12 静かな炎と走る冷気
自室の窓辺に立ったオーレンは、無意識に皇太子の部屋の方を眺めていた。角度を変えるも、敷地を囲む高い柵や木に遮られ、何も見ることは出来ない。
昨日の今頃は、花だらけのあの中庭で、一心不乱にフォークを口に運んでいたなんて。
……まるで別世界の出来事に感じる。
彼女には……あの女には、やはり男をたぶらかす魔力でもあるのだろうか。あの黒い瞳に見つめられると、言動も行動も全く制御が出来なくなる。堪らなく恐ろしいのに……光を求め、その中を覗こうとしてしまう。そうして覗けば覗く程、ルイスのように囚われてしまうのかもしれない。
給仕がティーセットを手に入室する。普段とは違う甘い香りにハッとそちらを向けば、昨日と同じケーキがテーブルに置かれていた。
「これは?」
つかつかと詰め寄るオーレンに、給仕は身を硬くする。
「皇太子殿下からのご指示でございます。オーレン殿下へお持ちするようにと」
ルイスが……
オーレンは怪訝な顔をするも、それ以上は問わずテーブルに着いた。
「失礼致します」
フォークを手にしたオーレンは、もう退室する給仕の存在など忘れ、昨日のように白い生クリームと赤い苺を掬う。
期待を込めて口に入れるも、砂のような無味が広がるばかりだった。
◇
ルイスの言葉通り、翌朝の祈祷には、ユニではなくルイスが付き添った。
「あそこで本でも読んで待っているから」
にこりと微笑みながら、東屋を指差すルイス。シェリナの顔が一瞬強張ったのを、彼は見逃さなかった。
祈祷を終え外へ出ると、今までは眩しかった朝の景色が重たく見え、シェリナは俯く。
階段を降りれば向こうからアーシャがやって来て……いつも通り変わらぬ挨拶を交わす。が、すっと上げた彼女の美しい顔からは、僅かな動揺が見て取れた。
急ぎ東屋へ向かったシェリナの目には、二つの人影が飛び込んできた。
「ルイス様」
振り向いたルイスの顔は穏やかだ。穏やかであるのに、水色の瞳だけは険しい。
「シェリナ、お疲れさま」
ルイスはシェリナへ近付き手を取ると、自分の元へ引き寄せ細い腰を抱いた。これまでは、手や頬に触れられることはあっても、結婚前の男女の距離感は保たれていた。こんなに身体が密着したのは、ハンカチーフを渡した時の抱擁以来で……
強張る腰から、背へと手を滑らせたルイスは、小さな耳元へ唇を寄せた。
「昨日のケーキがどうだったか、オーレンに訊いたんだ。一人で食べても美味しかったみたいだよ。良かったね」
オーレンへ向けようとした黒い瞳は、すぐにルイスの手で覆われ視線を遮られる。そのままシェリナは、広い胸の中に閉じ込められてしまった。
「明日から、祈祷の順番をアーシャと逆にしよう。本来は序列に従って“皇太子妃”が先であるべきだけど……シェリナのお腹の虫が大変そうだから、朝食を採ってからの方がいいと思って」
ルイスはふっと笑うと、オーレンへ向かい続ける。
「オーレンも明日からは、暇つぶしに本でも持って来るといいよ。まさか……先に祈祷を終えたアーシャを一人で帰らせることなんてしないよね? そこまでして、後から来るシェリナと話すこともしないよね? こんな風に待ち構えてさ」
すっぽり包まれたまま、ルイスの強い力で、オーレンに背を向けさせられるシェリナ。
「これからシェリナと話したい時は、必ず僕に許可を取って」
頭上から冷たい声が放たれ、背後へと向かう。
歩き出し、少し緩んだ腕の端から後ろを振り返ると、そこには恐ろしい形相のオーレンが、黒い何かを纏い佇んでいた。
光を奪い、心を侵食していくそれに、シェリナの視界は歪んでいった。
◇
宮殿に戻ったシェリナは、身体に力が入らず、着替えの途中で床にふらふらと座り込む。
発熱に気付いたユニにより、すぐに皇室の専属医が呼ばれ診察を受けることとなった。
「……外傷も、内部のご病気も見当たりません。環境の変化などによる、強いストレスが原因かと」
回復魔術とヒーリングの魔術を施した医師が出て行くと、ルイスはシェリナの頬をそっと撫でる。
「……ご心配をおかけして申し訳ありません。もう大丈夫ですので」
「駄目だ。今日はゆっくり休んで」
起き上がろうとするシェリナを、厳しい顔で制した。
魔術の効果か、次第に瞼が下がり規則正しい寝息が聞こえてくる。幾らか良くなった顔色にほっとすると、ルイスは立ち上がり、タオルを絞るユニに言った。
「……少し外すから、シェリナを頼んだよ」
「承知致しました」
ルイスはシェリナの部屋から自室へ戻り、中庭へ出る。しばらく歩くと、背の高いルイスでも見上げる程高い柵に囲まれた、鉄製の門扉に辿り着く。慎重にそれを押して中へ入った。
自室の中庭と扉一枚隔てたそこは、まるで別世界のように、花はおろか草木の一本も生えていない。その異様な光景をルイスは改めて見回し、眉をひそめた。
屋敷にピリッと走った緊張感に気付いたアーシャは、素早く玄関へ向かい、ルイスを出迎える。
「……皇太子殿下」
「オーレンを呼んで」
普段とは異なるルイスのただならぬ雰囲気に、アーシャはゾクリとする。呼びに行こうと、階段へ震える身体を向けたのと同時に……
「何かご用でしょうか」
足音もなく、オーレンが静かに階段を降りて来た。
「シェリナが体調を崩した。医師の見立てでは、精神的なストレスが原因らしいが……何か思い当たることはない?」
唐突なルイスの問いに、オーレンの顔は微かに反応するも、淡々と答えた。
「いえ、特にございません。シェリナ様にはお大事になされますようにとお伝え下さい」
黙ったまましばらくオーレンを見据えていたルイスは、おもむろに口を開いた。
「オーレン……僕は君のことを、幼い頃からずっと兄弟のように思ってきた。君を罵り蔑むものがあれば、盾になる覚悟で、幽閉されていたあの屋敷から出した。だけど……もしシェリナを傷付けるようなことがあれば、決してお前を赦さない」
冷気が走り、周りの温度が急激に変化する。それでもオーレンは動じることなく、深く頭を垂れると、白い息を吐く。
「お情けを頂いていること、日々感謝しております。ですが私は、貴方様を兄弟などと思ったことは一度もございません。……臣下として、皇太子殿下とシェリナ様の御幸せを一番に願っております」
────柱の陰では、息を潜めて二人の会話を聴いていたアーシャが、険しい顔で唇を噛んでいた。
オーレンの屋敷を出たルイスは、来た道を戻ると、再び中庭を繋ぐ門扉に辿り着いた。振り返り、屋敷をしばらく見つめた後、門扉に手をかざす。
重い、氷の鍵が掛けられた。
◇
オーレンは部屋に戻ると、荒々しくドアを閉め、大股で奥へ進む。
折角ここまで来たのに……!
欺いて……信頼させて……やっとこれからという時に、ルイスが自分を警戒し始めるなんて!
あの女のせいで、全てが水の泡だ。
……これが皇妃の狙いだったのかもしれない。あの女にルイスと自分を誘惑させ、仲違いさせることが。
どう考えてもおかしいだろう。あんな平凡な女が、たった数日で、一国の皇子二人を翻弄するなどあり得ない。
……あれだ。きっとあの恐ろしい、黒い瞳のせいだ。
凶器のような手で傍らのテーブルを薙ぎ払えば、テーブルクロスが黒い炎に包まれ、跡形もなく闇に消えた。
そうだ。光など……何処にもない。




