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月下美人  作者: かしわ
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*番外編*朧月夜 5


「シエナ様、紹介したい方がいるんです」

先生に促されて会ったひとは、一言でいえば――変わっていらした。

身形を構うということを知らないのか、有力貴族の子息だというのにその装いは質素、いや粗末とも言えるものだった。

皺の目立つシャツに、大抵のことを受け流せるシエナでさえ、意識しなければ眉を潜めてしまいそうだった。

 

「シエナ嬢、あなたの瞳は、先々代のイベルスの奥様譲りですね」

そんな彼は、へらりと目を細めて、シエナを会うことも不可能な血縁者に喩えてみせた。そして、彼女も美しいと評判でしたが、あなたには及びませんね、と下心などまったく感じさせない素直な賞賛の言葉をくれた。

 

――お会いしたことがあるのですか?

ええ、書物の中でですがね――

 

その本気とも冗談ともつかない言葉に、思いがけず惹かれてしまったのだ。

 

次男坊とは、不要物ということなのだろうか?

それでも、彼は立場に卑屈になるわけでもなく、ただひたすらに自由に見えた。

「先日、街で隣国から仕入れたという新種の麦を目にしましてね……え?もちろん一人でですが?」

そうして、学問からの興味であっても、政治というものをよく知る彼は、ときにその容姿からは考えつかないほど鋭い指摘をしてみせた。

「あれはエルセリア産の麦よりも数段良質ですね。流入することで……国内の生産家は打撃を受けるでしょう。早い段階で高い関税をかけ、同時に国内での普及を進める必要がありますね」

 

そんなところが、悲しくも父の目に止まってしまったのだろうと思う。

 

「カロン家の次男を養子に迎えようと思う」

 

一瞬浮かんだ期待――それはすぐさま、霧の様に消えた

 

「兄としてイベルスに継ぎ目を迎えれば、おまえの婚約者としての立場も安定するだろう?」

 

兄?

欲しくない、そんなもの

 

ばかげた思いつきが浮かぶ

わがままを通せば、もしかしたら――

 

「シエナ嬢」

その笑顔が、欲しい

その声が、欲しい

 

手を伸ばせば、届くのだろうか?

 

 

 

ぱんっ

痛みのあとから、熱が広がる。

「イベルス卿!!」

「ベルナール様……よいのです……」

身を乗り出して父に詰め寄ろうとするベルナールをシエナは止める。

手を上げられたことは初めてだった。動揺は思いのほか大きく、ベルナールがもしこの場にいなければ、涙を零していたかもしれない。

「ベルナール殿、これはイベルス家の問題。そなたには関係のないこと。……それとも、自らカロン家に騒動を持ち込もうと?ただでさえ、そなたを持て余していたお父上のこと、そんなことをしては、カロンの名さえ失いかねないだろうに……」

乾いた笑いを浮かべて、冷たい視線を飛ばす。

ぐっと息を詰まらせ、ベルナールらしからぬ苦い表情を浮かべる。

「しかし……」

「これ以上、何も言わぬ方が身のためだろう?……シエナ、お前とはまた改めて話そう」

父がダンダンと大きく、音を立てて立ち去るのを、シエナはただ耳だけで感じていた。

 

 

下ろした視線の先に、力を込め震える握り拳があった。

溢れる怒りをどこへやっていいのか分からない……怒りとは無縁の、穏やかな彼の苦しみがその白い拳に現れていた。

思いがけず、その拳に手を伸ばしていた。

「……王室も、イベルス家も……あなたは、ごくごく普通の令嬢だというのに……」

ぐぐっと眉間に皺を寄せて、吐き出すように言葉を落とした。握り拳の力は更に強くなる。

「わたしの責務なのです」

ベルナールに対するゲイルの言いようを思い出して、苦笑する。

「なぜ?あなたはそれでよいのですか?」

シエナの言葉にベルナールは訴えかける。

やんわりと重ねていた掌は、気付けば大きなベルナールの手の中で強く握りこまれていた。

「王家との婚約は、あなたにとって……イベルスにとっても、この先有益だと本当にお思いなのですか?」

痛いほどの強い力に

あぁ……この人は真実頭の良い方なのだと実感する。

彼は気付いているのだ。王家との婚約が先の見えぬものだということを。

「よいのです……14の時に覚悟は決めました……」

ふわり、と笑みをつくる。けれど、ほろり、と堪えたはずの涙が零れ落ちた。

ベルナールにそれを見られたくはなかった。視線から逃れるために面を逸らす。

その上から、言葉が続いた。

「……私は、あなたの聡明さを尊敬しています……しかし、今はそれが悲しい……本当の意味で普通のご令嬢であられたならば、このようなことに巻き込まれはしなかったでしょう……」

ゆるゆると首を振ってみせれば、華奢な手を覆う力が一層強まる。

「シエナ嬢……もう少し私を頼ってはくれませんか」

「わたしのせいで、貴方様にご迷惑をおかけすることはできません……」

「しかし、道は他にも……」

一瞬、力が緩んだ。

違和感を覚え、顔を上げた瞬間――

「……私と、共に歩みませんか……」

淡いブラウンの瞳がそこにあった。

掌を覆う熱が完全に離れる。

そして、改めてゆっくりと差し出される掌。

「あなた自身の幸せへ……私が導かせてはいただけませんか?」

なんて残酷な選択なんだろうか……

ベルナール様……あなたはなんて残酷なのでしょう?―― 

 

差し出されたその手は、簡単にこれまで積み上げてきたものを崩し去ってしまうだろう。

 

それでも浮かんでしまう

十分役目は果たしたのではないか――

別の道を、選べるのではないか――

 

わたしは、わたしをまだ諦めきれていないのだ。

あのとき、あの大木の上で心に定めた気でいた。

 

でも、揺らいでしまうのだ。

それは、この方に出会ってしまったからかもしれない。

 

この方は、わたしを破滅へと導くのだろうか――

 

風変りで、それでいて鋭さを兼ね備えた彼は真摯な瞳をシエナへと向ける。

 

それでもいい――

 

静かに瞼を落とせば、闇が広がった。

視界を閉ざすことで、自らを取り巻く諸々から逃れられる気がした。

 

伸ばした指の先に触れた柔らかな熱は大きくシエナの掌を包み込む。

 

それでも

 

せめて逃れようと伏せた瞼がもたらす闇は小さな少年の面影を宿し、掌を包む熱の差異とともにシエナの心を静かに締めつけるのだった――



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