11 表へ
穏やかな雰囲気に包まれたテーブル。
だが、会話が自由に飛び交う訳ではなく、主導権を握るルイスの質問に、それぞれが答えていくといった様子だった。
鮮やかな花に囲まれている為だろうか。普段は色も動きも乏しいアーシャの顔に、何かの表情が見える気がしていた。ただ、その裏にあるものを探る余裕は、今のシェリナにはない。
ルイスと会話をするアーシャから、ふと隣へ視線を移せば、ティーカップに口を付けるオーレンの姿。
カップの縁にまで届きそうな程長い銀色の睫毛は、幼い面影のままだった。
この中庭の、このテラスの、このテーブルで。こうして向かい合い、何度一緒におやつを食べただろう。どんなに沢山の会話をしただろう。
自分にとっては宝物みたいな想い出。彼はそのかけらのほんの一つも、抱いていないのだろうか。
『オーレン殿下は私を覚えていらっしゃらないのですか?』
昨日、そう訊くことが出来ていたなら、彼は何と答えていたのだろうか……
カップをソーサーに置いたオーレンと目が合う。
こんなに明るい陽の光にも染まらぬ、闇い藍色の瞳。その中に自分が映り、黒い瞳の中にはまた彼が映る。永遠に続きそうな長い迷宮に、シェリナはただ意識を預けていた。
「……リナ、シェリナ」
ルイスの呼び掛けに引き戻され隣を向けば、決して闇には染まらない、明るい水色の瞳が輝いていた。
「どうしたの? 何かオーレンに訊きたいことがあるの?」
「いえ……あの…………召し上がらないのかと」
テーブルを見て咄嗟に絞り出した言葉。オーレンの手元の皿には、アーシャが取り分けたサンドイッチとフルーツが、手付かずのまま風に吹かれていた。
「普段からあまり間食は摂りませんので。……フルーツだけ頂きます」
そう言うと、オレンジをフォークで刺し、口に入れるオーレン。それは食べるというより、無理矢理押し込むと言った動作に近い。
昔から……レンは身長の割に食が細かった。自分のおやつを私に分けてくれたりして。
でも今は、ただ食が細いだけじゃない。そこには、普通に食べて普通に生きることを放棄しているような、そんな悲しさがあった。
「シェリナはよく食べるからね。こんなに小さいのに」
ルイスは笑いながら皿を取り、苺のケーキを載せるとシェリナの前へ置く。
「はい、どうぞ。シェリナの好きな苺をたっぷり載せたよ」
「……ありがとうございます」
「この間は、このケーキを三皿も食べたんだ。そのお腹のどこに入るんだろうと思うよ」
オーレンの口の中で苦味だけを放っていた果汁が、ふいに甘く香り出す。
『…………は食べないの?』
『なんか…………が食べるの見ていたら、お腹が一杯になってきた』
『……残しちゃうの?』
『……よかったら食べる?』
『うん!』
頭の奥のもっと深い部分から、突如響いた幼い声。
それが誰のものか、何時のものかは分からないが、必死に手を伸ばし、表へ出ようとしている気がした。
オーレンの手は勝手に動き、サンドイッチの皿を端に押しやると、シェリナと同じケーキを皿に載せ自分の元へ置く。
白い生クリームと赤い苺をフォークで掬うと、奥深くへと飲み込んだ。……分からない何かに届けるように。
甘酸っぱい香りに顔を上げれば、自分を見つめる黒い瞳と再びぶつかった。その中に自分が映り、藍色の瞳の中にはまた彼女が映る。永遠に続きそうな恐ろしい闇には、ほんの少しだけ光が差していた。
フォークを止めたまま見つめ合う二人。その間には入り込めない何かがある気がして、ルイスは出掛かかった言葉を呑み込んだ。
◇
翌朝も、祈祷を終えたシェリナの前にオーレンが現れた。アーシャを待つ間、また話がしたいと。
一昨日のように、先に戻ると宮殿へ向けたユニの背を、オーレンは睨みつけながら言う。
「あの侍女は皇妃陛下の親戚ですか?」
「……はい」
「どうりで顔つきが似ている訳だ。有能そうだしな」
急に口調の変わった彼からは、敵意や嫌悪に近いものが溢れ出している。シェリナは緊張しながら、東屋のベンチに腰を下ろした。
「昨日は有意義なお茶の時間をありがとうございました」
向かい合ったオーレンからは、先程の剣呑な雰囲気は消えており、シェリナは安堵する。
「いえ、こちらこそありがとうございました」
「……久しぶりに味がしました」
「味?」
「ケーキです。何を食べても砂を噛んでいるようだったのに……あのケーキには味を感じました」
「……どんな味でしたか?」
「甘くて酸っぱい。それが美味しいのか不味いのかは分かりませんが」
シェリナの口内に、昨日の味が甦る。舌でそれを絡め取り、慎重に言葉に乗せた。
「そうですか……私も……いつも食べるケーキとは、違った味がしました」
「どんな味でしたか?」
「甘くて苦い。美味しくも不味くもなくて……ただ悲しい味でした」
気付けばオーレンも、口内を舌で探っていた。二人に共通する甘い味。それをもう一度確かめようと……
が、何も味わうことは出来ず、落胆と共に言葉が溢れた。
「貴女を見ていたら、自然と手が動いて、あのケーキを食べていました。何故でしょうね」
「……私が食べる姿に、美味しそうだと感じられたのでしょうか?」
「美味しそう……ああ、そうかもしれない」
オーレンはシェリナの口元を見つめる。小鳥程に小さなピンク色の唇。ここに次々と食べ物が吸い込まれていく不思議な幻影が、頭一杯に映し出された。
徐々に視線を上げ、恐る恐る黒い瞳を覗こうとした時……獣の鳴き声のような、雷鳴のような激しい音が、辺りに響き渡った。聞いたこともない音に、オーレンは表情を険しくし身構える。
「……申し訳ありません」
「え?」
「まだ皇室の食事の時間に慣れなくて……」
下を向いている為、その表情は見えない。だが、白い耳はみるみる赤く染まっていく。
何も言わぬオーレンに、シェリナは小声で続けた。
「実家では、もうとっくに朝食を済ませていた時間ですから……お腹が……その……」
「もしかして今の爆音は、空腹の際に鳴るという音ですか?」
「……はい」
「貴女のその腹部から?」
「……はい。驚かせてしまい申し訳ありません。早く慣れるよう努力致します」
シェリナの首の角度はどんどん下へ傾き、しまいには黒い頭しか見えなくなった。
「私がケーキの話などしたからですね。申し訳あり……」
ふっと漏れる息に赤い顔を上げれば、オーレンが唇ごとつまむような仕草で口を押さえ、肩を震わせていた。
笑って……いる? レンが……笑って……
成人男性の低い笑い声とは反対に、その仕草は幼い日の彼そのままで。
シェリナの目は熱くなり、くしゃりと綻んだ。
────信じられない光景を目にしたルイスは、声を掛けることも出来ず、その場から立ち去っていた。
声が漏れる程笑うオーレンと、涙を湛えながら微笑むシェリナ。自分が来たことなど全く気付かず、二人は互いだけへと向かっていた。
警戒心の強いあのオーレンが……
ああ、そうだ。望んだのは自分だ。シェリナのような温かい娘に触れ、心を開いて欲しいと。でも……それはあくまでも親戚としてだ。
ルイスの全身を冷たい血が駆け巡り、ドクドクと警報を鳴らす。どうやって宮殿まで戻って来たのか、全く覚えていなかった。
◇
聖服を脱ぎ、ドレスに着替えたシェリナは、ドレッサーの鏡に映る自分と向き合う。
白いその頬にはいつもより赤みが差し、黒い瞳は潤んでいる。丁寧にブラシをあてられた黒髪は一層輝いて見え、それがユニの手で編まれる様をぼんやりと眺めていた。
支度が整い、ちょうど椅子から立ち上がった所で、ルイスが二本の赤い花を手に現れる。彼は魔力でそれをかんざしに変えると、編み込まれた黒髪の両サイドに優しく挿す。
「可愛い。今日のシェリナはケーキみたいだ」
襟もスカートも、ふわふわとたっぷり膨らんだ白いドレスには、苺のように赤い小さなリボンが等間隔に付いている。
ケーキ……
先程のオーレンとのやりとりを思い出すシェリナ。自分がどんな表情を浮かべているかも知らずに、ルイスへ向かう。
「ルイス様、また四人でお茶を飲みませんか? オーレン殿下が、良い時間を過ごせたと……昨日のケーキをもう一度食べたいと、そう仰っていらっしゃいました」
「そうなんだ。じゃあ、オーレンの屋敷に届けさせるよ。ユニ、後で料理長に伝達しておいて。昨日と全く同じものをと」
ユニの返事と同時に、「あの……」と口を開くシェリナを、ルイスがピシャリと遮る。
「わざわざ四人で一緒に食べなくても、ケーキの味は変わらないよ。何度も出ているはずの普通のケーキなのに……オーレンは何がそんなに気に入ったんだろう。不思議だね」
微笑むルイスは変わらず優しい。だが、頬を撫でるその手からは、今までに感じたこのない冷気が伝わり、シェリナは震えた。
「政務で忙しいから、しばらく四人で集まる時間は取れない。残念だけど」
「……分かりました」
伏せられた細い顎に手をかけ、ルイスは上を向かせる。潤んだ黒い瞳の中に何かを見つけると、明るく……そして強い口調で言った。
「明日から、朝の祈祷には僕が付き添うよ」




