8、月の裏側
シエナが父に呼び出されたのは、最後に王宮を訪れてから、二週間ほど過ぎた頃だった。
寝室へと続く控えの間は、10年前と何ら変わったところはない。あの頃と同じ、光の溢れた室内で、父はシエナを待ち構えていた。浮かぶ表情は硬く、ピリピリとした空気が漂う。
連れ立った侍女に退室を促すと、静かに扉が閉じられた。憮然としかいいようのない、父の表情は、かつてこの部屋で、彼が浮かべていたものとは、様変わりしていた。
「父上、どのような御用でしょうか?」
冷めた声で、シエナが問うと、父は眉を大袈裟にしかめて見せる。
「フェリオ殿下のことだ……。近頃、妙な噂を耳にする……真偽が定かではないのだが……殿下が、リヴィウス家の令嬢を優遇していると。お前は承知しているのか?」
「はい、イレーネ様と申される姫君です。学に造詣が深く、聡明な方、とお見受けいたしました。殿下が興味をもたれたのも、頷けます」
淡々と、答えを述べる、シエナに、父の機嫌は目に見えて悪化していった。瞼を重く下ろし、溢れだす怒りをこらえるようにひじ掛けに置いた拳が揺れる。そして、地を這うような声音が響いた。
「そなた……何を考えておるのだ……。近頃、お前が、そのリヴィウスの兄を屋敷に招いているとも聞く……今の立場を理解した上での行動だと申すのか!?」
「はい」
「シエナ!お前は――」
「父上、わたくしは、もとより、この覚悟を決めておりました。幼い殿下と婚約を結んだ時から、いずれこの婚約は解消されるべきものである、と感じておりました。ですから、今リヴィウス家が対抗する相手として現れたことは、わたくしの予想通りのことです。今さら、どう足掻いたとしても、この流れは変わりません」
長年、心に秘めていたことが、すらすらと口先から零れおちてゆく。父の表情が、強張って、固まるのを目にしながら、やめることが出来ない。閉ざされたものを解放していく快感を、シエナは感じていた。
ひとつ、息を大きく吸い込む。
「お父様。お気付きくださいませ。既に、時代は移り変わったのです。我がイベルス家が隆盛を極めていた時は終わり、新たな者へと権力は移ったのです。王家は、一貴族のように、衰えるわけにはいきません。未来永劫、栄えていかねばならない……故に、強者を身内に引き入れて、進まなくてはならないのです……。イベルスには、その力はもう、残っておりません……お父様も、存じておられるはずです……」
清流のごとき翡翠の瞳には、今は、冴え冴えとした色が浮かぶ。冷えたその瞳は、強い光を放ち、正面に座す、父を突き刺す。
自らの手駒として、従えていたはずの娘が見せた、異なる表情。
幼き頃は頼もしくも感じたその怜悧さが、今は憎らしく思う。腹の底から湧き上がる熱き思いは、自らの娘に対する怒りか、それとも、愚かな企みを立てた自分自身に対してか。
深く眉をひそめ、瞼を鉄の扉のように重く閉ざす。ぐっと、あごを上げて、息をつめた表情は、湧きだす全ての感情を身に押し止めようと、足掻いている風に見えた。
「……わたしは認めぬ!認めぬからなっ!!」
怒号が一つ大きく室内に響いた。ひじ掛けをつかむ手が震えている。
当然それを見止めたはずのシエナは、けれど、何も言葉を紡ぐことなく、無言で坐した父に深く礼をした。
あげた面は、凍りついたように、何の感情も読み取ることが出来ない。
しばし、父の姿を見つめた後、もう一度礼を返し、静かに室内から姿を消した。
静寂が舞い降りた一室には、全てを拒否するように、瞳を固く閉ざした男が一人。いつまでもそこを動こうとはしなかった。
白い日よけ傘は、強い日光を阻み、足元に、ささやかな影をつくる。光に少し辟易しつつも、吹き抜ける風が心地よい。
「顔色が優れないようですね」
半歩後ろを歩いているロジェが言う。
「……強すぎる光とは、少し憎らしいものですね」
気丈を装って、にこりとほほ笑みをうかべてみる。今朝の出来事は、やはりシエナの心に小さな影を落としていた。仕方のないことだ、と頭では理解できるが、父の心中を察すると、心を締め付けられる。
それを知りうるはずもないロジェに、気取られるとは……。思わず浮かびそうになる苦笑を、噛み殺した。
「シエナ様は、ご無理をしていらっしゃるようだ……」
「まさか。年を重ねてしまっただけですわ……。子どもの頃なら、これくらいの日差しなんて、ものともせずに、走りまわっていましたのに……」
笑みを返したシエナに、ロジェは探るような声で問うてくる。
「シエナ様は、よほどお転婆な少女だったようですね」
少し、からかいを含んだその声に、ばつの悪い心地を覚える。シエナは眉尻を下げて、ため息交じりに言葉を零す。
「ええ……母には迷惑をかけました。王宮へ行っては、殿下付きの護衛だったゲイルにねだって、剣の稽古をつけてもらったり、馬を勝手に率いて、遠乗りへ出かけたり……。今思えば、本当に無茶ばかり……」
「無茶をなさるシエナ様など、想像もできませんね」
「そうかしら……?」
「ええ、さぞかし美しい少女であられただろう、と思っておりましたが、とんだお転婆だったようですね。今のあなたからは、想像することさえ、難しいほどです。……それとも、わたくしにはお見せ下さっていないのですか?」
「まさか、今も十分無茶をしますよ。お知りになられてから、愛想を尽かさないで下さいませ」
「ははっ。では、一度お手並みを拝見させていただかねば……」
とりとめのない会話を交わし、時間を流していく。
連れだって、庭を散策する二人の姿は、恋人たちが親しげに愛を語らうようにも見えた。屋敷の塀を越えた先に広がる庭は、外の世界と完全に隔てられ、周囲には人影などなく、ただ、木々の梢が日に照らされて、地上に短い影を伸ばしている。
ロジェが繰り返した贈り物の嵐は、予告なく、突然に止んだ。
しかし、それは状況が好転したわけではない。……代わりに、2日と空けず、シエナの前に、本人が姿を現すようになっていた。
朝から、屋敷を訪ねてきたフェリオを誘い、シエナは庭を散策する。
とりとめのない会話を繋ぎ、時折、声を立てて笑う。
無邪気な表情を見せる、その面は、警戒心などまるで感じさせない。
本当に、心から、この時を楽しむように……
フェリオとイレーネの噂は瞬く間に王都を駆け巡った。今を時めくリヴィウス卿の令嬢が、王太子殿下の目に止まった、ということは、王宮の動きを根底から覆すきっかけには、十分だった。
密やかに陰で巡らされていた策略が、表立った動きを見せ始め、シエナを渦に巻き込んでいく。
中心にいるのは、シエナ自身であるはずなのに、彼女は、その渦を高みから眺めているようだった。抵抗をすることなく渦のただなかに留まり、流れが向かう方向を冷静に見つめていた。
そして、また、別の方向からも、シエナの地位を揺るがす動きが生まれていた。
振り返ってみれば、甘い笑みを返される。それに、曖昧に笑ってみせて、気付かれないように、小さく息をついた。
――シエナ様は、王妃の地位を諦めて、リヴィウス家との姻戚関係を狙っているらしい……――
ロジェとの関係を暗に示した噂は、フェリオとイレーネの噂と対になって広められていた。もちろん、シエナにそのような意図はない。けれど、否定もしなかった。
利用できるものは、利用させていただこう……――
浮かんだ、冷たい考えに、苦笑してしまう。ロジェがシエナに向ける思いの正体が定かでないにもかかわらず、利用する。
ロジェとの噂が立ち上れば、シエナを擁護していた者たちも、抵抗するすべを失ってしまうだろう。そうなれば、後は、先行きを見守るだけ。シエナとの婚約破棄の申し立てがなされ、イレーネとの新たな婚約が成立するだろう……。
傘の柄を握る掌に、一瞬力がこもる。きゅ、っと心が締め付けられた気がした。深く、新鮮な空気を吸い込み、気持ちを整える。
はじめから、わかっていたことではないか……と。7つも下の、王太子との婚約を決意した瞬間から、覚悟は出来ていたはず。イレーネは十分な後見を持ち、彼女自身も聡明だった。
シエナの役目は終わったのだ。しがらみから、解き放たれて、清々しい思いに浸ればいい。
頭ではそう思うのに、心だけは上手く働かず、理由の知れない痛みが胸を刺す。
思いならない我が心に、強く下唇を噛みしめた。
「本当に、シエナ様は学が深い……。お話をしていると、その博学に、舌を巻いてしまいます」
シエナを褒めたはずの言葉に、彼女が浮かべたのは何故か苦笑だった。
「これしか、取り柄がありませんから……」
少し眉をひそめて、浮かべる頬笑みは、ただ謙遜だけでなく、心からそう思っている様子を表していた。
「そうですね、役目を終えた時は……もし、許されるのならば、家庭教師として、どちらかの子女の教育を任せていただきたいですわ……。わたしが、師から受けたものを、同じように人へ渡してみたい……」
シエナは遠く、景色に視線をやり、思いふけるように話す。
「お役目、とは?」
ロジェの問に、ぴたり、と歩みが止まる。けれど、視線は、遠く先を捕らえたまま。
しばらくの沈黙の後、一歩先を進むシエナが肩を回し、ロジェを振り返った。
日傘の作る薄い影の射す、その面には、切なげな笑みが、陽炎のように揺れていた。
刹那、垣間見せた彼女の素顔に、ロジェは自らの問も忘れ、見入ってしまう。
シエナは、その笑みをロジェに向けただけで沈黙を守り、またゆっくりと歩みを進めようと、体を正面へと戻してしまった。
張りつめていた緊張の糸を、突然断ち切られ、狐につままれたような心地で、ロジェは去りゆくシエナの背を見つめる。
自らの意思が絡まり、そして反して、ひとつの問いがロジェの口から零れおちていた。
「……なぜわたくしを屋敷に招きいれられるのです……?」
脈略もなく、問われた言葉に驚き、シエナは再びロジェを振り返ってしまう。結いあげた髪から零れおちた房が、巻き起こる風に揺れ、輝きを放つ。
「お越しになるのは、あなたではありませんか?いくらわたしでも、わざわざ訪ねていらした殿方を追い返すほど無粋ではありません」
くすくす、とからかうようにねめつけてみれば、自らが告げた問いに、しばし瞠目していたロジェもまた、笑い声をあげていた。
「そうですね、押し掛けているのはわたくしの方だった。失礼いたしました」
「……あなたも、よく飽きもせずに、通ってこられるのですね。……わたくしに取り入られても、もたらす益など、無きに等しいでしょうに……」
「まさか?」
「殿下の信も失ったわたしは、王宮で渡り合えるほどの権力をもってはおりません……。イレーネ様が正式に婚約者となられたら、わたしの役目は終わります。24など、行き遅れもいいところ……引き取り手など無いでしょう……家庭教師ぐらいしか価値はありませんわ……」
「はははっ」
ロジェの高らかな笑い声が上がる。
笑い話などした覚えのないシエナは、いつまでも治まらぬ彼の笑いを、奇妙なものを見るかのように、眉をひそめてみていた。
そんな彼女の視線に気付いて、ロジェの表情に冷静さが戻る。
「……あなたは、本当にご自分の価値を見誤っておられるようだ……。わたくしは、イベルスが欲しいわけではない……」
真っ直ぐに向けられた視線に込められた熱を、感じ取る。
「あなたが、欲しいのです……」
その熱さに反して、冷たいものが心を覆ってゆく。
ロジェは始めから、明らかな好意をシエナに向けていたはずなのに、それを信じることが出来なかった。
そう、思っていた……。
「今、このようにして隣に立つことを許されている、というのは、少しでもあなたの心に置いて頂けると思っても……?」
だが、違う。心の冷たさが、曇りを晴らす。
シエナは、信じたくなかったのだ……。
自分が持つ暗い部分を、ロジェに向けていることを、正当化したかったから……。彼も、同じように目的を持ってシエナに近寄って来たのだ、と思いたかったから……。
けれど、現実、彼を利用しているのは自分。向けられた熱い感情を、冷えた理性で覆い尽くす。
思わず、口元から、笑みが零れていた。
人の感情よりも、先に政略を巡らせる、自分に対する自嘲。それを、柔らかな頬笑みに変える。
心の冷たさが、シエナに仮面を与えてくれる。
「……参りましょう?」
これが、わたしの『役目』なのだから――
シエナにとって、ロジェとの関係を偽ることだけが、残された責務。婚約解消を円滑に進めるためだけに、艶やかな微笑みを相手に向ける。表情とは正反対に、心は凍てつく風が吹きすさぶ。冷めた思いは、夏の日差しの中でさえ溶けることなく、シエナの心の中を、覆い尽くしていた。
フェリオとシエナの婚約を破棄する申し立てが、王宮に寄せられたことを、知らせる使者が、シエナの屋敷にもたらされたのは、翌朝、夜が明けて間もないころだった――