3 皇位継承者の許嫁
『私の…………私の……せいだ』
『皇帝陛下!!』
『ユリ……これを……』
ねっとりした黒い炎に全身を蝕まれ、息も絶え絶えの皇帝の手には対の指輪が握られていた。最期の魔力を振り絞り、創り上げた創造物だ。
『陛下! どうか……もう……』
『これを……オーレンに……どうかシェリナ嬢と……オーレンは……あの娘がいなければ……あの娘にもオーレンが……』
『陛下……』
『ユリ……頼む……あの子達を……幸せに……』
『陛下!!』
◇◇◇
質素な木の小箱に仕舞われた対の指輪に、ユリは祈りを捧げる。
陛下……ついにこの時が来ました。オーレン殿下が、無事にシェリナ様と婚姻を結ばれますように。
……殿下をお救い下さいますように。
シェリナ様の元へ初めて伺ったのは、先帝陛下が亡くなり、皇太子妃殿下が処刑され、宮中が落ち着きを取り戻し始めた頃だった。
『……お嫁さん? 私が? レンの?』
幼いシェリナ様は、黒い大きな瞳を見開いて尋ねられた。
『はい。その為に、本日からご婚姻の日を迎える迄、私と一緒にお勉強していただきます』
『……でも、私レンに嫌われてしまったの。二度と会いたくないって。……私のせいなの。私がレンをお誕生日会なんかに呼ばなければ』
白い頬を涙がハラハラと伝う。
『……シェリナ様のせいではありませんよ。オーレン殿下は、お祖父様とお母様を一度に亡くされたばかりで、今は深い悲しみの中にいらっしゃるのです。大きくなられましたら、またきっと仲良くなれますよ』
幼い子にも伝わるように、小さな心を傷付けないようにと、慎重に言葉を選びながら語りかける。
『……本当にまた仲良くなれる?』
『ええ、必ず』
『じゃあ、私お勉強頑張って、レンのお嫁さんになる! それでね……また会えたら、ちゃんとごめんなさいって謝りたいの』
ゴシゴシと涙を拭う小さな身体を、思わずギュッと抱き締めた。
それからの厳しいレッスンに、シェリナ様は愚痴一つ言わず付いてこられた。決して器用ではなかったが、家や店の仕事をこなしつつ、難しい課題も約束通りきっちりと仕上げてくる。その姿勢からは、オーレン殿下への強い想いを感じられた。
何よりシェリナ様はお心が美しい。優しく温かく思いやりに満ちている。将来彼女に仕える者全てが幸福を感じられるような、素晴らしい妃になるだろう。
そうしてシェリナ様は18歳のお誕生日を迎えられ、どこの皇族に嫁がれてもおかしくない、立派なご令嬢へと成長された。
……先帝のご意思どおり、魔力や魔術、そして『あの事件』に関しても一切触れぬまま。
◇
「両陛下、先帝陛下の元侍女、ユリ・ノーワルドが謁見を申し出ております」
……来たか。
皇妃はほくそ笑んだ。
「両陛下にはお初にお目にかかります。私は先帝陛下にお仕えしておりました、ユリ・ノーワルドと申します。本日は、オーレン殿下の婚姻の件でお目通り願いました」
「……オーレン殿下の?」
「左様にございます。既に遺言書をご覧になられているかと存じますが、オーレン殿下には先帝陛下がお決めになった許嫁様がおられます。私は先帝陛下の命により、許嫁様の幼少期よりお妃教育を行って参りました。来月殿下が成人されるにあたり、早速ご婚姻の儀を……」
「ふっ……ふふっ」
突如笑い出した皇妃に、ユリの背中を悪寒が這い上がる。
「あれを」
皇妃が手を挙げると、侍従が二人がかりで何かを慎重に運んできた。鎖で頑丈に巻かれているその箱からは、強い魔力と……それ以上の禍々しい何かが溢れ出ており、ユリは思わず顔をしかめる。
「こちらは先帝の遺言書だ」
先帝の遺言書は、先帝自身の手で封印された後、死後厳重に保管される。然るべき時が来たら、次の皇帝のみが封印を解き、読むことが出来る。
そしてその遺言に従わなければ、皇室に災いをもたらす程大きな効力を持つとされている。
先帝の紋章が入ったその箱に皇帝が手をかざすと、するりと鎖が外れ、重厚な蓋が開いた。中から紐で巻かれた金色の紙を取り出し、それをほどくと声高に読み上げる。
「“サレジア国皇帝 ジークリード・バロン一世の名において
次期皇位継承者の妃を、シェリナ・コット嬢と定める”」
皇位……継承者……?
ユリの頭は真っ白になり、喉がカラカラ渇いて上手く言葉を発せない。
「……っ……それは」
「そう、シェリナ嬢は、ルイス・バロン皇太子の許嫁である」
「そんな……! 先帝陛下はオーレン殿下の許嫁にシェリナ様をと……それに本来先帝陛下が皇位継承者にと望まれていたのはオーレ」
「黙れ!! 皇帝陛下と皇太子を愚弄する気か!」
震え上がるユリに、皇妃は冷たい笑みを向けながら問う。
「そなた……先帝の侍女でありながら遺言の効力を知らぬのか? それとも……シェリナ嬢がオーレン皇子の許嫁であるという証拠でも?」
「それは……!」
先帝が遺した指輪がユリの頭を過ったが、危険を感じ、咄嗟に言葉を呑み込んだ。
今ではない……今あれを出すべきではない。
「再来月、皇太子殿下の成人の儀に併せ、シェリナ嬢との婚約の儀を行う予定だ。……オーレン皇子には私が責任を持って妃を迎える為、心配せずとも良い」
なんとか礼をし、よろめきながらも下がろとするユリに、皇妃が最後の言葉をかける。
「妃教育……今までご苦労」
宮殿の外へ出たユリは、力が抜けその場に座り込んだ。
シェリナ様が……ルイス殿下と……
どうして? どうしたら……
ゴホッゴホッ
突如感じた、胸が焼けるような咳込み。口に手を当てると、赤黒い血が滲んでいた。先帝と同じ、呪いの黒い炎が身体を蝕んでいるのが分かる。
きっともう、自分には時間がない。
オーレン殿下…………
霧の中、遠くに佇む屋敷をじっと見つめた。
その晩のことだった。
「誰かしら、こんな遅くに」
激しいノック音を聞きつけたシェリナがドアを開けると、そこには真っ青な顔のユリが立っていた。
「ユリ先生!」
いつもはきっちり整えられた髪が乱れ、服も汚れている。眼鏡の奥の瞳はどこか虚ろで、ただならぬ様子だ。
「……先生、どうされたんですか?」
ふらっと崩れ落ちるユリを、シェリナは咄嗟に支える。
「シェリナ様……申し訳ありません……シェリナ様と婚姻を結ばれるのは……オーレン殿下ではなく……ルイス皇太子殿下です」
……え?
「先生、それはどういうことですか?」
仕事場から出てきた父が、神妙な面持ちで問う。
「遺言書に……記されていたのです。次期皇位継承者に……シェリナ嬢をと」
「皇位継承者……? まさか……そんな……!」
ユリは懐から小箱を取り出すと、シェリナの手に握らせ包みこむ。
「シェリナ様……これは先帝陛下が確かに、確かにオーレン殿下とシェリナ様へとお遺しになった遺宝です。大切に……どうか大切に。オーレン殿下と再会し、お心を通わせられる時が来るまで、皇妃様にも何方にも知られぬようお守り下さい」
「先生!」
ユリは涙を流しながら、シェリナを抱き締める。
「お傍に居るとお約束しましたのに……申し訳ありません。遠く離れてもずっと、ずっとシェリナ様の幸せを祈っております」
いつも温かいユリの身体は、ひんやりと冷たく、言い様のない恐怖を感じる。
「……ユリ先生?」
「では……また」
微笑みながらそっと離れると、ユリは風のような速さで闇夜の中に消え去った。
◇
あれからユリに代わり、宮殿から別の侍女が家に来るようになった。護衛兵も置かれ、シェリナはまるで監視されている気さえしていた。
あの晩のユリの言葉通り……シェリナとルイスの婚約準備が、着々と進められている。とうとう来月には、皇太子殿下の成人の儀と共に婚約の儀が行われるのだ。
「ユリ様は里へ帰られましたよ」
侍女に何度尋ねても同じ答えしか帰って来ない。
……先生はどこへ行ってしまったのだろう。
最後の冷たい身体を思い出す度に、涙が浮かんでは止まらなかった。
今日は何やら外が騒がしい。通りに出たシェリナの前を、豪華な馬車が数台宮殿へ向かい走っていった。
「オーレン殿下の妃候補だとよ」
「皇妃様も慈悲深い方だねえ。罪人の息子を追放するどころか宮殿で手厚く保護されて。おまけにご自分の親戚のご令嬢を妃に娶らせるなんてさ」
「全く、呪われた皇子には勿体ない話だよ。二度と災いを起こさないように、母親と一緒に処刑しちまえば良かったのに」
……違う、違う。レンは呪われた皇子なんかじゃない。
かつての優しい瞳を思い出す。
オーレンが自分以外の女性を妃に迎える現実を突き付けられ、シェリナの胸は激しく痛む。
……何故私はレンではなく皇太子殿下と?
真実を置き去りに、ただ大きなうねりに呑み込まれていくことが恐ろしかった。