうか、ありがとう。フロリーナにそんなこと言ってもらえる俺は世界一の幸せ者だよ」
「ふふ、わたしもいつも幸せをいただいています」
2人はとても楽しそうに笑い合っている。
距離はものすごく近いし、いつも少し冷たい感じのグリシスの表情は、聖女の前でだけ柔らかくて晴れやかだ。
やっぱり、あの二人は誰が見ても愛し合っている恋人同士。
エメルデに入り込む余地なんてないことは明らかだ。
もう問いただす必要もなくなった。
グリシスのようなかっこいい男性と自分が釣り合う筈がない。いつか夢が覚めてしまうに違いない。
そんな予感は以前からあったのだ。
でも婚約して、その予感が外れたのだと思い込むことにしていただけだったのだ。
エメルデはトボトボと回れ右をした。
「あー、失恋ってこんな感じなのね」
……婚約破棄、することになるのよね。
すっぱり別れてあげるのが、最後に私がしてあげられる事かしら……ううん、私から婚約破棄をしてあげれば、グリシスにとってきっとそれが一番嬉しいはずよね。
「はあ」
婚約破棄をしよう。
それは決めることができたが、溜息が止まらなかった。
今までの楽しかった時間も全てうそだったのだと思うと、これから何を支えに生きていけばいいか分からない。
好きな人がいなくなった人生をどう生きればいいか分からない。
馬車も使わず彷徨うように歩いていると、突然雨が降ってきた。
足元にぼたりと落ちたのは、大粒の雨だ。
……と思ったが違った。
雨だと思ったのはエメルデの涙だった。
……そりゃ、ずっと前から好きで、話したり一緒に出掛けたりしてもっと大好きになったんだもの。
苦しいに決まってる。
婚約破棄なんて嫌に決まってる。
他の子の事なんて好きにならないで欲しかったのに。
「うわああああああん!」
人目も気にせず、大声で泣いた。
高飛車な言い方もやめるし、もっと可愛くなれるように努力するから。
だから、聖女が現れる前まで戻りたい。過去に戻ってやり直したい。
そうしたらもっともっと頑張って惚れてもらえるように努力するのに。
仕事もせずに部屋に籠っていたかったが、エメルデは次の日、仕事に出かけた。
そして帰りのその足で、グリシスのいるエデンバーグの屋敷に再び訪れた。
「ああエメルデ。いきなり訪ねてくるなんて珍しいな。言ってくれれば君の好きな菓子も準備できたんだが」
「大丈夫よ。話はすぐに終わるから」
「そうか」
一周まわって冷静そのもののエメルデの様子を、グリシスは少し不審に思ったようだったがサロンに通してくれた。
「単刀直入に言うわ」
エメルデはお茶をサーブした給仕が下がってから、ポシェットから書類を一枚静かに取り出した。
「婚約破棄をしてあげる」
「……は?」
お茶に口をつけようとしていたグリシスが固まった。
聖女との逢引がバレたことに動揺しているらしい。
「怒っていないわ。私、別に貴方のことなんてどうでも良いもの」
昨晩何度も練習をした台詞を言い放った。
これくらいのきつい言葉を言わないと、エメルデは今にも泣いてしまいそうだ。
「どうして」
婚約破棄の書類をその手に握らせると、いつも穏やかでクールなグリシスは、流石に少し狼狽えた表情を見せた。
「教えてくれ。何かあったのか」
「いいえ、別に」
「俺が何かしたのか」
「別に」
「他に、好きな奴でもできたのか」
「違うわ」
「ではどうして」
……だから、どうしてじゃないわよ!
エメルデは叫びたくなるのを堪えて、無言で立ち上がった。
もう話すことは無いとばかりに、スタスタと出入り口へ移動する。
「待て」
慌てて追いかけて来たグリシスにガッと手を掴まれた。
しかしエメルデは渾身の力をこめて振りほどき、その勢いで思いっきりドアノブを引いた。
「貴方なんて、聖女様と世界一の幸せ者になってしまえばいいんだわ!!聖女様は私なんかと違ってとっても可愛くて素敵だもの。貴方とはお似合いよ!それではさようなら!!!」
「聖女?!待て待て待て待て!!!」
扉を開けて去ろうとしたのに、すんでのところで後ろからバタンとグリシスに閉められた。
おかげでエメルデは扉とグリシスに挟まれるような状態になってしまったが、気が立っていたので深く考えず、振り返って正面からキッとグリシスを睨みつけた。
「引き留めないでくださる?貴方と私はもう他人よ」
「他人じゃない。俺はまだ婚約破棄に同意していない」
「じゃあ今すぐここで同意なさいな。何を躊躇う必要があるというの?あれだけ聖女様とイチャイチャしておいて」
「何故また聖女なんて出てくる」
「あら。まだとぼける気なの?女の敵だわ」
「だから、何の話をしているんだ」
仕方がないので、エメルダは見聞きした全ての証拠を事細かに連ねた。
こんな裁判官のようなことをしてグリシスを青ざめさせるようなことなどしたくなかったが、彼自身が望むのであれば仕方がない。
「……という訳よ。もう証拠は揃っているの。だから私が婚約破棄をしてあげるわ。本当は絶対に婚約破棄はしないって泣き喚いてやろうかとも思ったけど、貴方に嫌われるのは嫌だし」
……グリシスに嫌われるのだけは嫌。ああ、ちょっと泣きそうだわ。
気丈に振舞う努力はしているが、喋り始めると止まらない。
エメルダの内心はガタガタと震え始めていた。
「本当は聖女なんかに貴方をあげたくないし、貴方に近づかないでって聖女の所に殴り込みに行こうかと何度も思ったわ。なんで私じゃダメなのって何度も何度も思ったわ。でも、私では貴方を幸せに出来ないのなら、私が身を引くべきでしょう?」
……ああ、駄目ね。もう我慢できない。目の前がぼやけてなにも見えないわ。
「こんなに好きにさせておいて捨てるなんて、貴方は本当に悪い人よね。ぐす……あーあ、恋愛って最悪ね。私、もう一生立ち直れないと思うわ。立ち直れる人間がいたらもれなく世界最強よ。ぐす」
下を向いて唇を噛み、何とか涙を止めようと踏ん張る。
しかしエメルデの涙は後から後からこぼれて来て、止まらなかった。
しかしいきなり、何か温かいものがふわっと頬に触れた。
吃驚して顔を上げると、頬を包んだのがグリシスの手だということが分かった。
そして、何故か恥ずかしそうな顔のグリシスに見つめられた。
「君はそんなに俺のことが好きなのか」
「そうよ知らなかったの?悪い?!こんな女にここまで好かれるなんて貴方も可哀そうよね。ざまあみろだわ」
「いや、逆だ」
グリシスの長い指が動いて、エメルデの涙を拭く。
優しい手つきで、何か勘違いしてしまいそうになる。
折角諦めたのに、何なのだ。
しかしエメルデが抗議する前に、グリシスが愛おしそうにエメルデの手を握った。
「ほら、もう泣くな。全部勘違いだということを今から教えるから」
グリシスはエメルデの手を握ったままサロンの扉を開け、使用人を呼んだ。
そして誰かをここへ連れて来いと指示したようだった。
そして待つこと数分。
サロンへやって来たのは。
「兄のエリシスだ」
「グリシスの兄のエリシスです。君が噂のグリシスの婚約者だね。思ってたより美人だ」
顔も声も背格好も全く一緒。エメルデの目の前にグリシスが二人。
エリシスと名乗った方をよく見れば、ほんの少しグリシスより表情が豊かだ。
しかしそれを知っていなければ、見分けが全然つかない。
「え?え?」
混乱して後ずさるエメルデの手を、グリシスがさりげなく引っ張る。
「エメルデ、俺に兄がいることは知っているな」
「ええ」
「エリシスは俺の双子の兄だ。同盟国に騎士として派遣されていて、数年この国にいなかった。最近帰ってきたエリシスを見て両親も俺と勘違いしていたから、見間違えることもあるだろう」
「たとえ遠目にでも、君にだけは間違えて欲しくは無かったが」とグリシスはボソッと付け足したが、気を取り直したようで、エリシスに恋人の名前を教えるように促した。
「ああ俺の恋人?フロリーナだよ。国に帰って来てすぐの時護衛任務に就いたのが始まりでさ。聖女との恋なんて大変そうだけど、それが逆に燃えるというか」
話しを振られたエリシスは嬉しそうに聖女とのなれそめを語りだした。
ついでに、ピクニックに連れていった時聖女が喜んだ話も、聖女がお菓子作りを好きなことも、優しいことも可愛いこともとくとくと聞かされた。
「それって、つまり……」
ここまでされれば、あとは何も言われなくても理解した。
エメルデは青ざめて、恐る恐る横を見上げる。
静かな顔のグリシスと目があった。
「君は勘違いをしていた」
「はい」
「俺は聖女なんて興味がないと何度も言ったのに」
「ご、ごめんなさい……」
素直に認めるほかなかった。
これは完全にエメルデが悪い。
エメルデが勝手に早とちりして、勝手に暴走しただけだった。
暴走して婚約破棄を叩きつけた挙句、どれだけグリシスが好きなのか洗いざらい暴露してしまった。
……ん?どれだけグリシスが好きなのか洗いざらい暴露?
思い返してみれば、なんて、なんて恥ずかしいことを。
「あの、謝罪ついでに、さっきのことも全部忘れて欲しいのだけれど……」
「さっきの事?」
「婚約破棄をしようと言ったこととか、よ」
「とか?」
「ほら、その後に私が言ったこととかよ!」
「その後のことか……何のことか具体的に言ってくれないと分からないな」
普段優しいグリシスがちょっとだけ意地悪な顔になった。
「何を忘れて欲しいんだ」
「だから、その、……とか言ったことよ」
「もう少し大きな声でないと聞き取れない」
「だから、私が貴方のことを……好き……とか言ってしまったことを忘れて欲しいの」
「ああ、それは印象が強すぎていくらお願いされても忘れられないな」
「ええええええ?!約束が違うわ!」
「はははは」
……ああ、私のバカ。
エメルデはがくりと膝をついた。
許してもらえそうなのは良かったけれど、必死に隠して来た赤裸々な胸の内を全部知られてしまったのは本当に恥ずかしい。
エメルデが震えていると、ひょいっと抱き上げられた。
「いつまでも床に座っていては冷えるぞ」
「え?!」
グリシスはソファまで運んでくれようとしているらしいが、エメルデは驚きと緊張のあまり硬直して身動きが取れなくなってしまった。
なんだか、グリシスが少しだけ意地悪になって少しだけ甘くなったような気が、するようなしないような。
「はーあ。弟がいちゃついてるのを見せられてるのは癪だから俺は退散しようかな」
そう言って肩をすくめたのはエリシスで、運ばれるエメルデとグリシスを残して部屋を出て、バタンと扉を閉めたのだった。
おまけ
「……てかお前、誰のこと話してる?」
「グリシスだろ?エンデバーグ伯爵家の」
「あそこ一卵性の双子でそっくりなんだよ。グリシスって兄の方か?」
「いや弟の方だろ?」
「あいつら顔も名前も似てるからよくわからねーな」
噂話をしていた騎士たちも、どっちがどっちなのか見分けがついていなかったのでした。




