7 氷の蝶
「本日のドレスはいかがなさいますか?」
入宮した翌日、婚約者の務めである早朝の神殿参拝を終え、聖服を脱いだシェリナにユニが問いかける。
こちらの中から……と示されたラックには、数着のドレス。昨日の儀式で着た華やかなものとは異なり、宮中で普段着として着用するドレスだが、どれも上等な生地でデザインも美しい。その中で一着、特に目を惹くドレスに触れる。
「これ……」
デザインは一番シンプルだが、深い藍色の生地全体に、銀糸で細かい刺繍が施されていた。
……レンみたい。
「こちらですね。シェリナ様の白いお肌が引き立つお色味で、きっとお似合いになると思います」
ユニが手早く着替えを手伝う。
「とてもよくお似合いです」
鏡に映る自分は、ひどく悲しげに見える。
黒い瞳が、美しい藍色に影を落としていた。
「ごめんなさい……やっぱりこっちに替えてもいい?」
目についた、薄い水色の生地にピンクの小花柄のドレスに着替え直す。リボンの付いた胸元に大きな襟と、さっきのものよりも明るく愛らしいデザインだ。鏡を見る前に、ユニはパッと顔を輝かせる。
「まあ、素敵! 昨日の水色のドレスもとてもお似合いでしたものね。皇太子殿下のお目の色と同じですし」
「……ルイス様にも褒めていただいたの。似合うかしら」
「ええ、もちろん。あら、こちらはネックレスですか?」
開いた襟からは、ネックレスのチェーンが見えてしまっている。昨日のハイネックのドレスでは上手く隠せていたが……どうしたものか。
シェリナは平静を装い、家に来ていた侍女達に話していたのと同じように答えた。
「ええ、祖母と父から貰った大切なお守りで……外すと不安になってしまうの。このまま着けていてはいけないかしら?」
「はい、普段は何も問題ありませんよ。ただ……正式なご招待などで、肩を出すイブニングドレスをお召しになる時はお外しになった方が」
「……やっぱりそうよね」
「シェリナ、支度は終わった?」
外から呼びかけるルイスの声に、ユニがぽんと手を叩く。
「そうです! 皇太子殿下にお願いすればいいのです!」
「え?」
ルイスがシェリナの首元に手をかざすと、キラキラした氷の粒がチェーンを包む。すると瞬く間に、首からは跡形もなくチェーンが消えていた。
慌てて触ると、確かにチェーンらしきものには手が触れるが目には見えない。
「氷の粒を反射させて、今服から出ている部分だけ見えないようにしたんだ。チェーンの先は、ちゃんと見えると思うよ」
襟を引っ張り中を覗くと、エメラルドの石も、銀のペンダントトップも、きちんと下着の中に収まっているのが見えた。
あっ…………!
胸元を押さえながら慌てて顔を上げると、ルイスが真っ赤な顔で横を向いていた。
「……申し訳ありません! はしたないことを」
「いや……」
「ありがとうございます、ルイス様。本当にすごい魔力ですね」
「昨日から、シェリナはすごいすごいばかりだね」
ルイスはまだ赤い顔のまま、くすりと笑う。
「シェリナ様、良かったですね。これで襟の開いたドレスも沢山着られますよ」
……本当に良かった。
シェリナは内心ほっとしていた。幼い日に祖母に着けられたエメラルドのネックレスは、どんなに外そうと試みても決して外れないからだ。そして不思議なことに……同じチェーンに付けた、指輪入りの父のペンダントトップも、あれきり決して外れなくなってしまった。
『これは今日からお前のお守りだ。誰にも見せず、肌身離さず着けていなさい』
自分でもよく分からない、“外れない” 現状と理由。それは、隠しておいた方が良い気がしていた。
ルイス様のおかげで、深く追及されることもなく切り抜けられたけど……どこまで隠し通せるかしら。
「でも……」
思案顔で口を開くルイスに、シェリナは身構える。
「僕的には、あんまり肌が見えないドレスの方が嬉しいけど」
「え……」
想定外の発言に、意図が分からず固まるシェリナ。その様子に、ユニがふふっと肩を揺らす。
「そうですね。シェリナ様のお肌は白くて、本当にお綺麗ですものね」
その言葉に含まれたものを肯定するように、一層赤くなった顔を逸らすルイス。
そんなに白いかと落としたシェリナの視線の先には、ほんのり桃色に染まる肌が、襟元から覗いていた。
「さあ、ドレスに合わせてお髪を整えましょうね」
脱いだ藍色のドレスは、いつのまにかラックごと片付けられ、今着ているドレスに合う髪飾りや化粧品をドレッサーに並べるユニ。
皇妃の侍女だっただけあり、その仕事ぶりは無駄がなく、非常に手際が良かった。
「……ねえ、ユニも皇妃様のご親戚なら、氷の魔力を持っているの?」
「はい、お恥ずかしいのですが……」
ユニが人差し指を、遠慮がちに空中で動かすと、小さな氷の蝶が現れる。
「わあ……綺麗!」
「魔力が弱いので、しばらく経つと溶けて消えてしまいます」
氷の蝶はひらひらと宙を舞い、ルイスの肩に止まる。彼はそれをそっと自分の指に移し、透き通る羽を見つめながら言った。
「……僕も子供の頃、よく蝶を作ったよ」
オーレンと魔術で遊んだ幼い日の思い出が甦る。
「そうだ、今日の朝食にはオーレン皇子も来るよ」
「オーレン……皇子?」
「うん、僕の従兄弟」
ユニの言う通り、氷の蝶は美しい残像だけを残し、ハラリと何処かへ消えてしまった。
◇
「シェリナ大丈夫? あまり顔色が良くない」
ルイスが心配そうに顔を覗き込む。
「あ……両陛下とのお食事ですので……緊張してしまって」
「身内との普通の食事なんだから、そんなに構えなくて大丈夫。昨日の儀式を立派に務めたシェリナなら、何も問題ないよ。それに、両陛下もシェリナを気に入ってるみたいだしね」
「……そうでしょうか」
「うん……それに」
ルイスはシェリナの黒髪にふわりと触れる。
「今日もすごく可愛い」
サイドを掬い緩く下ろした髪には、ユニの用意した髪飾りではなく、ルイスの魔術で作られたピンクの花飾りが咲いている。澄んだ水色の瞳に、シェリナはなんとか笑顔を作った。
食堂の扉の前に立つと、胸の鼓動が一層激しくなる。
「皇太子殿下の御成です」
ゆっくり開いたドアの先には……
ドクドク……ドクドク……ドクドク……
苦しい。胸に身体中の血液が集まったみたいだ。
流れる銀髪、藍色の瞳。
そこに立っていたのは、間違いなくあのオーレンだった。
「お待たせ、オーレン」
ルイスの言葉に、彼はすっと頭を下げる。
「オーレン、こちらは僕の婚約者のシェリナ・コット嬢」
「……シェリナ様には初めてお目にかかります。エドワード・バロン前皇太子殿下の第一皇子、オーレン・バロンと申します。以後お見知り置きを」
「…………」
「シェリナ?」
「……た、大変失礼致しました。ルイス皇太子殿下の婚約者、シェリナ・コットと申します。よろしくお願い致します」
子供の頃の彼をそのまま成長させた容姿とは反対に、その無機質な表情は別人のようだ。温かかった瞳の奥は闇いベールで覆われ、何も読み取ることは出来ない。
「……こちらは私の婚約者、アーシャ・ミラー嬢です」
オーレンの半歩後ろから、一人の女性が現れた。
「アーシャ・ミラーと申します。よろしくお願い致します」
……婚約者……
シェリナは宮殿へ向かう馬車の列を思い出す。
レン……やっぱり、お妃様を迎えるのね。
硬いシェリナを見て緊張していると思ったルイスは、華奢な肩に手を置きながら明るく言った。
「シェリナ、アーシャは皇法学園の僕の友達なんだ。二人の住まいは僕の部屋のすぐ側で、中庭からも往き来することが出来る。妃同志、仲良くしてね」
アーシャはシェリナへ丁寧な礼をする。
……まるで美人画から抜け出したように整った顔。
優雅に下ろされた茶色の巻き髪に、魅惑的な切れ長の鳶色の瞳、口角の上がった知的な唇。すらりと背が高いのに、女性らしい豊かなスタイルで、長身のオーレンと並んでも一幅の絵のように美しい。
比べて自分は幼く、ルイスと並ぶとまるで兄妹か……後ろ姿は親子にさえ見えるだろう。
自分が諦めたあの色のドレスを、簡単に着こなす彼女。
シェリナは大きな劣等感と、何かに苛まれていた。