7、閉ざされた小部屋
湿った空気とともに、開かれた扉から入って来たのは、フェリオと、シエナの知らぬ少女だった。
金茶の髪に、深緑の瞳。
波打つ髪は書庫に入る微かな光をとらえ、キラキラと輝きを放つ。一心に隣のフェリオに向けられる瞳は、甘くまろい色を帯びていた。
宵闇に喩えられるフェリオの隣に立てば、月明かりが闇夜を照らすかのごとき風情を醸し出す。
黄みがかったドレスから延びた少女の腕は、フェリオの腕をしっかりと捕らえている。絡みつき、身を寄せる姿は、仲睦まじい恋人たちのようだ。
映える二人の姿に、胸が奇妙なリズムを刻み始める。高揚感にも似たその感覚に、シエナは名前を見つけられない。ただ、喜び溢るる時とは異なり、息苦しさを覚えた。
思わず、きゅっと、体の前で組まれた掌に力をこめていた。
二人が、何か、談笑をしつつ、室内へと立ち入ってくる。少し奥まり、入口からは確認できない位置にいたシエナとロジェの姿を、ようやくフェリオが見止めた。濃紺の瞳に、一瞬にして強い光が灯る。
「シエナ?なぜ、ここに?」
発せられた声は、低く、シエナの元へ真っ直ぐに届く。
問われたシエナは、息苦しさを感じながらも、吐き出すようにして、言葉を落とした。
「ゲイルより、殿下に客人がお見えだ、と伺ったので、書庫に参らせていただきました」
感情の見えない、固い返答に、フェリオの柳眉が歪む。シエナを捕えていた視線が隣へ移動した。
「ロジェ殿も、外でお待ちをと、申し上げたはずですが……」
「申し訳ございません。先ほど、書庫を訪れた時に、どうも失せものをしたようで……。申し上げるのもお恥ずかしく、勝手をいたしました」
悪びれる風情を持たずに、ロジェは言ってのける。ロジェの返答に、ますますフェリオの眉間のしわが深まる。
冷えた空間に、突然、ころころ、と鈴を鳴らすような少女の笑い声が響いた。
「お兄様、お静かにお待ちくださいませと申し上げましたのに。先日の夜会のように、シエナ様を困らせていらっしゃらないでしょうね」
「イレーネ、兄を信用していないのか?……シエナ殿、これが先ほど申し上げたわたくしの妹、イレーネです。イレーネ、あいさつを」
兄――聞いて、点と点が繋がり、一つの考えを生む。ああ……この少女が殿下から書庫入室の許可を得たものか、と。
「お初にお目にかかります。わたくしはマティアス・リヴィウスの娘、イレーネ・リヴィウスでございます。シエナ様のお噂はかねがね耳にしております」
可憐な微笑みを浮かべ、小さく礼をとる。その姿は、少女としての愛らしさを残しながらも、振る舞いは女性らしく、見事なものだ。戸惑いを隠せないシエナに、イレーネはにっこりと、頬笑みを深めて見せる。
「先日の夜会で、殿下に書庫の利用許可を願い出たのです。わたくしも、シエナ様同様、歴史書を嗜みますゆえ、ずっと王宮の書物を夢見て参りました。本日やっと、その夢を叶えることができましたわ。喜びを抑えきれず、今朝許可状を頂いて、そのまま飛び出してきてしまいました。……けれど、シエナ様とのお約束があったとは知らず……申し訳ございません」
しおらしく、視線を床へ落として見せる仕草が、また愛らしい。年頃の娘が見せる、少女と女性の合間の儚い美しさを、イレーネはみせる。
シエナが、持たぬもの……元々持っていたかも分からぬ、その可憐な様子に、心を摘まれた心地になってしまう。
「いいえ……わたしのことは気になさらずに……」
イレーネの輝く視線から逃れるように、自然、顔を逸らしていた。
「殿下?よろしければ、シエナ様に書庫をご案内していただけませんかしら?」
シエナの様子気付いていないのだろうか、フェリオの衣を小さく掴み、無邪気にフェリオにねだってみせる。小さな小鳥が、さえずるような、甘い声が、シエナの耳にも届く。それは、断られることを、微塵も予期していないような、声音。
「案内?……しかし、シエナはわたしと――」
言い淀む、フェリオの言葉から、断りの色は感じられなかった。恐らく、建前としては、シエナを立てねばならないが、イレーネを無下にも出来ないのだろう……。
フェリオの言葉が終わる前に、シエナは口を開いていた。
「申し訳ございません。わたくしはすぐに屋敷に戻らねばならないのです。殿下との面会の時刻も疾うに過ぎてしまいましたので……。早々に帰らねば、屋敷の者に心配をかけてしまいます。折角の申し出ですが、申し訳ございません……機会があれば、是非また」
にこり、と優雅な微笑みを浮かべて見せる。虚勢を張っている、と思われたくはなかった。何のことはない、あらかじめこのようなことは予期していた。息苦しさなど、気のせいだ。
もう一度、浮かべた笑みは、いつになく妖艶な色を含んでいた。
「よろしければ、殿下にご案内していただかれてはいかがでしょう。フェリオ様もまた、書物を好まれてらっしゃるはずです。わたくしなどよりも、よほどお詳しいかと……」
シエナのみせた艶やかすぎる表情に、周囲は、あっけに取られ、言葉を失う。
「では、わたしはお先に失礼いたします」
そんな、周りを置いたまま、シエナは優雅に礼をつくった。声をかける隙を与えずに、そのまま風が通り過ぎるようにして、扉までの距離をこえていく。
真っ先に、意識を戻したロジェがさっそうと歩きだす背を追いかけて、声をかけた。
「シエナ様、門までお送りいたしましょう」
首だけを巡らせて、シエナがロジェを見やる。翡翠色の瞳を捕らえたロジェは、一瞬何かに怯み、びくり、と体を強張らせた。
「いいえ、外に近衛を待たしておりますので。お言葉だけ頂いておきますわ」
その声は、柔らかい音を含みながらも、追随を決して許さない、強いシエナの意思を伝えていた。それ以上、ロジェはシエナの後を追おうとはしなかった。
ロジェの姿に満足し、再び扉と向かい合う。
白く細い指を、金細工が施された取っ手にのせて、ゆっくりと引いた扉は、入室の時よりもずっと重く感じた。
「シエナ!!」
近衛兵を二人連れ、廊下を進んでいたシエナの背中に、鋭い声がかかった。振り返らずとも、声の主は容易に想像できた。10年も側にいるのだ、わからない方がおかしい。けれど、シエナは、その歩みを一向に緩めようとしない。控える近衛兵の戸惑いが、手に取るように伝わってきた。
王太子のお声かけを無視するなど、彼らからしては、あり得ぬことだ。それを分かっていながら、シエナは進み続けた。次第に、力強い足音が近づいてくる。
「シエナ!待て!」
最後の呼びかけとともに、ぐっと強い力で肩を引かれた。無理やりに、向かい合される。シエナの振る舞いに腹を立てているのだろう。フェリオの瞳は、怒りで燃えていた。
合さった翡翠色の瞳は、静かな色を湛え、深く、緩やかな川の流れを想起させる。緩やかに、目が細められると同時に、穏やかな声がささやいた。
「お可愛らしい姫ですね」
「は?」
「殿下ととてもお似合いでいらっしゃいます」
慈しみに満ちた瞳は、母親が、幼き子に向けるものによく似ている。安らぎを感じさせるはずの視線に、フェリオは心をかき乱される。
求めるのは、このような視線ではない。フェリオが欲するのは、シエナが夜会の席でロジェに見せていたような、どこか迷いを抱いた瞳だ。
いらいらとした面持ちで、ぐしゃり、と髪を掻きあげる。そして、控えている兵に声を飛ばした
「お前たち、下がるがよい」
「ですが……」
「命令だ!即刻ここから立ち去れ!」
躊躇う兵に、強い檄を飛ばす。はじかれたように、瞠目した彼らは、瞬時に背筋を伸ばして敬礼をとり、そのまま何もいわずに、この場から姿を消した。
「また、無茶をなさる……」
立ち去っていく、近衛兵の背を、小さくなるまで見ていたシエナは、苦笑を浮かべていた。
「なぜ、わたしを避ける!」
フェリオの怒りは消えない。むしろ、宿る火は勢いを増しているように思えた。シエナはその様子に、苦笑を深くする。
「避けてなどいません……」
「謁見にも来ぬし、夜会でもわたしを避けて、会場の隅にいるだけ……。わたしが、お前に何かしたのか?何が悪いのだ?言ってくれ」
「いいえ……。殿下のせいではございません……」
「では、何ゆえ?」
「……これはずっと決まっていた定めなのです」
見上げる形で、濃紺の瞳を覗きこむ。罪人を詰問するように、強い姿勢のまま質問を繰り返すフェリオをじっと静かに見つめた。
闇色に艶めくしなやかな髪。夜の訪れを知らせる空の色。宵闇の彼の隣には、輝かしい光を纏ったあの少女が相応しいだろう。月下美人に喩えられた自分では、フェリオの行く末を照らしてやることはできない。
つきり、と胸を締め付ける感覚が、何であるかを、悟ったような気がした。
――子との別離を惜しむ母の情、か……?
成長を見守り、慈しんできたフェリオが、シエナの元を去ろうとすることに寂寥を感じたのだ……恐らく。
「わかるように……説明せよ」
怒りの合間に、切なげな揺らぎが生じる。その揺らぎにさえ、愛しさを感じる。
「リヴィウス卿は必ず王家に利をもたらして下さる方です。……イレーネ様も聡明な方とお見受けしました」
翡翠色の瞳は、澄んだ光をフェリオに照らし続けている。
真っ直ぐに向けられた瞳から、シエナにそれ以上言葉を紡ぐ意思がないことを悟らされる。湧き上がる怒りを、受け止めてもくれない、と。
フェリオの瞳から急速に怒りの色が引いた。すべてを拒絶するかのように、視線をそらして、顔までもを背ける。
シエナはその様子の変化に微苦笑を浮かべてしまう。間接的とはいえ、拒絶を示したのは、初めてのことだった。
そうして、シエナの微かな変化に気付いて傷ついた表情を浮かべたフェリオに、いやがおうにも、感傷を抱いてしまう。
駆け寄り、強く握られた拳に掌を重ね、なぐさめの言葉をかけてやりたい。幼いころ、よくそうしたように、側に寄り添って、その背にそっと手をかけてやりたい。
その思いを振り切って、両腕を体の前で強く握りしめた。
「さぁ、姫の元へ、お戻りください……きっと、殿下がおられず、心細くていらっしゃいますわ」
すっと、足音もなく、フェリオとの間に距離を置き、先を促して見せる。フェリオは眼を逸らし、体を固くしたまま。
「……失礼いたします……」
小さく言った、別れの言葉はフェリオに届いているのか。確認もせず、踵を返す。
ぱたぱた、と微かに音を立てて、足早に遠ざかっていく、真っ直ぐな背を、フェリオは決して見ようとしなかった。かたくなに、つややく床の木目だけを見つめていた。
悲しげな色がシエナの面に浮かんでいたことを、フェリオは知らない。