5 想い出の中庭で
こうして正門をくぐるのは、祖母に初めて連れて来られた6歳の時以来だ。
次からは、皇帝陛下に教わった秘密の通り道を使って出入りしていたから────
手入れされた広大な庭には、至る所に美しい花が咲き乱れ、その中に規則正しく並ぶ彫刻は、花と調和しつつも荘厳な雰囲気を醸し出している。
やがて、白亜の壁に金色の屋根の、目映い宮殿が現れた。
庭も宮殿も、昔の記憶とほとんど変わらない。
だけど……この中の何処かで今、オーレンは苦しんでいるのだろうか。
屋根から馬車の窓へ反射した、金色の光が目に沁みる。シェリナはじわりと滲む涙を、瞼の奥へ呑み込んだ。
「皇帝陛下、並びに皇后陛下。私シェリナ・コットは、本日より心を込めて皇室にお仕えすることを誓います」
玉座に向かい、シェリナは美しい礼をする。
ユリと何度も練習した特別な入宮の作法だ。
「シェリナ・コット嬢。先帝の命により、宮殿に入られることを歓迎する。本日よりルイス・バロン皇太子と皇室に忠誠を誓い、心を込めて仕えよ」
少しでも気を緩めれば震えそうになる身体を抑え、一連の挨拶を何とかこなした。
「シェリナ嬢、今までご苦労であった。この後皇太子殿下の成人の儀と、婚約の儀を併せて執り行う。心して臨むように」
「はい、畏まりました」
ごくんと唾を飲み込んだシェリナは、勇気を出して口を開く。
「恐れながら、両陛下にお伺いしたいことがあります」
「……申してみよ」
「私は小さな薬局を営んでいる、財産もない普通の家の娘です。母は貴族ですが父は平民で、私には僅かな回復魔力しかありません。美しくもなく、他に目立った才能もなく……先帝陛下のご遺言とはいえ、このような私が皇室のお役に立てるのでしょうか?」
「…………ふっ、何を申されるかと思えば」
皇妃は突如笑い出す。
「シェリナ嬢、心配には及びませんよ。そなたは偉大な先帝が皇室の未来を考えお決めになった大切な方。心を込めて仕えてもらえば、それで良いのです」
「……勿体ないお言葉にございます」
シェリナを見下ろす皇妃は、美しい笑みを浮かべている。だが、その紫の瞳に宿る刺すような冷たさに、背筋がゾクリとした。
シェリナは恐ろしくなり、頭を深く下げた。
その様子に、穏やかな眼差しを向けていたルイスが、不意に立ち上がる。
「両陛下、儀式までまだしばらく時間があります。シェリナ嬢に宮殿をご案内してもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わぬ。ゆっくり話をしなさい」
「ありがとうございます」
ルイスは長い足を優雅に繰り出し、目線を下げたままのシェリナの元へやって来た。
「では参りましょうか、シェリナ嬢」
緊張で息苦しい胸に、柔らかい声音が滑り込む。
差し出されたしなやかな手に、シェリナはそっと自分の手を重ねた。
ルイスに手を握られたまま、長い廊下を歩き続ける。
何処に向かっているのかしら……
「外までお出迎え出来なくて申し訳ありません。陛下に交渉したのですが、入宮の仕来りだからと却下されてしまいまして。一人で緊張されたでしょう?」
遥か頭上から降って来たその声に、自分が小柄なのを差し引いても、随分背が高い人なのだとシェリナは気付いた。
レンも大きかったから……大人になった今でもきっと、背が高いはずだわ。
「いえ……とんでもないことでございます。お心遣いありがとうございます」
懐かしい少年が、隣を歩いているような錯覚に陥る。なんとか失礼にならぬよう受け答えた所で、突き当たりに見事な装飾の扉が現れた。
ここは……
シェリナの胸がドクドクと高鳴る。
「僕の部屋です。隣がシェリナ嬢のお部屋で、婚姻後は内ドアで繋がる予定ですよ」
兵が素早く敬礼しながら開いたそこは、歴代の皇太子が使う部屋。皇帝の部屋に次ぐ広さのそこは、天井にも壁にも見事な装飾が施されている。
「どうぞこちらへ、貴女にお見せしたい場所があるんです」
ルイスは部屋の奥まで進むと、陽が差し込む大きなガラス戸を開いた。
心地好い風と共に、甘い香りがさあっと舞い込む。
ああ……ああ、やっぱり……
そこは皇太子専用の中庭で、色とりどりの花が一面に咲き誇っている。
オーレン皇子と……レンと初めて出逢った場所だ。
「美しいでしょう? 僕のお気に入りの場所なんです」
「……はい」
なんとか一言だけ絞り出すと、胸を押さえ、目を潤ませるシェリナ。
ルイスはそんな彼女を見て微笑んだ後、庭に向けてすっと手をかざす。
次の瞬間、庭中の花がふわっと大きく開き、中から小さな丸い粒が空中に放出される。
もう一方の手で何かの形を描くと、硝子のような氷の小瓶が現れ、宙で止まっていた先程の丸い粒が、カラカラとその中に全て吸い込まれていく。
「はい、プレゼント」
ルイスはさっきまでとは違う気さくな物言いで、シェリナの手に瓶を置く。
「これは……」
「食べてみて」
それらは透き通る瓶の中、赤や青、ピンクに黄色と美しい色彩を放っている。赤い粒を一つ摘まんで口に入れると、薔薇の香りと甘い味が広がった。
「……美味しい」
シェリナを覗き込んでいたルイスの顔が、ほっと緩む。
「良かった。花の蜜で作ったキャンディだよ」
「もしかして……氷の魔術ですか?」
「そう。口寂しい時、よくおやつに食べているんだ」
「すごい……! あのっ、昔近所に生まれつき氷の魔力を持つ友達が住んでいたんですけど、ただ水を凍らせるとか丸いボールを作るとか……そんなイメージだったので」
氷の魔術は、空気中や物質に含まれる水分を凝固させつつ、新たな物を作り出す。魔力の高い者ほど変幻自在に、より繊細な物を作ることが可能なのだ。
「あっ……! ありがとうございます!」
興奮のままに喋り続けてしまったシェリナは、ふと我に返り、慌てて頭を下げる。
「どういたしまして。お腹が空いたら食べてね」
「ありがとうございます。あっ、でも……」
「ん?」
「こんなに頂いてしまったら、蜂や蝶がお腹を空かせてしまうのではないでしょうか?」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙の後、ルイスはぷっと吹き出した。
「心配しなくても大丈夫。皇室は神々の祝福を受けているから、宮殿中季節を問わず花だらけなんだ」
「あ…………」
子供っぽいことを言ってしまったと恥ずかしくなり、シェリナは真っ赤な顔で俯いた。
不意にルイスは少し離れて、シェリナの頭から爪先までをじっと眺めた。
「うん……よく似合ってる。やっぱりイメージ通りだった。そのドレスも僕が生地から選んで、魔術で装飾したんだよ」
「皇太子殿下が?」
シェリナは自分のドレスを見下ろす。繊細なレースの中でキラキラ輝いていたのは、よく見れば糸ではなく、糸に沿って飾られた細かい氷の宝石だった。
「うん。会ったことはなかったけど、侍女の話から君の容姿をイメージしてね。君の魅力を一番引き立たせる色は何かなって。そうしたら……」
ルイスは長い指で、すっと自分の目元を指す。
「僕と同じ水色だった」
陽の光を浴びてキラキラと輝く金の髪。
澄んだ水色の瞳。
改めて見上げたルイスの顔は、思わず息を呑む程美しい。
……オーレン皇子が月夜なら、ルイス皇太子は晴れた青空みたい。
「ねえ、シェリナって呼んでもいい?」
「……はい。もちろんです皇太子殿下」
「僕のこともルイスって呼んでくれる?」
「ルイス……様」
「ありがとう。会ったばかりでいきなり婚約者なんてピンとこないだろうから、まずは友達になろう。これからよろしくね、シェリナ」
『よろしく、シェリナ』
優しいルイスの微笑みに、遠い記憶が重なった。




