9 交差する心
婚約者として宮殿に入り二週間。
あの日の朝食以来、シェリナがオーレンに会うことはなかった。
お互い婚約者がおり、ましてやシェリナは宮中の生活に慣れるだけで精一杯の日々。もう一度会って話したいという気持ちと、会うのが怖い気持ちとが入り交じっていた。
自分を見ても淡々と挨拶するだけで、何の反応も見られなかったオーレンを、シェリナは何度も振り返る。
『二度と……現れるな』
『シェリナ様には初めてお目にかかります』
……私を覚えていない?
それとも、思い出したくなくて、忘れたフリをしているのかな。
オーレンの婚約者アーシャとは、祈祷の際たまに神殿で擦れ違うことはあるものの、挨拶を交わすだけで、会話らしい会話はしていない。
「シェリナ様、ご気分が優れませんか?」
深いため息に、ユニが心配そうに問う。
「あっ、いえ……違うの。……ルイス様に喜んでいただけるのか心配になってしまって」
シェリナの手には、一枚の刺繍入りのハンカチーフが握られている。宮殿に入ってからずっと世話になりっぱなしのルイスに、何か礼をしたいと仕上げたものである。
長年ユリに教わっていたとはいえ、あまり器用ではないシェリナのこと。少し糸目のずれた白い氷の結晶が、上等な水色の生地に浮かび上がっている。
「お喜びいただけますよ! シェリナ様が一針一針お心を込めて刺されたのですから」
「……そうだと良いのだけど」
アーシャの美貌と、回復魔術を思い出してはまた息を吐く。
私は本当に、何の取り柄もないな。
せめてもと、花とリボンを添えて綺麗にラッピングをすると、ユニに背中を押され皇太子の部屋の前に立つ。
「皇太子殿下、シェリナ様のお成りです」
「シェリナ」
兵がドアを開くと、ルイスがにこやかに向かって来た。
「すみません、私の方からお訪ねしてしまって……」
「何言ってるんだ! 来てくれて嬉しいよ。今、ちょうどオーレンも来ているんだ」
「え……?」
奥の書斎から姿を現したオーレンに、シェリナは驚き、藍色の瞳を見上げたまま動けなくなる。
「オーレン……殿下。申し訳ありません、知らずにお邪魔してしまって……」
「大丈夫だよ。少し政務の話をしていたんだ。婚姻後は、彼に僕の補佐をしてもらおうと思って」
彼に代わりルイスがそう答えると、オーレンはシェリナへ頭を下げた。
「シェリナ、何か用だったの?」
「あの……いえ、ご政務中でしたら、また後で参ります」
「それは何?」
ルイスは小さな手に抱かれた包みを指差す。
「あっ……あの、皇太子殿下に……お渡ししたいと……」
「僕に?」
覚悟を決め、シェリナはそっと包みを渡す。
「開けていいの?」
「……はい」
消え入るような声で、こくんと頷いた。
包みを開き、ハンカチーフを広げたルイスはしばらく無言で固まる。
「殿下……?」
あまりに不格好で驚かれているんだわ、きっと。刺繍なんてしない方がよっぽど良かったかも……せっかく良い生地だったのに。
俯くシェリナの耳に、上ずった声が届いた。
「これ……シェリナが縫ってくれたの?」
「はい……お気に召さなければっ」
言い終わる前に目の前が暗くなる。広い胸に抱き締められているのだと気付いたシェリナは、息を呑んだ。
「殿……下」
「嬉しい……嬉しいよ。どうもありがとう」
「そんな、あまり上手く出来なくて」
「大切にする」
それは自分に対する言葉にも聞こえ、シェリナの胸は締めつけられる。
「そうだ」
ルイスはシェリナをそっと離すと、ラッピングのリボンと花に手をかざし、魔力で美しいブローチを作る。
「お返し」
かがんで、白い首を取り囲む襟に刺し微笑んだ。
元々穏やかで、誰に対しても物腰の柔らかいルイス。……誰に対しても、凪いだ海のようだったルイス。
その瞳に、今までとは全く違う熱い波が立っていることに、オーレンは気付いていた。
◇
慣れない宮中生活の中で、自分の為に作ってくれた……
ルイスは愛おしげに刺繍をなぞる。
……もう眠った頃か。
隣の部屋を見つめて彼女を想えば、胸が高鳴り、そして苦しくなる。会った瞬間に心惹かれていたが、顔を合わせる度益々想いが強くなっていた。
何をしていても彼女のことを考えてしまう……そんな最近の自分に苦笑する。
彼女の真っ直ぐな黒い瞳は、身分や見た目ではない素の自分を映してくれている気がして……一緒に居るとありのままの自分で呼吸が出来ていた。
何故お祖父様は自分にシェリナをお遺しになったのだろう。こうなることが、分かっていたかのように。
……シェリナは自分のことを、少しは好いてくれているのだろうか。ふとした瞬間に見せる悲しげな表情。気にはかかるが、触れてはいけない気がしていた。
自分の傍で、彼女は幸せになれるのだろうか。いや……必ず誰よりも幸せにしてみせる。
白い結晶を眺めては、途方もなく長く感じる婚姻までの期間にため息を寄せた。
◇
ルイスがあの女に囚われている。
数ヶ月前、遺言について他人事のように話していたのが嘘のように。
あの平凡な女のどこに惹かれるのか……もしかしたら、男をたぶらかす淫靡な魔力でも使えるのかもしれない。
華奢な身体を愛おしげに抱き締めていた光景に、何やら得体の知れない黒いものが込み上げる。
……あの女をボロボロに傷付けてやったら、ルイスはどんな顔をするだろうか。
オーレンの全身をじわじわと這う黒い炎。室内を染める月だけが、それを見下ろしていた。




