3、薄明かりに揺らぐ虚像
「ゲイルが送ってくれるの?」
しばしの間、フェリオと談笑すれば、外はもう日暮れに差し掛かっていた。フェリオが到着したのが予定よりも遅れていたためか、シエナが帰路に就く時刻を優に超えていた。
「ああ。遅くなってしまったから、シエナの御者に付かせて送らせる」
「別にいいのに……。ゲイルだって、忙しいでしょ?昔は、馬を走らせて一人で帰ったこともあるのよ。それを考えれば今日は馬車なのだし、御付きの者も連れているわ。手を煩わせる必要はないでしょ?」
「いいえ、シエナ様を御一人で帰らせたとわかれば、わたくしが陛下から叱責を受けてしまいます」
首をすくめて、軽くいなしてみせるシエナを遮って、フェリオの後ろに控える男が口を開いた。
フェリオよりも少し高い背に、がっしりとした体躯。よく鍛えられているであろう腕は太く、筋肉が筋だっている。
幼少の頃からフェリオに仕えてきたゲイルは、今はもう近衛の部隊長におさまっていた。年の頃30を超えたばかりの彼が近衛の隊長を勤めるのはかなり早い。
けれど、それは、決して名ばかりの部隊長ではなく、彼が優秀であるからこその立場だった。フェリオを幼い頃からずっと守ってきた彼は、それに似合う実力を着実に身に着けてきた。そして、隊を一任された今でも、フェリオの側近くに常に控え、彼を守ることを第一にしている。
そんなゲイルをわざわざ娘一人、送るためだけに連れ出すのは、申し訳なかった。……けれど、陛下の名を出されては、安易に断ることはできない。
「……そう。……。ありがとうございます。お手を煩わせますが、よろしくお願いいたしますわ」
密やかに、小さなため息を落とした後、丁寧に、腰を折ってその場で礼の形をとる。と、頭上から焦ったような声が降ってきた。
「シエナ様!その様なことは!!」
焦ったゲイルとは対照的な、フェリオの明るい笑い声が、シエナの耳に届いた。
「シエナ、からかってやるな。ゲイルが参っているぞ」
あげた面に、柔らかい笑みを浮かべ、フェリオの言葉には応えることなく、丁寧に別れの言葉を告げて、王宮を後にした。
がたごと、と馬車は揺れる。厚いクッションに包まれた長椅子は、柔らかく、その衝撃を吸収してくれた。ゆらゆらと左右に揺られながら、向かいに掛ける男性を見やる。
「ごめんなさい、ゲイル。あなたも忙しいのに、わたしなんかのために時間を取らせてしまって……」
「その様なことをおっしゃらないで下さい。わたくしは殿下をお守りすることが役目。ひいては、あなた様をお守りすることは当然です」
シエナの憚りの言葉に、また焦ったようにゲイルは言葉を並べたてた。
フェリオに仕えた年月と同じく、ゲイルはシエナとも接してきた。
剣や馬術を嗜む、普通の少女とは一風変わったシエナにゲイルは手を焼きつつ、それ以上に篤い信頼を寄せるようになっていた。
骨身を惜しまず、フェリオを守ってきた臣下の言葉に、ありがたさが身に染みる。けれど、後ろめたいものを抱えたシエナは、心が締め付けられた。
我知らず、言葉が口先から零れ落ちていた。
「……その様な価値がわたしにあるのでしょうか?」
ゲイルの真摯な態度に、思わず本音が漏れる。思いもよらない、シエナのその言葉にゲイルは驚きの表情を浮かべた。
見つめる先の、シエナの美しい面は、窓から漏れる夕日に赤く染まり、どことなく憂いを感じさせる。驚きに導かれたまま彼女の面に見入っていると、その視線に気づいたのか、翡翠の瞳とぶつかってしまう。
「わたしは、殿下にとって足手纏いにしかなりません。あなたも既にご存じでしょうが……他の者が別の御婚約を成立させるために奔走しているのです。……わたしは、それを良い兆候だと思っています。わたしなどより、先を考えれば相応しい御令嬢は数多いらっしゃいます。娘盛りをとうに過ぎたわたしなどよりも、年頃の近い方々の方が殿下にとっても相応しい――」
「それ以上はおっしゃらないでください!」
ゲイルがシエナの言葉を遮るように声を荒げる。長年王宮で務めるゲイルが、そのような態度を取るところをシエナは初めて目にした。
「ゲイル?」
驚きのあまり、翡翠の目を見開いて彼を見つめる。
「申し訳ございません!差し出がましいことを……」
焦ったような声音で、詫びを繰り返すゲイルに、ようやく驚きが引いたシエナは自傷したような笑みを浮かべた。
「いいえ、よろしいのです。わたしも少々言葉が過ぎました。これでは殿下を諫める資格もありませんね……。長く殿下に使えるあなただから、と、つい気が緩んでしまいました」
夕日に照らされた美しい顔は、やはり、あきらめにも似た陰りが浮かんでいた。
常とは異なったシエナの様子に戸惑いながらも、ゲイルは何かを感じたように、深く眉間に皺を寄せた。
自身の言葉のせいで、表情を変えたゲイルにシエナも気付く。彼が、何を考えているのかを探るように、翡翠の瞳が光った。そして、ゲイルが重い口を開いた。
「……シエナ様。この様な機会はもう無いかもしれませんので、申しますが……」
躊躇うように言葉が途切れる。先を促すように、シエナは小さく小首をかしげて見せた。
鋭く、自らを捕らえる翡翠色の瞳に急かされて、決意を込めた強い色を瞳に浮かべて言葉を紡いだ。
「……よろしければ、あなたの本心を窺わせてはいただけないでしょうか?」
「本心?わたしの本心とは?」
「先ほどおっしゃられたことです。……あなたは殿下との婚約を……好ましくお思いでは…ないのですか?」
ゲイルが告げたことは、彼の立場から言えば、恐れ多いものだった。ゲイルも自覚しているのか、言葉を発した後視線を左右に彷徨わせて躊躇いを露わにする。
その様子に、シエラは思わず笑みを零してしまっていた。
その場に漂っていた緊張感は、年月を経て一層の磨きをかけて、輝く彼女の笑顔を受けて、一瞬の後に緩んでいた。予想のつかぬシエナの笑顔に、毒気を抜かれてしまったゲイルは、魅入られたように、彼女の形の良い唇が動き始める様を見つめていた。
「いいえ。わたしは殿下を好いております。あの方が立派に成長し、王太子としての責務を全うできることを一番に望んでいます。殿下をそのように導くことが役目と思っておりました」
「では?」
「……殿下は、既にわたしの手を要していらっしゃいません。彼は、王太子としての立場をしっかりと自覚し、行動することが出来ていらっしゃいます。わたしは、役割を全うした、と思っています。これ以上、殿下のもとにいても、わたしがもたらせる益は何もありません。ただ……それだけのことです。わたしの本音、といいますか……これは、事実です」
シエナは何もかも満たされたように柔らかい笑みを浮かべ、小さく頷いてみせる。まるで、ゲイルに納得を迫るかのように。微笑みを返された相手は、一方的に渡された思いをどのように受け入れるべきか躊躇っているようだった。先ほどよりも眉間のしわが深まっていく。遣り切れなさを面に出したまま、シエナに問いかける。
「……己が役目は終わった、と?」
ゲイルの問いに、薄く笑みを返しただけで、シエラはそれ以降、決して口を開こうとしなかった。
がたごと、と車輪が岩を砕く音だけが、小さな馬車の内部に木霊していた。
シエナの言葉の後に降りた沈黙は、そのまま屋敷へとたどり着くまで続いていた。
ガタリ、と大きな振動を最後に、馬車が歩みを止める。外から、御者の声がかかり、到着が告げられる。
開かれた扉から、ランプの光が漏れ入り、薄暗かった、馬車の小部屋に灯りが燈る。それを、合図にして、侍女がシエナを迎えるために、扉から手を差し伸べた。それを支えに、ゆっくりと地面へと降り立ってから、続くゲイルを振り返った。
「ありがとうございました。お帰りの道中くれぐれもお気をつけて」
「……お言葉、痛み入ります」
膝を折って、見送るゲイルに、小さな笑みを一つ残して踵を返す。
「シエナ様っ!」
その背に低く鋭い声が掛かる。振り返る間もなく
「フェリオ殿下のお心を……お忘れなきように」
そう言って、彼が足音荒く、立ち去る音がした。シエナがゆっくりと振り返ったときには、先ほどまで坐していた馬車の扉が微かに開けられた情景があるだけだった。
先を促す侍女の声を、どこか遠くで聞いていた。唯一、最後に残された、ゲイルの言葉を思考の中で繰り返す。
フェリオの、心
そんなことは、明らかなはず――
出会った頃の、虚勢を精一杯張った、幼いフェリオと、今、青年へと艶やかに成長しつつある彼が……
ずっと、隣に寄り添い、慈しんできたフェリオの姿が――シエナの脳裏に浮かんでいた。
シエナの王宮への足は更に遠のいていった。週に一度の訪問を、体調不良を理由に断り、夜会への出席も控えた。
気分がすぐれないので、夜会は欠席いたします――
この日も、何度目かの断りの言葉を使いに託し、朝王宮へと送りだす。
父母への朝の挨拶を済ませた後、その足で、屋敷の書庫へと向かう。特に、人と会う約束などがない日は、書庫に詰めるのがシエナの常だった。
読みかけの歴史書を手にとり、茶の用意をしてくれた侍女に礼を言って、そのまま下がらせる。
明かりとりの天窓から差し込む光は微かだが、古書特有の香りと、外気よりも少し低めの気温が、シエナには心地よかった。時の流れも忘れ、興味の赴くままに書物を読みふける。
シエナ様にかかれば、王宮の書庫でさえ、一飲みでございますね――
皮肉にも取れる、教師の言葉が、シエナには最上に嬉しかった。教師も、シエナを評価した言葉だったらしく、普通は成人を境に離れるものであるが、それを超え、シエナに学を提供してくれた。
数年前に、隠遁生活に移ると言って、田舎へ身を寄せた恩師とは、今もぽつりぽつりと手紙を交わし続けている。
婚約者の身から離れた後は、先生のように教師となるのもいいかもしれない……
叶うとも知れない未来を、ほのかな明かりの射す小部屋で思い描いていた。
「シエナ様、よろしいでしょうか?」
軽く扉をたたく音がし、声が掛けられる。シエナの眉が微かに歪んだ。
読書の邪魔をされたことではなく、平素そのようなことが全く起こらないからである。シエナが書庫に詰めているときは、屋敷の者は決して声を掛けてはこない。彼女が満足して部屋を出るまで、その時間を壊してはならないのが暗黙の了解だった。
それを、破ってまでシエナを呼び出すほどだ、何か不都合なことが起こったに違いない。その可能性を考えての、仕草だった。
「ええ、よろしくてよ。入って来て」
了承を伝えれば、扉から使いの者が現れる。騎乗のための服装に身を包んだ男は、今朝王宮へと使いにやった者だった。
「なにがあったの?」
王宮から戻ってきた者の知らせと知り、自然声が強くなる。
「……王太子殿下からの言付を承っております」
「殿下から?……申してください」
促すシエナの言葉に反して、使いは何故か躊躇いの表情を浮かべた。それほど、重悪な知らせなのだろうか……。不安がよぎる。
「一言一句、違えずに伝えよ、との申し送りでございます。……少々無礼なお言葉になってしまうやもしれませぬが……」
「よい。許す」
明確なシエナの言葉に、気を律されたのか、しばし言葉を紡ぐことに葛藤していた使いは、意を決したように口を開いた。
「……では、申し上げます。『いつまでも仮病をつかうでない。さっさと参内せよ。これは、わたしからの命だ』とのことでごさいます……」
シエナの翡翠色の瞳が驚きの色を見せる。
仮病がばれていないわけがない、とは思っていたが、フェリオがこのような手段に出るとは思いもしていなかった。さらに続けられる言葉に、声を失う。
「外に、王宮からの馬車も待たせております。……シエナ様がお越しになるまで、王宮へ戻ることは許さぬ、との申しつけで……。いかがいたしましょう……」
継ぐ言葉が見つからない。
夜会には行ってはいけない。断らなくては。
けれど、そうすることが出来なくなった……。
シエナの性格を十分知ってのことだ。使いを戻らせただけでは、いくら王太子の命であっても、シエナならば仮病を押し通して、夜会には来ないだろうと分かっているのだ。その上で、馬車を手配した。彼女が来なくては、馬車を引く者たちはいつまでも戻れない……使えの者を放っておけないシエナの性格では、来訪しなくてはならなくなる。
小賢しい……
こちらの考えをすべて見透かした策に、胸に熱い思いが生まれる。
「しかたがないでしょう……参ります!!」
使いに当たるように、言葉を放り投げ、彼からの言葉を待たずに、足を踏み鳴らしながら、書庫を出ていく。
滅多に見ることのできないシエナの怒った姿に、一人取り残された使いは、すべきことも忘れ、しばし呆然と、その場で立ち尽くしていた。