*番外編*朧月夜 2
一段高い、上座に据えられた席に座すのは、仏頂面の幼い王子。
眉間に寄せた皺を隠そうともせずに、正面に広がる華やかな世界を、憎々しいばかりの視線で、睨みつけている。
「殿下……もう少し柔らかな表情を……」
「無理」
すぐ後ろで、警護に控えるゲイルが渋い声で、フェリオに進言するが、とうのフェリオは、あっさりとその言葉を切って捨てた。
人形のように、好き勝手に着飾られた体は、窮屈で重く、動きづらかった。狩りのように、自由に馬を走らせることも出来ないし、お茶会のように、好きなお菓子があるわけでもない。ただ、窮屈な衣装に身を包み、一段高い上座から、庭園に広がる人々の集いを見つめ、時折やって来る貴族の挨拶に耳を傾けるだけだった。
「ゲイル、退屈だ」
「……もう少しご辛抱下さいませ」
「できないっ!もう十分役目は果たしただろう?帰っていいか?」
「殿下……まだ、一刻も経っておりませんが……」
「なにっ!!……まだ、そんなものなのかぁ……」
へたり、と脱力して、掛ける椅子に沈み込む。明らかな落胆の表情を浮かべたその顔には、退屈して時をもてあそぶ子供の表情が浮かんでいた。
「……良いお顔ね、フェリオ殿下」
掛けられた声に、敷かれた紅の絨毯へ下ろしていた視線をあげる。
「……シエナ……」
壇の下、少し離れたところに立つ、淡いクリーム色のドレスを纏ったシエナの姿があった。ふわりと浮かべる笑みは、日ごろ見せる悪戯めいたものではなく、春先に咲く蔓薔薇のように、儚く、可憐に光る。
「ご機嫌麗しゅう、フェリオ殿下。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
そうして、シエナは、他の貴族と同じような形式ばった挨拶をしてみせた。
そんな、シエナの様子に、フェリオの表情は益々不機嫌に変わっていく。
フェリオ殿下――そう呼び、一枚壁を隔ててしまったように、距離を保った振る舞いを見せる。貴族の集まりに加わったとき、シエナの纏う雰囲気は、いつもフェリオに見せるものとは、一変するのだ。
大貴族イベルス家の一人娘で、かつ王太子の婚約者、シエナ・イベルス。
「立場として相応の立ち居振る舞いをしているだけよ」と、からりと彼女は笑って見せたが、フェリオはそれが気に入らなかった。フェリオにとって好ましいシエナは、王太子のフェリオにも遠慮なく檄を飛ばし、一緒に野を駆けまわってくれる、彼女だった。
「ま、気持は分かるけれど……。それほど、退屈かしら、夜会は」
「退屈だ」
即答したフェリオに、シエナは苦笑を浮かべた。
シエナに呆れられているのを知って、なお、駄々を捏ねてしまう。年の割に、甘えが抜けない、と度々母に言われ、自覚もしているが、一度意地を張ってしまえば、容易に解くことはできなかった。その相手がシエナならば、尚更のことに。
「もう、僕は帰る!」
ぷいっと、そっぽを向いて、言い捨てた。流石のシエナも、いくら公の場でも、叱責しなくてはならないだろう。ちらりと、視線だけを動かし、シエナを盗み見る。彼女の被る仮面を剥ぎ取ってみたかった。
「……お楽しみはこれからなのにね……帰っちゃうのかぁ……」
はぁ、と至極残念そうにつぶやく彼女の姿が見えた。
「……お楽しみ?」
意外な反応に、首を傾ける。ちらりと好奇心が首をもたげた。
「……残念だけど……殿下を無理やり引き留めることはできないわね。……ゲイル、お願い。殿下を連れて行って差し上げて――」
「わわわっ!!嘘っ!!まだ、大丈夫だからっ!」
「流石でございますね」
「なぁに?」
「いえ……」
背後で小さく交わされる言葉を不審に思って、振り返る。
「なんだ?」
見上げるとゲイルは大きな壁の様だ。いつもは屋根に並ぶレリーフに似た強面の表情を浮かべている顔が、心なしか和んでいた。
「さぁ?ゲイルの独り言のようよ。さ、お楽しみが待っているわ……」
ふわりと微笑むシエナにどこかはぐらかされた気もしたが、告げられた“お楽しみ”に興味を引き付けられ、背を押されるまま夜会の光と闇の中へ踏み出した。
二人、並んで庭園を歩けば、自然に人が集まってくる。掛けられる言葉に、フェリオはびくりと小さく体を揺らしてしまう。それは人が気付かぬほど微かだけれど、隣に立つシエナには、はっきりとわかった。
「フェリオは、貴族たちの策略が怖いのよね?」
視線を前に向けたまま、シエナがぽつりと呟いた。
「べっ、別に怖くなんかない!!」
むっとしたフェリオが、シエナに反論するように向きかえると、柔らかい声で、視線はそのままと正されてしまった。剥れたままのフェリオの背に、シエナはそっと掌を添える。
少し冷えた夜の空気に、彼女の温もりは温かかい。
「……苦手ってところかしら?でも、フェリオ、夜会は嫌なことだけじゃないのよ。貴重な実践の場なのだから、利用されるんじゃなくって、こっちが利用しなくちゃいけない」
ほら、とシエナは視線だけを先へ向けた。あるのは、よくみる貴族の令嬢たちの一集団だった。数人で集いあい、枝先に群れる小鳥たちの様に、高いとも言える声でさえずりあっていた。
「ね、面白いでしょ?」
「へ……」
間の抜けた音が口から零れ落ちた。
「まさか……あれが、お楽しみ……?」
「ええ」
意味が分からずに、その光景を凝視したが、そのどこにも、面白いと興味をひくような要素を見つけられることはできなかった。もしかして、と不穏な空気が包む。
僕を、騙した……?
「シエナっ!!」
「彼女たちの身につけている物に注目してみて。例えば、菫色のドレスを纏ったあの人……」
文句を言おうと口を開いた瞬間だった。シエナは相変わらず、きらりと好奇心を湛えた瞳で、フェリオを促してみせた。
「年頃と、私の記憶にはない顔だから、きっと今日が夜会デビューね。ほら、胸元に、大きなルビーの石を付けているでしょ?あれは、北部のハーヴィル地方でだけ産出されるルビーね、たぶん。それに、あの大きさから言ってかなり裕福な家柄。夜会にわざわざ身につけるということは、彼女の実家はハーヴィル地方を治めているマルス家の令嬢か、マルス家と親しい有力貴族ってこと。」
すらすら、とシエナの口から紡がれる言葉を、あっけにとられて聞いていた。フェリオの思考が追いつく前に、彼女の興味は次へと移る。
「はい、次。あっちにいるのは、エリアウスのご令嬢。彼女の父の所領は北西部の国境に近いところにあるのだけど……確か、税収はそれほど多くなかったはずよ。でも……」
標的の令嬢は、年若く、まだ、夜会に参加するようになって間もないように見えた。その装いは一見すれば、周囲と変わらないように思う、が一つ、フェリオは引っかかりを覚えた。シエナが深く頷く。
「気付いた?彼女の身につけている装飾品、あれは、隣国でしか産出されない貴重な石。家格でみれば、あまりにも高価すぎるものね。……ここから、推測されるのは……」
娘の縁談を考えて無理をしてでも分不相応な装飾品を身につけている、とも言えるかもしれないが……より深読みするとすれば――
くるり、と思考が働き、一つの考えが浮かんだ。
「……税収を誤魔化している?」
「正解。父親が税収を誤魔化して申告しているのかもしれない。先日見かけたエリアウス卿はそれほど華美ではなかったのだけれど……さすがに年頃の娘までには、仮面の質実さを押しつけることができなかったのかしらね。何にしても、陛下に進言してみたほうがいいわ」
にっ、とみせる笑顔は、日常覗かせる、悪戯めいたものだった。フェリオにだけみせてくれる、シエナの表情に、心の中に強張っていた何かが解れ、温かいものが、胸に広がっていく。
「どう?面白くなってきた?せっかく身につけた知識なのだから、机上の空論だけでは終わらせないで、しっかり、現実に生かさなくちゃね?夜会はその実践の場にぴったりなの。だって、みんなが自分の権力を示すために、最上の装飾で集うんですもの」
確かに、夜会は社交の場としては権力を示すには格好の舞台である。若い娘たちから、老齢にかかる政治の重鎮までが顔を連ねることもあるこの場は、各々が自らの立場を少しでも優位に保とうと、互いが互いを干渉する。
その絵からは、日常では見ることのできない、隠された彼らの素顔を窺い知ることができる。
けれど、それを意識するものがこの中にどれほどいるのだろうか――?
正直にいえば、幼いフェリオにとって、彼女の言うほど面白さを感じることはできなかった。けれど、楽しそうに、貴族たちの勢力図をその装いから推測していくシエナの様子を見られることが、フェリオの気持ちを明るくし、自然に同じく力関係を読み取ることに夢中になっていった。
「あとは――」
さりげなさを装いつつ、貴族たちのチェックを進めていたシエナの視線が、ぴたりと止まった。
「……シエナ?」
言われたとおりに振る舞いを取り繕っていたフェリオだが、シエナの様子の変化を感じ取って、隣に立つ彼女へと視線を移した。
けれど、シエナは、フェリオの視線に気づくことなく、視線の先にある何かに気持を奪われたまま。
「……ベル……さま……?」
「え?」
言葉を零し、何かに引き寄せられるように、半歩足を進める。
すいと、その体がフェリオの位置を少し越えた、その時だった。
「シエナ様――」
静かな声が、背に掛けられた。
真っ直ぐに伸びた背が、びくりと跳ねて、その歩みが止まる。
「……申し訳ありません……。失礼いたしました、殿下」
振り返った横顔に、冷たい色が浮かべ、そのまま深く腰を折り、最敬礼の姿勢を取った。
「シエナっ!?」
成行きの分からないフェリオは、慌ててシエナに合わせて自らもその場に腰を下ろそうとしたが、それをゲイルの鋭い声が止めた。
「フェリオ殿下はお気になさらずに。……シエナ様、お立場をお忘れなきように」
あまりにも冷たいゲイルの物言いに、フェリオは眉をしかめた。少なくともフェリオの前でゲイルがシエナに対して取る態度は、常に敬いの心を含むものであった。
何があったのか分からず、戸惑いを見せるフェリオに、シエナは柔らかい笑みを向ける。
「はい……。さぁ殿下、参りましょう――」
そうして、そのまま何事もなかったのかのように、フェリオを促して夜会の闇へと歩みを進めていく。
けれど、フェリオの気持ちには、靄がかかったまま。温かい春の日差しにも似たシエナの笑顔が、このときだけは、フェリオの心を温めることはできなかった。