4、月下の姫
嫌がらせに、いっそみすぼらしい格好で行ってやろうか……
火急の支度で、走りまわる侍女を後目に、くだらない考えが頭をよぎる。けれど、それだけで済まないところが、シエナの悲しい性だった。同時にその行動がもたらす損益を考えてしまう。
シエナ自身の評価が落ちることは全く気にしない。しかし、一応婚約者であるシエナにそのような格好をさせたことで、フェリオの評価にも傷がつきかねない。父の名も同じだろう。ふるって、家名を盛りたてようとは考えていないが、進んで陥れようとは思わない。
自分の思考回路に、ほとほと呆れてしまう。
ほう、と大きく息を落としたシエナに、周りの侍女たちはびくりと肩を揺らした。
行かない、と決めていた夜会が急に出席に変わり、いつもなら半日も掛けて用意する衣装をほんの数時間で整えなくてはならない。侍女も大変だか、当人のシエナは更に、あちらこちらへ連れまわされて、疲弊するのも当然だった。
もともと、身を飾ることに頓着しないシエナだから、着飾られることが得意ではない。彼女が付いた大きなため息が、疲労の表れと取られるのは、自然だった。
「申し訳ございません。あと少しで、御支度も整いますので……」
心の底から、シエナを気遣う侍女の言葉に、全てを悟る。自分がついた溜息が勘違いを生んだことを。慌てて、それを否定する。
「あ!……ごめんなさい、決して疲れているわけではないのよ。無理を申したのは、わたしなのだから、こちらが詫びなければ。急を言ったのに、ちゃんと整えてくれて感謝しているわ」
言って、最上の笑みを浮かべてみせる。
笑みを返された侍女は顔を赤らめて、滅相もありませんと消え入るような声で呟いた。そして、恥じらいをかくして、シエナの支度に専念していく。その様子に微笑みを浮かべ、支度をしやすいように微かに、首をあげて、施されていく化粧にこたえた。
シエナの笑みに安心したのか、侍女たちは、ぱたぱたと忙しく周囲を取り巻きながら、支度は順調に進められていった。
夏を迎えた王宮の庭園は、中央の噴水からの水飛沫が明かりに照らされて輝き、幻想的な装いを見せていた。女性たちの装いも、薄く、露出の多いものに変わっていた。
けれど、夜会の雰囲気は相も変わらず、煌びやかで、どこか快楽的な気配を纏っていた。少し遅れて場についたシエナもやはり、会場の端で身を固く、密やかに、周囲を見渡していた。視界の端に、正装したフェリオの姿が映る。
周りを貴族の令嬢たちに囲まれた彼は、時折のぞかせる少年の面影など全くなく、王太子らしく、大人びた表情を浮かべている。令嬢たちはそんなフェリオを蕩けるような甘い眼差しで見つめる。
繰り広げられる世界はまるでベールを隔てて存在し、シエナのいる世界とは全くの異世界に思えた。
夏には似つかわしくない、涼やかな風がシエナの脇を冷やりと通り過ぎていった。
静かに冷えたグラスを傾けている。と、背後に人の気配を感じた。
フェリオか、と思い、無理やり来ることになった文句でも言ってやろうと振り返る。
しかし、視線の先にいたのは見覚えのない青年だった。
金に近い薄茶の髪に、目が醒めるような青い瞳をした、若者が立っていた。声をかけようとしたシエナが急に振り返ったことが意外だったのか、驚きの表情を浮かべている。
それでも、すぐに軽く会釈をし、丁寧な言葉で挨拶を述べてみせる。
「シエナ・イベルス嬢であらせられますか?」
「え、ええ……。失礼ですが、どこかでお会いしましたでしょうか……?」
声を掛けられたということは、以前に話したことがある可能性が高い。今のシエナに、初対面で声をかける者はほとんどいなかった。けれど、若者の顔に、まったく覚えはなかった。元来覚えの良いシエナにおいて、そのようなことは珍しかったし、若者の顔を見れば忘れるはずがない、と確信できた。
すっきりと筋の通った形の良い鼻。微笑みを湛える唇は薄いが彼の雰囲気に似つかわしい。どちらかと言えば中性的といえる美しさは、着飾った女性たちよりも、華やかな気配を漂わせていた。
「いいえ、お初にお目にかかります。……失礼を。わたくしはロジェ・リヴィウスと申します」
にこり、と返される艶やかな頬笑みは、青年の持つ雄々しさと、どこか、少年のような無邪気さを想起させる。
この笑みに魅了される令嬢たちは多いのではないか。
冷静な思考が働く。そう思った瞬間、すっと、シエナの左手がとられる。
「以後、お見知り置きを……」
そして、当然というように、静かに手の甲に口づけた。
優雅な一連の動作にシエナは言葉を失ってしまう。
顔が熱を帯びるのが感じられた。とっさに、とられた手を引こうとするが、びくともしない。
「お言葉を交えるのは初めてですが、夜会で幾度となくあなたの姿を拝見いたしました。庭園の片隅で咲く、月下美人のごときお姿は、隠そうとしても、人目を惹いてしまうものです」
甘く並べたてられた言葉に、返す言葉が思い当たらない。いつもならば、軽くあしらうことができる媚びた言葉にも、先ほどの口づけが邪魔をし、正面からとらえてしまう。
熱は引くことなく、そのことが一層の恥じらいを生んでしまった。
滅多に見せることのないシエナの恥入った姿を知ってか知らずか、ロジェはまた、笑みを深めた。
焦ったシエナの思考、それでも、リヴィウス――その家名がようやく引っかかった。
「リ、リヴィウス卿の御子息であらせられますか?」
「ご存じでいらっしゃいますか?身に余る光栄でございます。……わたくしは、マティアス・リヴィウスの次男です」
次男……ということは、後継者は別にいるのか?ロジェの纏う雰囲気から、一端の所領を治める気配を読み取ったシエナは、どこか肩透かしを食らったような思いを抱く。
リヴィウス卿――先日フェリオも会談をもった、最近力をつけてきた国境近くの所領の長だ。
隣国との交易を通じて力をつけてきている。元々、隣国からの輸出入で、利益を立ててきた地方だが、現リヴィウス卿は、ただ、金を輸入するだけでなく、それを細工し、輸出し直すことを確立した。格段に技術が向上した金細工は、国内外で、話題を呼び、莫大な利益を生んだという……。このことからも、マティアス・リヴィウスは、知恵の深い者として有名だった。
翡翠の瞳で見つめ返すと、にこりと、笑顔を返してくる相手には、裏はないように思えた。
けれど、今の状況下で、力を伸ばしつつある貴族がシエナに接触してくることは、何かしらの思惑が働いている、とどうしても考えてしまう。
「……あ、あの、ロジェ殿。お手を放しては下さいませんか……?」
とにかく、と体制を整えるためにも、躊躇いがちに告げた。
先ほど、口づけを受けた左手は、未だロジェの手の中におさまっている。無理に引き抜こうにも、強く握られているためかなわない。
「なにゆえ?」
「え!そ、それは……」
まさか、反論されるとは思わなかった。ペースをすっかり相手にとられてしまい、どうすればよいかまったく分からない。困ったように、眉を下げるしかない。
飄々とした相手の態度に、どうするべきかほとほと困り果てる。
と、突然に、掌に別の強い力が加えられ、横から鋭い声が飛んだ。
「その手を放せ!」
大きな影が、通り過ぎ目前に立ちはだかる。艶やかな黒髪が目に入り、それが誰であるか気付かされる。
「で、殿下!?」
ロジェに握られていた掌を、奪うようにしてもぎ取られた。フェリオは割り入るように、ロジェとシエナの間に立ちはだかってしまう。
シエナに向けられた背からは、フェリオがどのような表情を浮かべているかは見えない。それでも、怒りをあらわにしていることは明らかだった。左手に込められた力は強く、腕は筋立っている。
「誰に許しを得て、シエナに触れる!去れ!即刻ここから立ち去れ!」
怒りを隠すことなく言葉に乗せ、ロジェを叱責する。
フェリオの感情に任せたままの言葉に、シエナの理性が戻ってくる。
いけない……いくら王太子でも、正当なわけなく貴族を叱りつけるなど、あってはならないことだ。ましてや、リヴィウス家の者、今、かの一族との間に軋轢を生んでは、国益の損失につながりかねない……
「殿下っ!」
思わず、声を上げていた。
「殿下、ロジェ殿はただ、わたしと談笑していらしただけです。それを一方的に攻めては、申し開きが立ちません。それに、わざわざ、いらしてくださったのに、退去を命じるなど、自分勝手にもほどがあります!本日も、わたくしの欠席の申し立てに対して、まるで駄々子のような振る舞いを返されて……いつまでも、子どものような振る舞いをなさらず、王太子としての立場をお考え下さいませっ!」
一息に言って見せれば、二人の男性の視線を集めていた。面白いものを見たような青の瞳と、対照的に、困惑を露わにした濃紺の瞳。
振り返ったフェリオは、顔面に戸惑いを見せたまま、言葉を発した。
「なぜ、わたしを怒るのだ?……迎えにやったのは、そうしなければそなたが来ないと思ったからだ。わたしに会うことは、そなたの……――」
ふさわしい言葉が見当たらないのか、いったん口を閉ざす。思案顔を刹那浮かべて、続きを紡いだ。
「……責任ではないのか?」
フェリオの言葉に、かっと、体が熱を持つ。
「わたしはっ――」
言いかけたとたん、目眩がシエナを襲った。
「シエナっ!」
片手に持っていたグラスが芝生へと転がり落ちた。琥珀色の液体がこぼれ、地面へと浸み込んでいく。
下が、芝生でよかった……グラスが割れずにすんだもの……。
関係のないことが、頭に浮かんでは、すぐに消えた。
両足が耐えきれず、その場に崩れ落ちそうになるが、強い力に支えられた。体の重みすべて預けてなお余りある力強さに、名前の知らない感情が湧きあがる。
それを押し殺して、冷静な声音をつくってみせる。
「大丈夫です……」
無理やりに笑みを浮かべて、支えてくれる手を頼りに立ち上がってみせる。立ち上がりはできたものの、やはり足もとが不安で、雲の上に立つ心地だ。
「シエナ……本当に体を崩していたのか……?」
不安げな声が頭上から落ちる。それを振り払うように、静かに首を振る。
「……いいえ、殿下が心配なさるようなことはありません……。しばし、戯れが過ぎました。ご寛恕を……」
フェリオに使いを出した時点で、体調は特に変わり無かった。ただ、急の出立の準備は、やはりシエナの体に堪えたらしい。加えて、夏の気温は、容赦なく体力を奪っていくものだ。
「送る。今日はもう、帰れ」
「駄目です!……一人で、戻れます。殿下は、こちらにいていただかなくては……」
「……お前の言葉は、聞かぬ」
「殿下っ!」
終わりのないやり取りに、外からの声が入った。
「わたくしがシエナ様をお送りいたしましょう」
故意であろう。気配を消していたロジェが、低い声音で、提案する。
「何をっ!!」
先ほどの熱を思い出したのか、フェリオが声を荒げた。それをシエナは右の手で制する。
「……ロジェ殿、申し訳ありません。……お願い申しあげます」
「シエナ!」
フェリオの声を無視して、別れの言葉を淡々と告げていく。
「……フェリオ殿下。せっかくの場を騒がせてしまい、申し訳ありません。本日は、これにて失礼いたしますわ……ロジェ殿」
すっと、白い手を差し出す。呼ばれたロジェは、それを当然というようにとり、危うげに立つシエナの体を、フェリオの腕から譲り受けた。
そのまま、小さく礼を返して、庭園に背を向けて、歩き去った。
庭園を照らす篝火から離れれば、そこは夜の闇が広がっていた。遠くになりつつある、夜会の明かりと、月の輝きだけが、行く手を照らす。
「みっともないところをお見せして、申し訳ありません。ロジェ殿にまでご迷惑をおかけして……。」
支えになってくれる、ロジェの手にすがりつつ、歩みを進める。
「いいえ、わたくしのことは気になさらずに……。むしろ、貴重なお二人の仲睦ましい姿を見ることができました。殿下は本当にシエナ様を大切にお思いなのですね」
ロジェの言葉に、シエナは微苦笑を浮かべた。
「殿下も、もう少し大人になってもらわねばなりませんね。王太子として国を担っていくには、今少しの成長がいるようです……」
お気に入りの玩具をとられた子どものような振る舞いに、思わず眉をひそめてしまいそうになる。外への感情をこらえて、薄く笑みを浮かべたシエナに返された答えは、予想を裏切るものだった。
「本当にそうお思いですか?」
「え?」
「殿下は立派に成長していらっしゃいますよ……。なればこその行動だと、わたくしは感じましたが?」
「……――わたしには、よく……わかりません……」
「聡明で名高いシエナ様にも、弱き所はあるのですね……。安心いたしました――」
「え……?」
呟かれた最後の言葉は、シエナの耳に正しく届かなかった。問うて首を傾げるが、ロジェは言いなおす気など無いようだった。会話を断ち切るように、声をあげる。
「ああ、馬車が見えましたよ……ここに!」
シエナの姿を見止めた御者が駆け寄ってくる。ロジェはシエナの代わりに、事の成行きを説明し、その身を御者に託した。
馬車の入口に辿り着き、そこまで付き添ってくれたロジェに礼を述べるため向かい合う。
「ロジェ殿にはご迷惑をおかけしました。日を改めてまた礼をいたします」
小さく礼をし、そのまま馬車へと乗り込もうとするシエナに声がかかった。半身を返すと、蕩かすような笑みを浮かべたロジェとぶつかる。唖然としたシエナの隙をとらえ
「シエナ様……次にお目にかかれる時を楽しみにしております」
再び、その左手に口づけを加えた。
「今日は失礼いたします。では――」
御者に合図を送り、扉から離れる。閉じられていく隙間から、ロジェの姿が消えるのを、呆然とした面持ちでシエナは見つめ続けていた。