10 幸せの為に
祈祷を終えて神殿を出ると、眩しい日差しが庭園を照らし、緑の朝露を輝かせていた。美しい景色にシェリナは目を細め、澄んだ空気を吸い込む。
毎朝、日の昇りきらないうちから行われる、皇族になる為のこの祈祷。店の手伝いの為、早起き自体には慣れているシェリナだが、神事は非常に神経を遣う。こうして緊張から解放され、明るい庭園を眺める瞬間が好きだった。
神殿の階段を降りたところで、向こうから遠目でも分かる美しい女性がやって来る。シェリナの前でピタリと止まると、彼女はいつものように先に頭を下げた。
「……おはようございます、シェリナ様」
「おはようございます、アーシャ様」
シェリナと入れ違いに神殿へ入って行くアーシャ。祈祷は神官と二人きりで行わなければならない為、こうしていつも時間をずらして訪れていた。
「シェリナ様、お疲れさまでした」
外で待機していたユニと歩き出すと、ふと視線を感じた。目をやると、少し離れた東屋に人影が見える。
あれは……
「オーレン……殿下」
目が合うと礼をし、シェリナの方へゆっくり近付いて来る。
「おはようございます、シェリナ様」
「……おはようございます、オーレン殿下」
「アーシャは中ですか?」
「はい……たった今神殿に入られたので。祈祷を終えられる迄には、まだお時間がかかるかと思います」
常にユニが付き添う私と違い、アーシャ様はいつもお一人だ。きっと心配でお迎えに……
シェリナの胸に、ピリッと痛みが走る。
「……そうですか。ではアーシャを待つ間……いえ、ほんの少しで構いません。あちらでご一緒していただけませんか?」
先程の東屋に視線を送るオーレン。
戸惑い、後ろを振り返るシェリナに、控えていたユニがその意を汲み答えた。
「本日はまだお時間に余裕があります。……私は先に戻っておりますので」
ユニは少し緊張した面持ちで礼をすると、一人宮殿へと下がって行った。
東屋のベンチに向かい合い腰掛ける二人。しばしの沈黙の後、オーレンが口を開いた。
「先帝陛下が選ばれた婚約者様がどのような方か……不敬ではありますが、臣下として少々心配していたので。ですが、先日の皇太子殿下との仲睦まじいご様子に安心致しました」
ハンカチーフを渡した時のことだろう。シェリナは俯く。何か言わなければと思えば思う程、胸が詰まって言葉が出てこない。オーレンは痺れを切らし、シェリナへ問う。
「……先帝陛下とシェリナ様のご実家とは、どのようなご関係ですか? 婚約者……許嫁に選ばれる位ですから、何か深い繋がりをお持ちなのでしょう」
「……いえ。母方の祖母と先帝陛下が学生時代の友人であったとは聞いておりますが、何故私をお選びいただけたのかは全く存じません。母は貴族ですが、父は平民で……市井で小さな薬局を営みながら生活しておりましたし」
「……そうですか。ではシェリナ様の回復魔力は、貴族のお母様から受け継がれたのですね?」
「はい、母や祖母の魔力にはとても及びませんが。……先日、殿下を治療されるアーシャ様のお姿を見て、自分を恥ずかしく思いました。魔力ではお役に立てませんが、私も皇太子殿下にふさわしい妃になれるように、日々精進してまいります」
その言葉に、オーレンの胸に黒い何かが込み上げる。それはもやもやと喉にまで絡みつき、危うく言葉となる寸前で呑み込んだ。
「……オーレン殿下は、婚約の儀にはいらっしゃらなかったのですね」
今度はシェリナが、ずっと気になっていたことを問う。
一旦は呑み込まれた黒いものが、再びオーレンの喉にせり上がり、とうとう鋭い言葉となって放たれた。
「諸外国の皇族方も集まる晴れがましい皇太子の儀式に、わざわざ罪人の息子など呼ばないでしょう」
皮肉な笑みを浮かべるオーレンに、シェリナは青ざめる。
私は……何ということを訊いてしまったのだろう。
「申し訳……」
震える口から出た謝罪を、オーレンの闇い言葉が遮る。
「最近また、よく悪夢に魘されるのです。母が処刑される夢を。その後で、いつも鏡に恐ろしい魔物が映るのです。巨大な黒い鏡に……そう、ちょうど貴女の黒い瞳のような……」
冷たい藍色の瞳に射抜かれ、シェリナの全身が震える。拒絶されたあの日の悲しみが、一気に押し寄せた。
「オーレン殿下は……私を……」
覚えていらっしゃらないのですか?
そう言いかけた時、
「シェリナ」
いつの間にか、東屋の外に立っていたルイスに呼び掛けられた。
慌てて立ち上がるシェリナとは対照的に、オーレンはゆったりと腰を上げ礼をする。
「遅かったから迎えに来たんだ。オーレンと話していたの?」
「申し訳ありません。アーシャを待つ間、世間話に付き合っていただいておりました」
オーレンの言葉に、ルイスは神殿をチラリと見て微笑む。
「アーシャと上手くいっているようで安心したよ。そうだ、今度四人でお茶でも飲まないか? この間の朝食は、両陛下もいて緊張しただろうから。もっとリラックスして色々話そう。どう? シェリナ」
「……はい」
東屋に入りシェリナの手を握るルイスに、オーレンも答える。
「ありがとうございます。アーシャもきっと喜ぶと思います」
「ちょうど明日の午後が空いているから、シェリナ達の妃教育のスケジュールも確認して、後で連絡するよ」
「はい、ありがとうございます」
手を取り宮殿へ戻る二人の背を、オーレンは見えなくなるまで追う。
本当に平凡な女だった。平凡過ぎる程平凡で。
だが、あの黒い瞳だけは……
つうと背中を伝う嫌な汗に、あれを直視してしまったことを後悔していた。
東屋から出て、裏の低木を長い足で蹴れば、ハラハラと葉が落ちる。
ついさっきまでそこにあった気配は風のように消えており、オーレンはチッと舌打ちをした。
◇
翌日、中庭のテラスでは、沢山の焼き菓子やケーキ、サンドイッチや果物が、一面の花にも負けぬ甘い香りを放っていた。
普通であれば、心ときめくはずのテーブルの前に、シェリナは浮かない顔で座る。
「どうしたの? また緊張してる?」
ルイスに問われ、慌てて笑顔を作ると、「少し」とだけ答えた。
「……昨日は、オーレンとどんな話をしたの?」
「え?」
「ずっと難しい顔をしているから。……何か言われた?」
「いえ……緊張してしまっただけです。実家のことを尋ねられたので、お話しさせていただきました」
それ以上は答えず、下を向くシェリナの頭に、ルイスは優しく手を置く。
「……君も知っていると思うけど、オーレンは複雑な立場なんだ。あの事件で皇位継承権を剥奪され、宮殿を追われることは免れたものの、離れの屋敷に幽閉されて育った」
闇い藍色の瞳を思い浮かべたシェリナ。彼が戦ってきたであろう孤独や苦痛に、堪らず目を閉じた。
「アーシャも色々と苦労してきた娘だから、きっとオーレンの支えになってくれると思うんだ。住まいも離れから本殿の側に移したし、これからは幸せな家庭を築いてくれたらと願っている。この間も言ったけど、結婚後は彼に僕の右腕として働いてもらうつもりだし……色々と複雑だろうけど、どうか君も受け入れて欲しい」
“複雑”
シェリナの頭に、身体中の血がどくどくと集まる。
……ルイス様は私達のことを知っているの?
「たとえ罪人の息子であっても、僕にとっては大切な従兄弟なんだ。皇太子妃としてだけでなく、親戚として温かく接してくれたら嬉しい。今はまだ壁があって、難しい所もあるかもしれないけれど……シェリナみたいに温かい娘なら、徐々に心を開いてくれると思うから。昨日も、オーレンの方から君に話しかけたと聞いて、驚いたけど嬉しかったんだ」
身体からどっと力が抜けたシェリナは、細い息を吐きながら問う。
「幸せに……なってくださいますでしょうか? オーレン殿下は……」
後の言葉はもう上手く出てこない。ルイスは少し首を傾げた後、微笑みながら答えた。
「うん、きっと。こんなに素晴らしい皇太子妃がいる宮殿で、幸せにならない訳がないよ」
言葉の代わりに、シェリナの頬を涙が伝う。
オーレンの妃として寄り添うことは叶わなくとも、皇太子妃……いずれは皇妃という地位で彼を守り、親戚として心を通わせることは出来るのだろうか。
彼の幸せの為に……もしそれが私の使命なら……
今頬を拭ってくれているこの優しい指は、私の涙の理由を知らない。私がこんな風にレンを想っていることを知らない。もし知られてしまったら……レンを守ることが出来なくなってしまうかもしれない。
ルイスの指をすり抜け、唇に滑り落ちた一粒は、とてつもなく苦く重い味がした。
給仕がティーポットを置いたタイミングで、空気が変わる。中庭の奥、敷地を遮る高い柵の方から、背の高い男女が腕を組み現れた。
「ようこそ、オーレン、アーシャ」




