8 鏡の魔物
その後やって来た皇帝、皇妃と共に食卓に着くと、晩餐会さながらの豪華な朝食が、流れるように運ばれてくる。
シェリナはオーレンの顔をちらりと窺うも、やはりその表情からは何も読み取れない。隣のアーシャと目が合ってしまい、慌てて逸らした。
「シェリナ嬢、昨日の儀式は見事であった」
「恐れ入ります、皇帝陛下」
「今朝の祈祷も滞りなく終えたようで安心した。日々励むように」
「はい、心して務めます」
「アーシャ嬢も……日々の務めご苦労。義母となるカレン妃の罪まで悔い改め、これ以上皇室へ災いをもたらさぬよう、神々へ心より祈りを捧げるように」
「……承知致しました。皇妃陛下」
ピリッとした空気が、その場を支配する。
ガシャン!!!
給仕が手を滑らせ、熱いスープがオーレンの手にかかった。
「もっ……申し訳ありません!!」
オーレンは床にひれ伏し震える給仕ではなく、皇妃のニヤニヤした顔をじっと見据える。
「まあ、殿下! 大丈夫ですか!? なんと無礼なことを……早くこの者を引きずり出せ!」
大げさに下げた眉を、再び大げさに吊り上げ皇妃が叫ぶ。
「……オーレン殿下、お手をお見せ下さい」
アーシャが静かに口を開き、赤くなったオーレンの手に素早く自分の手をかざす。
放たれた赤い光にぽうっと包まれるや否や、跡形もなく火傷が消え去った。
「なるほど……平民でありながら見事な回復魔力だ」
「アーシャは学園の特待生ですから。外傷はもちろん、難しい内部疾患まで治療することが出来るのです」
「恐れ入ります、皇太子殿下」
誇らしげに言うルイスに、アーシャは丁寧に頭を下げる。
「……それほどの魔力なら、皇室の専属医にもなれたものを」
「はい、在学中は専属医を目指し、既に医師免許も取得致しました。光栄なことに、皇太子殿下よりオーレン殿下のお妃へとご推薦いただきましたので。……賎しい平民の身ではありますが、妃として、この魔力を皇室の為にお使いいただけたらと思います」
「……それは心強い」
皇妃は苦虫を噛み潰したような顔で口角だけ上げると、今度はシェリナへ向かう。
「シェリナ嬢も回復魔力をお持ちだな」
「……はい、ですが私の魔力では、小さなかすり傷程度しか治療が出来ません」
目の前でアーシャの優れた回復魔術を見たシェリナは、自分の弱い魔力を恥じ、居たたまれなくなる。膝の上でドレスを握りしめていると、そこにルイスが自分の手を重ね、おどけた調子で言った。
「よかった。僕は意外とそそっかしくて、気付けばしょっちゅう手にすり傷やら切り傷やらをつくるんだ。これからはシェリナに治してもらえるから、わざわざ専属医を呼んで恥ずかしい思いをすることもなくなる」
「ルイス様……」
その眼差しには彼の優しさが溢れており、劣等感に押し潰されていたシェリナの胸に、温かな隙間を開けた。
「ははっ、出逢ってまだ二日目なのに、仲が良さそうで何よりだ。孫の顔も早く拝めそうだな」
「本当に……楽しみですわ」
皇帝と皇妃の言葉に戸惑うシェリナと、赤くなるルイス。そこに向けられた鋭い藍色の視線に、シェリナは気付いていなかった。
◇
『オーレン……憎しみの心を……持っては駄目……』
『お母様……!』
『魔力は……人を幸せにするもの……忘れないで』
兵に抱えられ、引きずられていく先には斬首台が見える。
『お母様……! 嫌だ! お母様ぁ!!』
『オーレン…………と、幸せに』
朝日を反射した鋭い刃が、嘲笑いながら銀髪に落ちる。
『お母様ぁぁぁぁぁ!!』
────辺りが暗くなり、黒い巨大な鏡に魔物が映る。それは醜く歪み、この世のものとは思えぬ程恐ろしい。
やめろ……どこかへ消えろ……
『二度と……二度と現れるな!』
跳ね起きると、荒い息に呼吸もままならない。うっと嘔吐くも、胸を押さえ何とか堪えた。
身体は冷たく芯まで凍えているのに、寝巻きは汗でびっしょりと濡れている。
漸く呼吸を整えた時、不意に部屋の隅の人影に気付いた。
「誰だ!!」
枕元のナイフをさっと構えると、月明かりに照らされた鳶色の瞳が、ぼんやりと浮かんだ。
「アーシャ……何故勝手に入った」
オーレンが睨みつけるも全く怯む様子はなく、淡々と答える。
「……申し訳ありません。殿下の苦しそうなお声が聞こえましたので」
「二度と入るな」
「申し訳ありませんでした」
「…………待て」
部屋を出ようとする、細い背を呼び止めた。
アーシャがオーレンの額に手をかざすと、赤い光と共に穏やかな気持ちが広がり、嫌な汗が引いていく。
「……いかがでしょうか?」
「ああ……大分楽になった」
「……私もよく夢に魘されましたので。こうして自分にヒーリングの魔術をかけながら、何とか眠りに付いていました」
「礼を言う」
再び部屋を出ようとするアーシャに声をかける。
「いえ……お休みなさいませ」
ドアが閉まると、湿ったシーツに身体を横たえた。
久しぶりにあの夢を見た……拷問を受け、斬首台に引きずられる母。その後現れるのは、決まって巨大な黒い鏡に映る恐ろしい魔物。
ああ……あの女か。昨日初めて会った、ルイスの婚約者。白い顔の中で、気味の悪い程主張する黒い瞳。それのせいだ。
見たところ小柄で平凡で、これと言って何も感じない。だが……皇妃の態度はアーシャへのそれとは全く違い、好意を持って迎えられているのがありありと伝わった。やはりあの女は、“何かしらの理由”で、皇妃に望まれて入宮したのだ。
……油断はならない。アーシャに探らせてみるか。
皇妃の血筋の令嬢を突っぱね、更に皇妃が憎む“平民の妃”を娶ることで、鼻の穴を明かしてやりたい。
……アーシャはそれだけで迎えた婚約者だったが、聡明で意外と役に立ちそうな女だった。
自分に対し怯えることも蔑むことも……そして媚を売ることもなく、必要以上には踏み込まない。
昨日のような皇妃の悪意に対しても、毅然と応じていた。ルイスの友人ということもあり、皇妃もそこまで無下には扱えないのも都合が良い。
ルイスの計らいにより、婚約後は今までの屋敷から出て、皇太子の居室に近い屋敷へ移ることが許された。結界もない為、より強い魔力を生み出すことが出来る。これまで周りを欺いてきたことが功を奏した。
……あとは慎重に、時を待つだけだ。
ただ拷問して殺すだけでは生温い。母上が味わった以上の苦しみを与えてやらなければ。目の前で夫と息子の四肢をもいでやろうか、更に皇帝と皇太子を暗殺した狂った悪女の汚名を着せてやろうか。それとも……
ああ、その時はあの黒い瞳も引き裂いて、皇太子妃殺しの罪も加えてやろう。
再び瞑った瞼には、音のない闇が広がった。