2、冷える指先
高い天井まで届く大きな窓が取り付けられた室内は、日の光をたっぷりと取り込み、白く光る。大理石の白い床は外気から、室内を隔てて冷やりとしていた。部屋に合わせてあつらえられたテーブルも白い大理石で出来ており、触れれば冷たく、指先の体温を奪っていった。
その上に茶器がカチャリと音を立てて置かれる。
「どうぞ」
「ありがとう、アリー」
差し出した相手に、にこりと笑みを返す。芳しい香りを立てる紅茶に静かに口をつける。
「おいしい。アリーの入れてくれるお茶は本当に最高ね。私がここへ来るのも、これを飲みたいからかもしれないわ」
「もったいないお言葉です……」
シエナの言葉にアリーは恥じ入ったように、顔を赤らめる。
シエナが王宮に訪れるのは、もちろんお茶を楽しむだけではない。婚約者の義務として、定期的に王太子と顔を合わせるためだ。大抵週に一度、少なくとも二週間をあけたことはない。
正式に婚約を結んでから、それはずっと続いている。季節ごとに、指定の部屋は変化すれども、必ず侍女一人を与えられ、彼がやってくるのを待つ。
アリーは3年前から、この任にあてられた。噂に高い、年長の婚約者。出会ってみれば、彼女は美しく、それ以上に聡明だった。侍女だからと言って、他の令嬢のように、必要以上に嘲ることもなく、節度を持った態度を示してくれる。
使える者として、最高の相手だった。
彼女が未来の王妃になる……――
アリーはその幸運を、彼女に出会って初めて心の底から喜ぶことができた。
「アリーも一緒に楽しめたらいいのにね」
ぽつりと、こぼした言葉に、アリーは大きく目を張る。その様子を見止めて、シエナは微苦笑を浮かべる。
「なんて、ね。ごめんなさい、そんなこと、あなたを困らせるだけよね?……ただ、いつもそばに控えてもらっているあなたと、一度ゆっくりお話できれば……と。ごめんなさい、言いわけだわ。……今日のお茶受けは何かしら?」
「え、と。シクのプディングです」
「あら、うれしい。今日は本当にいい日ね」
微笑をアリーに返し、外へと視線をやる。硝子戸の先には、緑の木々が日の光を反射して、キラキラと輝いていた。
アリーからは、そのシエナの横顔が、少しの陰りを帯びているようにみえた。
「っとに、いつまで待たせればいいのかしら?」
「申し訳ございません。恐らく、政務官とのお話が長引いていらっしゃるのでしょう……。一度お伺いを――」
「大丈夫よアリー。言ってみただけ。それに、政務を放り出して来るなんて、王太子として失格」
言ってシエナは何杯目かの紅茶をすする。
訪問から、どれくらいの時がたっただろうか。持参した、本を片手に、アリーの入れてくれるお茶を楽しむ。それでも、時間がたてば、暇を持て余すようになる。本人は決して顔に出すことをしないが、傍に控えたままのアリーも辛いだろう。
彼女だけでも、言って、下がらせようか……。
そう思ったとき、部屋の扉が叩かれた。ぱたぱたと床を蹴って、アリーが扉へと駆け寄る。
しかし、その到着を待たずして扉は開かれた。
「シエナ!」
彼女の名を呼び、顔面に笑みをたたえて飛び込んでくる。見目はすっかり青年に成長しつつあるが、中身はまだまだ子供だ。少年のように、喜びの感情をあらわにして、シエナに駆け寄ってくる。
それを微笑ましく思いながらも、シエナは形式ばった礼を返した。
「ご機嫌うるわしゅう、殿下」
彼が飛び込むことを予期していたように、シエナは椅子から立ち上がり、優雅に腰を折って、彼を出迎える。
「……。そのような礼はいらぬというのに」
伏せた後頭部に囁かれる、不機嫌な声。ゆっくり面を上げて、濃紺の瞳に微笑みかける。
「いいえ、礼節は大切よ。もう、子どもではないのだから、ある程度節度をわきまえて行動しなくてはね」
「わきまえている!」
「なら、よかった。だけど、勢いあまって抱きつくなんてしないでね」
むきになって反論するフェリオにからかいを投げると、彼は予想通り、頬を赤く染めた。
10歳を過ぎるころまでは、フェリオはやってきたシエナに飛びついて迎えていた。ぎゅうっと抱き締めてくる小さな体に、自分が好ましく思われていることを悟らされ、シエナとしてはかなり嬉しい事だったのだが、それもいい思い出だ。そんなことは、もう何年も起こっていない。
いつからだろうか、纏わりつくようにしてシエナに甘えていたフェリオが大人の表情を浮かべるようになったのは。
宵闇の王子、と呼ばれた彼は、すっかり成長し、麗しい青年になろうとしている。
艶やかだった黒髪は、一つにまとめられ、今も背に流れている。濃紺の瞳には、落ち着いた輝きが燈り、無垢だったあのころとはまた異なる趣をみせる。
シエナの胸のあたりほどしかなかった背も、あっという間に伸び、首をひねらなくては会話も出来ない。
すっかり成長を遂げたようなフェリオ。それでも、時折見せる少年の面影がシエナには微笑ましかった。けれども、いつまでもそのままではならない。姿の成長とともに、彼自身も大人にならなくてはならないのだ。
子どもの彼を惜しみながらも、シエナは努めて彼に対して丁寧な対応を取るように心がけていた。
二人のやり取りを見るアリーの戸惑いが、シエナに伝わってくる。まだ、何かを言いかけようとするフェリオを頬笑みで制した。
「よろしければ、腰を下ろしません?アリーがプディングを用意してくれているそうよ」
「あ……。すまない」
言って掌を差し出し、椅子までエスコートする。優雅な仕草は、完璧である。小さくアリーに合図し、お茶のそなえを指示する。
「ありがとう。……ところで、今日はどなたとの会談だったの?」
「リヴィウス卿だ。彼の所領からの税収に不備があったので、話を聞いていた。本来なら父上の仕事なのに、政務が立て込んでいるから、とわたしに回された……。やってくるのが遅くなって本当にすまない」
視線を合わせないように話すフェリオに、軽く首を振ってみせる。
「いいえ、放り出してきたら、怒っていたところよ。よかった、しっかりやれているようで」
陛下が仕事を回すのは、決して多忙だけが理由ではない。フェリオが王太子として見込まれているからこそ、彼の信を篤くするためにわざと、辺境の貴族と会談を取るのであろう。
成年を迎えれば、彼も一人前と認められ、この国を中心から支える一人になるのだから。
「久しぶりに会えた気がする」
「そうかしら?先日の夜会で会ったでしょ?」
「あまり、話せなかったじゃないか……。訪問も減ってはいないか?」
「……それは、仕方がないのよ。殿下が政務に関わるようになれば、以前のようにお会いする時間も限られてしまうのは当然です。夜会も同じ。社交の場なのだから、平素お目にかかれない方々との交流を深めなくては。いつでも会えるわたしなんて気にしては駄目」
頬笑みながら、フェリオの疑問を解消していく。シエナの本当の意図は影に潜めたまま。
「……そうか。責任、か?」
「ええ。あなたの責任、よ。……そんなことよりも、リヴィウス卿と言ったわよね?所領のこと以外に、彼は何かいってなかった?」
シエナの問に、フェリオは整った眉をひそめて思案する。
「以外?……言っていたかな?」
「夜会について、とか?」
促せば、何かに思い当ったように顔を上げた。
「夜会……?……そういえば、リヴィウス卿の御令嬢がいらしていた、と。粗相はなかったか、と聞かれたが、特に思い当らなかったので、大丈夫だ、と答えておいた」
「そう。……思い当たらない、って言うのは、粗相が?それとも御令嬢が?」
「令嬢がだよ」
フェリオの言葉にシエナががっくりと肩を落とす。はぁ、と大きく溜息をつくと、すっと視線をあげ、強い光を帯びた翡翠の瞳でフェリオを射る。
「殿下!」
強い言葉で、諌めようとしたとき
「お茶が入りました」
「ああ。ありがとうアリー」
話の腰を折られた……。まったく悪意のないアリーに対して、怒るわけにもいかない。フェリオに続き、ありがとう、と言葉をかけて労う。
綺麗に整えられたテーブルをただ見つめる。どこにやっていいか分からない思いがシエナを包んでいた。
「シエナ?食べないのか?」
笑みを湛えて、暢気に話しかけてくる、当の本人に、気持ちが泡立つ。
きっと一睨みをきかせて、香り高い紅茶に口をつけた。
現在のシエナを取り巻く環境は14の頃とは劇変していた。それは、シエナが予想した通りの結果だった。
当時の宰相を務めていた祖父は、シエナが成人を迎える頃には現役から退き隠遁生活を営むようになった。しかし、予想以上に彼の威光は大きかったらしく、引退後も、父を取り巻く環境はほとんど変化をしなかった。
もしかしたら、自分の杞憂に過ぎなかったのだろうか―-
そう思い始めたころ、祖父が突然死を迎えた……
彼の死を契機に、周囲は一変した。祖父の威光を完全に失った父は、自らの力だけで、王宮の中枢にはいられない。これといった、英知を提供することなど出来ない彼は、新たな依り代を探すしかなかった。彼が見出した新たな威光。
それは、あろうことか、彼が押し上げた娘、シエナだった。
20になったシエナは、既に、王太子の信を確かなものにし、王宮内でも一定の地位を固めていた。それは、彼女自身が意図して作り上げたものではなく、彼女の行いが自然人々を惹き付け、成立したものであった。
その分、小さくとも結びつきは固く、祖父の死ごときでは、シエナ本人への評価は揺るがなかった。
父はシエナの後ろ盾、といいながら、彼女が確実に王妃となることで、己が保身をはかろうとしている。
けれど、宰相の後ろ盾を失った貴族の娘が、実力だけで陰謀渦巻く王宮を渡っていくのは、難しい。しかも、フェリオとシエナの年齢差を見れば、それは、ますます困難になる。
『婚約者』としてのシエナの地位は次第に揺らぎ始めた。
シエナに配慮していた他の有力貴族たちも、次第に夜会を利用して娘を王太子に売り込むようになり、公にではないが、シエナの地位を白紙に戻すような動きも見られるようになった。
そんな周囲の動きに気付きながらも、シエナは何の策を討とうともしない。むしろ、娘たちが王子に近づきやすいように、夜会から、足を遠ざけるようになった。出席したとしても壁際の華として沈黙を守る。
アリーが用意してくれたプディングは口に含むと、蕩けるように甘い。それを堪能しながら、向かいで紅茶をすするフェリオに、密やかな視線を送る。
その成長した姿は、シエナを心の底から満足させる。彼は立派に成長した。家臣の信も篤く、将来優秀な王になられることだろう、と密やかにささやかれていることも……。
シエナの心を満たすものは心地よい達成感だった。覚悟は確かだった。幼い彼を支え、素晴らしい王太子へと導く。
わたしは、役目を終えた。幼かった彼を導き、ここまでこれた。
もう一度、フェリオの姿を見つめる。あと、彼とこのように過ごすのは何度だろうか……
だから、もう、わたしは、この王宮から去るべきものなのだ――
二人の間に横たわる距離は、出会ったころと何ら変わりないものだったが、見つめる先にあるものは、姿を変えてしまう。大理石に包まれた冷たい空気が、二人を包み込んでいた。




