14 溶解
あれから毎朝、神殿にはルイスが付き添っている。政務で忙しい日には、ユニだけではなく必ず護衛も付け、宮殿内の何処へ行くにも決してシェリナを一人にはさせなかった。
アーシャとはすれ違うが、オーレンの姿は、東屋でルイスと対峙したあの日以来見ていない。
そして何故か、シェリナはルイスから中庭へ誘われることがなくなり、散歩も他の庭園を回るよう勧められた。
……レンと出逢い、別れた中庭。幼い日に欠けた大切な何かを、あそこで掴めるかもしれないのに。
「シェリナ、今日は天気がいいから、南の果樹園のテラスでお茶でも飲もうか?」
「……久しぶりに、ルイス様の御部屋の中庭へ行きたいです。お花を見たくて……いけませんか?」
「中庭……」
少しの間の後、ルイスは笑顔で答える。
「うん、いいよ」
久しぶりに足を踏み入れた中庭は、やはりどの庭園よりも美しい。色とりどりの花、嬉しそうに舞う蝶や小鳥。小さな葉の一枚ですら瑞々しく、陽の光に輝いている。
「綺麗……」
シェリナは溢れそうになる涙を堪え、ほうっと息を吐く。
「シェリナは本当にこの庭が好きなんだね」
「はい」
……レンとの想い出の場所だから。
椅子に座り、ぐるっと見渡せば、広い庭の遥か奥に鉄の門扉が見える。
オーレンの屋敷へ続いている扉。以前此処でお茶を飲んだ時も、あそこからオーレンとアーシャがやって来たことを思い出す。
シェリナの視線の先に気付いたルイスは、怪訝な顔で言う。
「……あの門には鍵をかけたよ」
「え?」
「やっぱり、プライベートはきちんと分けた方がいいと思って。強い魔力で閉ざしてあるから、僕でないと絶対に解けない」
ルイスの硬い表情に、シェリナは不安を覚え、もう一度門扉を見つめる。
「ほら……そろそろお茶が良い感じかも」
「あっ、すみません、お注ぎ致します」
シェリナは両手でティーポットを持ち、ルイスのカップに丁寧に注いだ。
「シェリナのお茶が飲めるなんて嬉しいな」
「ルイス様の淹れてくださるお茶には敵わないと思いますが……」
香りを確かめ、一口含んだルイスは、シェリナに満面の笑みを向ける。
「……美味しい。カモミールだね」
「はい、最近政務でお疲れのようでしたので、少しでも安らいでいただけたらと」
「……ありがとう。実は南方のランネ村で、また新しい病が流行り出してね。あそこは十三年前、国中に蔓延した伝染病の感染源になった場所だから。被害はまだ少ないけど、早めに食い止める為対策を練っているんだ」
「私の母と祖母も、十三年前にその病で亡くなりました」
「それでお父上と二人暮らしになったんだよね」
「はい。私には何も出来ませんが……一刻も早い終息を、心よりお祈りしております」
「ありがとう。シェリナが傍に居てくれたら、何より心強いよ」
小さな手を優しく包むと、ルイスは遠くの門扉をじっと見つめ呟く。
「……伯父のエドワード殿下。オーレン皇子の父君が同じ病で亡くなったのは、ランネ村に視察に行った時だ」
「ランネ村に……」
「感染に気付いた時にはもう大分進行していて、医師も手の施しようがなかったらしい。……シェリナも知っているだろう? 回復魔力は、生死に直接作用する治療はご法度だから」
『母さん、母さん、今シェリナが治してあげるから』
『シェリナ……』
『……何でなの? 何で私、出来なくなっちゃったの? 蝶々とか、猫とか、赤ちゃんだって……前は出来たのに』
『駄目……』
痩せ細った指が、シェリナの口に当てられる。
『母さんの……胸に耳を当てて……心臓の音をよく聴いてごらん。もう……弱いのが分かるでしょう?』
『そんなことない! まだ聞こえる、動いてる!』
『回復魔力は……神に一番近い魔力。決して生死を……寿命を……動かしてはいけないの。それを侵したら……黒魔術になってしまう……』
『母さん……いや……母さん』
『心臓を……よく聴いて……』
心臓の……音。
不意に甦った、病床の母との会話。シェリナは無意識に、祖母のネックレスを握りしめていた。
「殿下、お休みのところ失礼いたします。アーシャ様が、伝染病の治療方法について急遽ご相談されたいことがあるそうで……別室でお待ちになっていらっしゃいます」
侍従に呼び掛けられ、ルイスは即答する。
「分かった、すぐ行く。……シェリナはどうする? まだ此処に居る?」
「はい……まだお茶も残っていますので。居させていただいてもよろしいでしょうか?」
「……うん。護衛も置くし、隣の部屋にユニを控えさせているから、何かあったら呼んで」
「はい」
シェリナの頭をぽんぽんと撫でると、ルイスは立ち上がり歩き出す。
室内に入る手前で振り返ると、庭へ向かって手を伸ばし、目には見えない氷の結界を張った。
一人テーブルに残されたシェリナは、冷めきったカップの取っ手をいじりながら考える。
黒魔術……悪魔と契約する禁忌の魔術……
使った者は、いずれ大きな代償を払うことになる。それは自分の命だったり、あるいは……
────突如、空気が一変した。
あんなに輝いていた庭が、息を押し殺している。
ガチャ……ガチャリ
ゆっくりと開いた鉄の門扉から、オーレンが現れる。中庭に踏み込もうとするも、細かい氷の粒が稲妻のように光り、オーレンの足を阻んだ。
「……結界か」
上空にオーレンの手がかざされると、氷の粒は灰になり、チリチリと呆気なく落ちた。そして、そのまま真っ直ぐシェリナへと向かって来る。
レン……
その異様な雰囲気に、シェリナの背筋に悪寒が走る。目だけ動かし、さっきまで傍に控えていた護衛兵を見れば、意識を失いその場に崩れていた。
「これは……シェリナ様。御部屋に直接伺おうと思っておりましたが、まさか中庭でお会い出来るとは。私はとても運がいい」
一歩一歩、繰り出される長い足に、距離が縮まっていく。シェリナは何とか立ち上がるも、足がガクガクと震え、全く身動きが取れない。
「先日体調を崩されたと聞きましたが……お元気そうで何よりです」
「オーレン殿下……どうしてここに? どうやって入ったのですか?」
ルイス様が魔力で閉ざした筈なのに。
「どうやって……?」
オーレンは扉を振り返り笑う。
「ああ……手の熱で溶けてしまったようです」
笑顔に浮かぶ藍色の瞳は、凍てつく程冷たい。
シェリナは必死に恐怖心を抑え、自分に言い聞かせる。
逃げては駄目……逃げては……
あっという間に目の前に来たオーレンに、細い手首を掴まれ、身体が一瞬浮いた。
刺すような熱が手首の肌をチリチリと焼くが、シェリナは声を上げずに痛みに耐える。
「まだお訊きしたいことがありましたので……少しお時間をいただけませんか?」
「……私も、オーレン殿下にお話があります。あちらの、花が咲いている方へ一緒に来ていただけますか?」
強く見つめ返せば、彼の顔から一切の笑みが消え失せた。
「……承知致しました」
手首を掴まれたまま、シェリナは花の中へ引きずられる。乱暴に振り払われよろけそうになるも、何とか踏み留まりオーレンへ向き合った。
「お前は何者だ?」
突如オーレンの口調が変わる。
「身分も魔力も持たない女を、先帝が選ぶ筈ないだろう。……皇妃の手先か?」
……ユリ先生も、指輪を皇妃様から守るようにと言っていた。やはり遺言には、皇妃様が関わっているのだろうか。
「その気味の悪い瞳で、ルイスを洗脳でもしたのか」
オーレンの足元から黒い炎が立ち上がり、花を静かに燃やしていく。赤も黄色も水色も……全てを黒に変えようと。
あまりの恐ろしさに、目を背けようとする自分が居ることにシェリナは気付く。固まったまま震えていると、とうとう顔にも燃える手が伸ばされた。
駄目……逃げては…………逃げては駄目!
シェリナはもう一人の自分を奮い立たせ、黒い瞳を強く見開いた。
「オーレン殿下、私達は幼い頃、この場所で何度も会ったことがあります」
「……何?」
オーレンの手が、黒い瞳の前すれすれで、ピタリと止まる。
「先帝陛下が……貴方のお友達になるようにと」
「…………友達?」
「レン、私、シェリナだよ。覚えていないの?」
「…………シェリナ?」
真っ直ぐな黒い瞳。その中に自分が映り、藍色の瞳の中にはまた彼女が映る。永遠に続きそうな恐ろしい闇を、眩しい光が切り裂いた。
猛烈な頭痛と共に、強烈な記憶の波がオーレンを襲う。
『もうお友達だもんね! レン、これからよろしくおねがいします』
『レンのお父さんも? 私のお祖母ちゃんと母さんも死んじゃったの』
『おまじないかけたの。レンをずっと守ってくれますように』
『レン大好き! ずっと一緒に居ようね』
『ごめんなさい……ごめんなさいレン』
花の中で、楽しそうにくるくる動く女の子。
自分をぎゅっと抱き締める女の子。
……燃える花の中、黒い瞳に涙を一杯溜める女の子。
激しさを増す痛みに、オーレンは立っていられなくなり、その場に崩れ落ちる。
「レン!!」
黒い炎が勢いよく吹き上がり、花ではなくオーレンの全身を包み出した。
「ううっ……うう……」
苦しむオーレンの胸に飛び込み、シェリナは必死に抱き締める。
「レン……大丈夫、大丈夫だよ。私が守ってあげるから」
その言葉に反応するかのように、炎がすうっとシェリナの身体に吸い込まれていく。
「大丈夫……大丈夫だから」
次から次へと溢れる黒い炎。それらは全て、シェリナの中へと消えていった。
────頬を撫でる柔らかな風に、優しく意識が揺り起こされる。あれ程の痛みが嘘のように、頭が晴れやかで。
見下ろすと、小さな女の子が両腕を懸命に広げ、自分の胸にしがみ付いていた。
女の子はゆっくりと顔を上げ、黒い瞳を自分へ向ける。愛しくて、愛しくて、泣きたくなる程真っ直ぐな瞳。
「……シェリナ」
「うん」
「……シェリナなのか?」
「うん」
互いを見つめ、微笑み合う。
レンだ……レンが戻ってきてくれた……
喜びに満ちていく心とは反対に、シェリナの身体から力が抜けていく。自分を支えていられず、広い胸からずるっと落ちた。
「シェリナ…………?」
ゴホゴホッ
身体の奥から、激しい咳が込み上げる。
「シェリナ!」
オーレンは叫び、シェリナを胸にしっかりと抱え直すと、咳き込み続ける白い顔を覗き込んだ。
────シュッ!!
鋭利な氷の刃が、オーレンの頬を掠める。
見上げれば、激しい冷気を纏ったルイスが、花の向こうで手をかざしていた。




