1、天上から届く声
国有数の有力貴族の娘に生まれた。だから、とうの昔に覚悟は決まっていた。
遅かれ早かれ、どこぞの貴族と娶わせられるのだろう――と。恐らくそれは、自分よりもはるかに年の離れた相手だろう。もしかすると、既に奥方を持つ者かもしれない。
父と呼べるほど年の離れた、見知らぬ男のもとに嫁がねばならない、それは想像するだに恐ろしかった。
けれども、シエナにとっては、素敵な殿方に出会い、己が思いのまま結ばれる……などという夢物語を巡らすよりも、寧ろ現実をあるがままに受け入れ、覚悟を決めることの方が、よほど心を軽くした。
婚姻はこの家に生まれた義務だ。他の者よりも豊かな暮らしを送るには、それ相応の責務を要する。
幼き頃から自然その思いは心に刻まれ、シエナに染みついていた。
だから、14を迎えた朝、父から告げられた言葉はすんなりとシエナの心に落ち着いた。
生誕の日の朝、毎年繰り返される祝いの言葉は、ありふれてはいるが、子を思う親の心が込められていた。両親の寝室の手前、控えの間には、まだ幼い面影を残す少女とその両親が詰めていた。
琥珀色の艶やかな髪を肩まで垂らし、薄い碧のドレスを纏う少女は、小さくその場で腰を折り、一端の淑女のように振舞う。幼い彼女の姿は微笑ましいもので、可憐、という言葉が相応しい。しかし、その面は14にしては怜悧であり、翡翠色の瞳には、知性が溢れんばかりである。
「おはようございます。お父様、お母様」
「おはよう、シエナ。そして、おめでとう」
頬笑みをたたえ告げられる祝いの言葉に、シエナは初めて年頃の少女らしい笑みを浮かべた。可憐な薔薇が蕾を開くかのような笑みは、見る者の心を温かくする。
彼女が漂わせる、大人びた雰囲気からは窺い知れないほどの、柔らかく何物も蕩かすような笑みは、稀にしか見られないものの、必ず周囲の者全てを魅了した。
けれど、この日は状況を異にした。
彼女の笑みを見た母は微かに眉を歪めたのであった。満面の笑みをたたえる父とはあまりにも対照的な……。
母の変化に気付くことのない父は、上機嫌を隠すことなく言葉を連ねた。
彼のこの一言が、シエナの運命の輪を巡らせることになると彼自身だけが確信して。
「シエナ、心して聞きなさい」
「はい」
父の喜びにあふれた声に触発され、シエナもまた明るい色を含む返答を返す。それに、深く頷き、父は口を開いた。
「お前も14になった。学に心を傾け、常に精進を欠かさぬお前は、既に教師の手を要しないと聞いている。女性の嗜みである、刺繍などは手を煩わせるらしいが……しかし、十分に女性として立派に成長したといえる。シエナ……お前の婚約が決まった」
父の言葉から受けた衝撃は、一瞬だった。あまりにも早い……。その一瞬の思いは、春に吹く一陣の風のようにシエナの心を通り過ぎていく。その後に残るのは、ただ、静けさのみ。
『婚約』
言葉は静かに心に舞落ちて、しっかりと刻まれる。覚悟は、既に出来ていた。
「はい、父上。わたくしの気持は既に決まっております。……この家に生まれたということ、覚悟は既に」
「……やはり、お前は聡い」
薄く浮かべた笑みは、シエナの聡明さを評価するものか……それともその先を案じてなのか。
父から告げられた時点で、『婚約』が変わることはないだろう。覚悟の上で、一つシエナの心に引っかかる。ごく自然な疑問だった。
「ただ、一つ伺いたいことが……」
「なんだ?申してみよ」
「相手の方は……お名前を何と申すのですか?」
シエナの言葉に、父は満足げな笑みを浮かべた。それは、この時で最上の笑みだった。
「シエナ、お前は本当に幸運だ。最上の縁をお前は与えられたのだよ。お前の生涯の夫となるものの名は……――フェリオ――……フェリオ・ルオ・タクティス・エルセリア……」
告げられた名は、シエナの予想をことごとく裏切るものだった。予想など、想像など出来るはずがない者の名。
エルセリア――それはシエナの住む国の名。
それをいただけるのはただ一つの血筋のみ……。ルオ≪正統な≫・タクティス≪皇子≫――。
今、その名を戴けるのはただ一人だ。それは……
「シエナ。お前は、フェリオ王太子の正妃となるのだ」
宣告のごとく告げられた名にも、頭は拒否反応を示す。父の言葉が信用できないわけではない。信ずるよりも、疑いの方が勝るだけ。なぜなら、それはあまりにも、あまりにもありえないことであったから……。
放心したように、その場の何物もとらえていなかった瞳に微かに色が戻る。絞り出すように出した声は、掠れていた。
「お父様……それは……それは、ありえません。フェリオ王子と婚約できる分けがないのです。だって、だって彼は!!」
辿り着いた、弾き出した思考に、シエナ自身が戦きそうになり、言葉が途切れる。
そして、力尽きたようにその場に崩れ落ちた。
「…まだ、7つにもならないはずです……」
翡翠色の瞳は、ガラスに映る朝日のように、ゆらゆらと揺れていた。
からくりは、単純だった。
父は、やはり娘を政治の道具として利用したのであった。それを、できうる限り、最大限の効果を発揮できるときに……。
父は英傑ではない。娘の贔屓目を差し引いても、それは明らかだった。
言ってしまえば小物。ただ、血筋に導かれ、今の地位へと辿り着いただけ。
しかし、小物には小物の知恵の働かせ方があるのだ。父はそのあたりの鼻がよく利いたのかもしれない。
彼が今いる地位は国の中枢に属する。けれど、それは永遠ではない。この地位を支えるのは、現国王の宰相であった。宰相は、シエナの母の父。父にとっては義父である。その彼の威光によって、父は王宮で権力を得ているのである。
しかし、その彼もかなりの高齢に差し掛かっている。恐らく、あと数年もすれば現役から退かねばならなくなるであろう。
そうなれば、今の父の地位が揺らぐのは必至だ。小物の彼は、自らの地位に執着している分、変化に敏感である。
早急に手を打たねば、先は潰える。そう直感した彼は、使える限られた知恵を最大限使い、道を切り開いたのだ。
あまりにも無謀な手段を用いて――
覚悟はしていた。なのに、いざ突きつけられたものは、シエナの予想を大きく逸らすものだった。
自分の半分も生きていない幼子の妻になるなど……。
婚約の知らせはすぐさま国内を巡っていった。
祝いの言葉で彩られていく日常の中、一人シエナだけが心に不安を抱えていた。
どうして誰も批判を加えないのだろう……先を見れば明らかなのに……。
現在の立場から言えば、年齢差を加えても、シエナは王族へ十分に嫁ぐことが可能だ。けれど、10年後は?現宰相が失脚した後、父が王宮で立ちまわれると?まさか?――なぜ、誰もそれに気がつかないのだろう……。
この婚約は、先のあるものであるはずがないのに――
そんな、シエナの心など誰も知らず、道筋は、整えられていく。
……そして、初めてフェリオと顔を合わせる日を迎えたのだった。
早朝から念入りに仕込まれたシエナは輝くような美しさを身に纏っていた。上部を細やかに編み込まれた髪は緩やかに後ろに流れ、肩先から零れおちる房は悩ましいほどの艶を帯びて輝く。瞳の色と対になった翡翠のドレスは柔らかくまだ少女の体を彩る。薄く粉をはたかれた面は、物語に姿を見せる春の女神を想起させる。
周囲の賞賛の声に固く笑みを返したシエナは、少し一人になりたい、と告げ、纏わりつく侍女を遠ざけた。
場所は既に王宮。父に連れられここを訪れたのはいつだったろうか?記憶にないほど前のことだと実感する。
部屋から一続きとなったテラスの先に広がる風景は、圧倒されるほど美しく、一度見れば忘れることができぬほどだった。
きりり、と絞められた腰ひもに嫌気が差したのか。それとも、この状況にか。息のつまりそうな思いに駆られ、引き寄せられるように、テラスから、先へと歩みを進めていた。
等間隔に並ぶ木々に沿って、ゆっくりと歩く。
侍女が探しているかもしれない。刹那頭をよぎったが、すぐに掌に舞い散る雪のごとく、思考から消え去った。
まだ、完全には昇りきっていない日は柔らかい。更に木漏れ日はささやかに降る。掌に映る光と影に遊ぶ。
と、不意に大きな影がシエナを包んだ。不審に感じ、空を仰ぐ。
視線の先、並ぶ木々の梢に小さな少年が一人、ぽつりととまっていた。
「ど、どうしたのっ!?」
ここが王宮であることも忘れ、大声をあげる。声をかけられた少年は、一瞬視線を下へと向ける。そこにいるシエナの姿をとらえ、すぐにまた遠くを見やった。その瞳は、喧嘩をした後の子供が見せる意地を張ったそれだった。
「何をしているの?……もしかして……降りられないの?」
気を張ったような少年の表情にふと思いつき、柔らかい声をかけた。
痛くなるほど首を仰いで見る少年の姿は、下仕えの者の装いではない。貴族の子息だろうか?王宮に出仕する者が、家族を連れ立つことはままある。それに、見たところ彼の年頃は王子と、そう変わらないようだ。もしかしたら、王子の遊び相手として所望されているのかもしれない。
「違う!」
向きになったように、甲高い声で反論された。けれど、言葉とは裏腹に、微かに瞳が不安に揺れる。
幼い子の見せるささやかな虚勢に、思わず笑みがこぼれる。
「そう?……なら、お邪魔よね?ごめんなさい、失礼しますわ」
まさか、本当に立ち去るわけにはいかない。けれど、この少年は素直に助けを請わないだろう。
意地を張る子どもへの微笑ましさを感じながらも、軽くからかうような気持ちで退散を匂わす表現を使う。
「あっ!待っ……」
拗ねたようにそっぽを向けていた少年が、焦りの声を露わにする。
予想通り、の反応に頬が緩みそうになる。それを何とかこらえ、平然を装い、向けた背を翻した。
「なぁに?」
「……」
小首をかしげて問うが、返答はない。少し赤らんだ頬を隠すように、顔を俯ける。
これ以上は可哀想、か……
「ね。隣へ行ってもいいかしら?」
そして、少年の答えを待たずに木の幹に手をかけた。あっけにとられたように目を見張る少年に構うことなく、シエナはするすると幹を登っていく。整えられた衣服は、シエナの行く手を遮るが、煩わしさを感じるだけで、それが乱れることを気にも留めない。
あっという間に少年がぽつりと佇む枝に辿り着く。二人を支えられるだろうか、とシエナは少し不安を抱いていたが、辿り着けばその枝は思いのほか太く、がっしりと重みを支えてくれた。
今まで見下ろしていた少女が、急に木を登り、目前にいる。少年にとって、予期せぬ行動だったのか、ただひたすらに大きな瞳を零れおちそうなほど見張っていた。
そんな彼を落ち着かせるためか、シエナはにこりと可憐な笑みを浮かべる。
すると、少年の面が見る間に赤く染まっていった。
やはり、小さいながらもその自尊心を揺らしてしまったのだろうか?気を付けたつもりだったのだけれども……。
そう思い、もう一度柔らかな笑みを向けた。
「こんなところで一人、どうしたの?」
問われた少年は、柳眉を小さく寄せて、呟いた。
「……おまえも、ぼくを指図するのだろ……母上に言われて、ぼくを探しに来たのだろう?」
「いいえ?わたしは王宮にお招きにあずかったの。その……少し御用があって……。母上と共に王宮へ来たの?」
少年はゆるゆると首を振る。
「一人迷っているのを知ったら、母上様はよほど心配されるのではない?」
「僕はここに住んでるんだ。迷わない」
むすっと呟かれた言葉に今度はシエナが目を見張った。
今この少年は何と?王宮に住んでいるといわなかった?
そうして、一つのことを思い出した。自分を残し、立ち騒ぐ周囲が漏らした言葉は――?
『漆黒の髪に、濃紺の瞳。夜の帳が下りたころ、星々が輝き始めた空の気配を纏う容姿』
未だ齢7つといえど、末恐ろしい美しさだ……と。
なぜ、気がつかなかったのだろう。
自分の浅はかさにほとほと呆れてしまう。相手のことにまで気が回らなかったと言えばそれまで。年齢にばかり頭が行き、その容姿にまで至っていなかったのだ。
宵闇に喩えられた少年は、その通りの容姿を備えていた。
「お姉さん?」
思い至った少年の素性に唖然としていたシエナを、少年の紺色の瞳が見詰めていた。
「……フェリオ、殿下ですか?」
「……」
返答はない。けれど、それが肯定であることがシエナにはわかっていた。
「どうして、こんな木の上に御一人でいらっしゃるのです?」
「……」
「どなたかと仲違いでもなされたのですか?」
「……違う」
やっと返された言葉にほっと息をつく。
「では、どうして?わたしに教えてくださいませんか?」
続きを促すが、フェリオはまた黙ってしまった。
どうしたものか。何時までもこうしているわけにはいかない。恐らく、シエナが部屋から抜けたこともばれている頃だろう。ならば、一刻も早く戻らねば、事態がややこしい方向へ向かいかねない。
無理やりに抱きあげ、木から降ろそうと思えば出来なくもなかった。しかし、万が一抵抗された場合に、二人諸共転落してしまっては元も子もない。
さて、どうしようか……と考えあぐねていると、フェリオが初めに浮かべていたような、意地を張った子どもの顔に戻っていた。
そして、痛感する。
あぁ……彼はまだこんなにも幼いのだ、と。
翡翠のドレスから延びた、細く白い腕を伸ばして、黒く癖のないその髪に優しく触れた。
はじけるようにして向けられた瞳を覗きこむ。
「ね。わたしには、話せない?」
柳眉を寄せたフェリオは、小さく俯き、ぽつりとこぼした。
「ぼくには、なんにも許されないんだ」
「どうして、そう思うの?」
「だって、母上もゲイルも、ぼくがしたいといったことを許してくれたことがないから……。遠乗りへ行きたいと言っても、許可がいるって言ったきりだし、街へ行きたいと言っても危険だからと取り合ってもくれない……」
だから、抜け出したんだ――
曲げた膝がしらに顔を埋めてしまったフェリオの姿は、まるで赤子のようだった。シエナは二人の間の距離を詰め、小さく身を寄せたフィオナの背にそっと手を乗せた。
「フェリオ、あなたは王太子さまよね?」
埋めたままの頭が小さく頷く。
「わたしはね、与えられた立場には、それに見合った責任が伴うと思うの」
「『せきにん』って?」
「責任っていうのはね、やらなければいけないこと……かな?フェリオは王太子さまっていう立場にいるの。他の人とは違う、この国にたった一人の、あなただけの役割ね。その役割で、きっとあなたは他の人よりも良い思いをしていることもあると思う……違うかしら?」
「……良い、こと?」
「うん。そうねぇ……。フェリオは氷は分かる?」
「当たり前だよ。果実水にはいってるものでしょ?」
その返答に、シエナは曖昧な笑みを浮かべる。
「フェリオ。それは、当たり前ではないの。夏の氷は、冬に作られた泉の氷を特別な方法で夏まで保つの。夏になった頃には元の半分も残らないわ。そんな氷が夏に手に入るのは、国内でもほんの一握りよ。知っていた?」
「……ぼく……知らなかった」
「うん。私も知らなかった……。でもね、そういう風に自分にとっては当たり前だけど、他人にとってはそうでないこともあるの。知らないうちに、あなたは恵まれている。だから、その恵みと同じくらいの我慢をしなくちゃならない。母上様が、あなたの行動を制限するのもその一つ」
「でも……ぼくは王太子になりたいなんて言ってないのに!」
「駄目よ。それを言ってはダメ!」
突然の大きな声に、フェリオはびくりと体を揺らした。なぜ、シエナが声を荒げたのか、フェリオには全くわからなかった。フェリオの戸惑いに気付きながらも、シエナは荒げた語気を改めることなく言葉をつなぐ。
「自分が生まれたことから逃げてはダメ!それは絶対だから。それを否定しては、持っているもの全部を捨てなくてはいけない……。いいの?父上様にも、母上様にも、出会えないのよ。今あなたの周りにいる皆にも会えないのよ?それでもいいの?」
後半は、宥めるような声音に変わっていた。背に回された掌が温かい。
「やだ……」
呟きは、小さかったが明確だった。耳に届いた声にシエナは頬を緩める。
「あなたは聡明ね。……大丈夫。なにも、不幸が待っているわけではないわ。あなたがいる場所はだれもが憧れても手に届くはずのない場所なのだから、寧ろ、幸せが溢れているはずよ。制約を受けた分、ちゃぁんと幸せは与えられるわ。ただし……あなたが幸せに気付かないといけないけれどね」
いたずらっぽく微笑みを浮かべ、フェリオの背をぽんぽんと軽く叩いてみせる。誰をも魅了するシエナの笑みに引き出されたように、フェリオの面にも笑顔が戻っていた。
フェリオに言い聞かせたことは、同時にシエナ自身に言ったことでもあった。
シエナには、生まれながらに課せられた義務がある。それを、果たさねばならない分、与えられるものは他者よりも恵まれているのだ。恵みに、奢ることなく、常に念頭に置かなくてはいけない……。
幼い頃から、好きなことを好きなようにさせてもらってきた。少女らしい遊びよりも、歴史書を読みふけることを好み、少年のように馬で野を駆けることを好んだ。普通ならば、許されなかったかもしれない。それを許されてきた……その分の課せは負わねばならない……。たとえ、先に続かない婚約であろうとも……。
この幼き王子を、わたしは全力を賭して支えよう……
本当に生涯を遂げるのが私でないとしても――
「さぁ、戻りましょうか?」
瞳に静かな決意をこめて、笑みを傍らの王子に向ける。返された、濃紺の瞳は、純粋で無垢なまま。躊躇うように、差し出された手を取る。次の間、唇が小さく開かれ
「あなたの名前は?」
名を問うた。
それに、刹那シエナは目を見張る。そしてまた、蕩かすような笑みを浮かべた。
「シエナです。シエナ・イベルス。以後お見知り置きを」
細く華奢な掌に重ねられたものは、シエナのそれよりも、更に小さく、そして温かった。