5、宵闇の王子
男の手を借りて、去っていくシエナの背を、遣り切れなさと、もどかしい気持ちを抱えてフェリオはただ、見つめていた。
二人の姿が闇にのみこまれた後も、しばらく視線を外すことなく、暗闇を睨みつける。
どうすればよかったというのだろうか?
シエナの言葉を遮って、無理やりにでも連れ帰ればよかったのだろうか?そうすれば、見知らぬ男に彼女をさらわれるような思いはしなくても済んだのではないか?
けれども、それをしてしまえば、シエナと自分との間にあるものが形を変えてしまうような気がした……。だから踏み込めなかったのだ……。
『責任』
先ほど、シエナに向けてつかった言葉か心を倦む。そんなことを、言いたかったわけではなかったのに……ふさわしい言葉が見当たらなかった。いや、あったのかもしれない。けれど、その言葉を使うことは躊躇われたのだ。
同じ理由で……。
最近、シエナが王宮を敬遠するようになっていることは、フェリオも当然気付いていた。それとなく、本人にも理由を問うてみるが、いつも、のらりくらりと交わされて、関係のない話題を振られている。
自身で、理由を考えてみても、全く思い当たらない。気のせいか……――と思いこもうとした矢先、突然断りの頻度が増した。これには、フェリオも冷静ではいられなくなった。だから、今朝、夜会の欠席の知らせを受け取ったとき、思わず強行な手段をとってしまったのだ。
ぐらり、と傾いだシエナの体を思い出す。
本当に、体調を崩していたのならば、取り返しのつかないことをした――
いつも見上げていた彼女は、いつの間にか、フェリオよりも小さく華奢な生き物に変わっていた。支えればその軽さが際立つ。片手だけでも支えきれる薄い体は、柔らかく、微かに花の香りがした。
ぐっと、拳に力を込める。
久々にあった彼女は、相変わらず庭園の端に一人佇んでいた。周囲の気を引いていないつもりなのだろうが、彼女の容姿は否応なしに人を惹きつけてしまう。
つねに、貴族の子息たちが、彼女のことを静かに見つめていることをフェリオは知っていた。
それでも、誰も彼女に声を掛けようとはしない。シエナが王太子の婚約者であることを知っているからだ。下手に手を出して、王子の不興をかっては、家名に傷をつけかねない。
それに、安心して、フェリオも特に気を配りはしてこなかった。義務だという社交に、息苦しさを感じながらも身を置いていた。今回はそれが災いしたのだ。
貴族の令嬢たちとの会話に辟易して、ふと、シエナが気に掛った。彼女の気配を探した視線の先にあったものは……片手を男にとられ、困惑したように頬を染める彼女の姿だった。
恥じたように俯き加減で、頬を染めたシエナの姿に、体を巡る血が逆流した。
そんな顔をフェリオは知らなかった。
フェリオに向けられるシエナの瞳は、いつも澄んでいて、真っ直ぐだ。
フェリオを導いてくれる彼女は、聡明で、強い心を宿している。
その彼女が見せる、常とは違う表情……しかも、向けられる相手は自分ではない。
気付けば、周囲も忘れ、駆け出していた。
後は、無我夢中。シエナの手を奪い取り、男を湧き立つ感情のまま怒鳴り付けた。
そのまま、シエナに諫められ――気付けば男にシエナを奪い去られていたのだ。
叫び出したいほどの、衝動を何とか抑えようとするが、かなわない。
強く拳を握りしめ、爪を深く掌に食い込ませることで、気持ちを縛り付ける。
追いかけたとして、どうなるものでもない……
二人の姿は既に闇へと消えたのだから
「フェリオ殿下――?」
どれくらい、そうしていたのだろうか、近くに人がいることに全く気付けていなかった。一瞬びくりと体を揺らし、声をかけた相手を振り返る。
名を呼んだのは、フェリオと年近い、令嬢の一人であった。
「……なんだ」
不機嫌を隠すことなく、そっけない態度をとる。
しかし、少女はめげる様子もなく、砂糖菓子のような甘い声で言葉を発した。
「……先ほどは、兄が失礼をいたしました。代わって謝罪を、と思いお声をおかけいたしました……。申し訳ございません」
深々と頭を下げる少女に、フェリオは柳眉をひそめる。粗相をされた、という自覚よりも、自分が失態を犯したという気持ちの方が大きかったフェリオにとって、謝罪はかえって気持ちを逆なでした。やはり不機嫌な声を返す。
「謝罪などいらぬ。謝罪が必要なことを、そなたの兄がしたわけでは、ないのだから……。わたしの至らなさがもたらした結果だ。気にするな」
これ以上の会話を拒むように告げて、その場から立ち去ろうとする。が、少女はしつこく食い下がってきた。
「いいえ、シエナ様に対して、あのような馴れ馴れしさ……王太子殿下の婚約者様に口づけをするなど、恐れ多くて――」
聞き捨てならない言葉に、フェリオの歩みが止まる。問い詰める勢いで、少女に迫った。
「なっ!!何をしたと申した!」
「兄が、シエナ様の手の甲に口づけを……と申しました」
フェリオの必死の問に、少女はあっさりとした答えを返した。思考に一瞬の空白が生まれる。ゆっくり、返された言葉を繰り返し……
「……手……?」
手の甲への口づけは、高貴な女性への正式な礼の一つだ。取り立てて騒ぐようなものではない。
肩すかしをくらった心地で、立上りかけた怒気が鎮まるのを体で感じる。
しかし、それでも、男がシエナに触れたということは、先ほどまでよりも一層フェリオの気を害した。怒りは、熱を逃したが、フェリオの心に冷え固まり、留まった。
「そなたの兄の名は?」
低い声音で、少女に問う。
「ま、殿下は女性を前にして、先に兄の名をお問いになるのですか?」
フェリオの威圧を気にも留めず、ころころと笑い声をたてて、戯れを申す。貴族の令嬢らしい振る舞いに、毒気を抜かれ、ため息が零れおちそうになる。それをこらえて、問い直した。
「……そなたの名は?」
フェリオの言葉に満足したように笑みをこぼす。その場で、小さく腰を折って礼の形をとる。
「イレーネ・リヴィウスでございます。お目にかかるのは、これが二度目のことかと存じます」
リヴィウス――
先日、会談を持った辺境の領主の姿が浮かぶ……。粗相はなかったか、と問われたが、目的の令嬢の姿が分からず、曖昧に返事を返したことを思い出す。
そうか……あの者の娘か
リヴィウス家のもの、と聞いて不思議に納得する自分がいた。今、リヴィウス家と軋轢を持ってしまっては、交易の点から国に損益を生みかねない。恐らく、シエナはその辺りを図っていたのだ……だから、遮二無二攻め立てるフェリオを諫めた。
冷静な部分では、それを納得できた。が、感情面はなぜ、ああも責め立てられなくてはならないのか、と問い続けている。
しかし、感情だけを振りかざしては、国を支えることはできない。
何とか理性を働かせて、湧きあがろうとする気持ちを抑え込む。努めて静かな声で、イレーネに言葉を返した。
「失礼を申したな、すまぬ」
「いいえ、殿下がシエナ様以外の女性を気にも留めてらっしゃらないことは有名ですから。……以後お見知り置きを」
少しの皮肉をこめた言葉は、この少女の気の強さを表すのだろうか?
そして、自分が、彼女の容姿を気にかけていることに気付く。金茶の髪に、緑色の瞳。シエナの瞳は透き通った深い清流が持つ翡翠の色をしているのに対して、イレーネは深緑の木の葉を想起させる。
纏う少女特有の甘さは、全く異なるが、シエナの容姿と共通点が多い。自ずとシエナの面影を探す自分に苦笑する。刷り込みのように、フェリオの心にはシエナが住み着いていた。
「せっかくの機会ですので、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
イレーネは観察するような視線を浴びても、気にとめた様子も見せない。気付いているのか、いないのか……。
王太子との貴重な時間を無駄にせぬように、イレーネは一つの問を持ち出した。
「なんだ?」
イレーネの掴みきれない、振る舞いに、微かな警戒心を感じながらも、言葉の先を促す。
フェリオの許可を噛みしめるように、一拍呼吸をおいて、問いを述べた。
「……シエナ様は王宮の書庫に出入りできる、というのは本当なのでしょうか?」
「……なぜ、そのようなことを聞く?」
王宮の書庫は通常、王族か、一部の国幹部、また国に属して研究を行う学者たちにしか開放されていない。けれど、その例外としてシエナは、自由に王宮の書庫に出入りできる。
しかし、なぜこのような娘がそれを問うのか、意図がフェリオには図りかねた。
「御気に障ったのならば、申し訳ございません。だた、わたくしもシエナ様同様、歴史書を深く敬愛しております。王宮の書庫には、貴重な書物が多く納本されていると聞き……夢見ておりました……」
「して……自身もそれを手にしたい、と?」
「……恐れ多いことでございますが……」
シエナが、許可を受けていることは、特殊な事情が背景にあるからである。ただ、彼女が婚約者だあるからだけではない。彼女自身の知識の深さで勝ち得た権利なのだ。
イレーネが婚約者だからこそ許可を受ける、と考えているならば、シエナを馬鹿にされているようなものだ。
シエナは、ただ、地位だけを頼みに生きるような女性ではない。
「シエナが許可を許されているのは、私の婚約者だから、ということではない。シエナの教師が城に掛け合ってその権利を得たのだ」
気分を害された心地で、強い声で述べると、イレーネは少し不思議そうな表情を浮かべた。
「教師が……?」
「シエナの勤勉さに見合う書物を与えるべきだ、と申してな。そなたに、それが務まるか?」
普通の令嬢が、シエナの備える聡明さに敵うわけがない。そんな皮肉を言葉裏に込めて、イレーネに突きつける。
しかし、次の瞬間にイレーネが見せた表情はフェリオの予想をきっぱりと切り捨てた。
イレーネは、面に満面の笑みを浮かべたのだ。
「……なれば、わたくしもまた、推薦状があれば閲覧できる、ということですわね」
「は……?……そういうことになるの、か?」
「シエナ様のお立場から許可されていることでしたら、諦めもついたのですが、違うとなればわたくしも可能かと存じ上げます。……それとも殿下は、ただの令嬢風情が、王宮に出入りすることを不都合にお思いですか?」
イレーネの瞳が挑むように鋭く光る。それまでに漂わせていた甘い雰囲気とは、がらりと変わった怜悧さに、目を見張る。
彼女の申し出を断る正当な理由はなかった。
ここで、突っぱねてしまえば、恐らく父親のリヴィウス卿から、フェリオに対して理由の開示を要求されるだろう。別の理由づけを無理やり並べたてて応じることもできなくはないが、リヴィウス家とのつながりを鑑みれば、イレーネを無下にはできない。
書庫への出入りを許可してしまった方が、問題は避けやすいだろう。
苦悶の面持ちをしばし浮かべていたフェリオだったが、心を決めたように、向かい合うイレーネに強い光をこめた瞳を向けた。
「いや……。わかった、配慮するように通達だけは出しておこう」
ようやく引き出した言葉に、イレーネは薄く笑みを浮かべ
「ありがとうございます」
可憐に礼の形をとって見せた。
その姿を視界の端にとらえて、踵を返し、人がいりめく会場の中へと戻っていく。
すぐに周囲を取り囲まれ、適当な相槌をうち、会話をつなぐ。
先ほどまでの騒ぎを知らぬはずもないのに、誰もそれに触れようとはしない。そのことが更に、自分の失態を恥じさせる。
ふと、イレーネといった少女が気に掛って、先ほどまでいた場所を振り返った。
騒ぎから離れたその場所は、闇がかすみ、もはや、人の気配を残していなかった。ただ、夏の湿った風が木々の葉を小さく揺らし、通り過ぎっていった。