*番外編*朧月夜 1
おひさしぶりです。かしわ、です。
皆様の声に後押しされて、番外編に手を付けてしまいました。
蛇足にならなければ、よろしいのですが……。
お楽しみいただければ幸いです。
気が付けば、惹かれていた。
彼女と言う存在に。
常に、隣に寄り添う、美しく咲く花のような人。
手を伸ばせば、いつでも、甘く柔らかな笑みで応えてくれる。
彼女は、僕の、僕だけのもの――
青い風が吹き抜ける平原に、二つの影が、まるで同じ風のように、駆け抜けていた。蹄が、地を抉り、駆ける。リズムよく響く二つの音は、広い平原にこだまし、遠くへと響き渡っていた。
「見て。今日はすごく、空がきれい」
馬上から振り返った少女の顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。
下ろせば、腰まで届くほどの長い髪は、今は一つに束ねられ、まっすぐに伸びた背に一筋垂らされている。風になびくその一筋は、光に輝き、琥珀のその色が、黄金に変わる。
その不思議を、ずっとフェリオは、シエナが光の精だからだと思っていた。
先をかけていく彼女の背は、ふと見逃せば、もうそこには無いのかもしれない、まるで、夏の宵にしか会えない、蛍火の様に。だから、必死でその背を追いかけていた。置いて行かれないように、その光を見失わないように、と。
「うん、綺麗だ!」
「ね、無理をしてでも遠乗りに出てよかったでしょ?」
「……でも首が痛いや」
「ふふ、そうね。どうしても、上ばかりを見上げてしまうわ。そろそろ、降りる?」
その呼びかけに、ゆっくりと、手綱を引き寄せて、緩めたスピードとともに、こくりと小さく頷いてみせた。
青草の香りが鼻先をくすぐる。日の光に暖められた、大地は緩やかな温かさを持って小さな体を包み込んでくれる。
そこに、直接腰を下ろし、体を委ねれば、自分が大地の一部であるかのような錯覚を覚えた。
隣には、同じように大地に腰を下ろし、吹き抜ける風を感じているシエナの姿がある。フェリオが、そんな風にふるまう女性がいることを知ったのは、シエナに会って初めてだった。フェリオの知る女性は、いつもきれいに身を固め、扇の下で嫣然とした微笑みを浮かべているような貴婦人達か、身の回りを整えてくれる形式ばったことしか話してくれない侍女たちくらいだった。
その、どちらにも属さない、奔放で強く、そして真っ直ぐな女性は、思いがけずフェリオの前に突然現れて以来、ずっと隣で寄り添い続けている。
「で、今日は何を習ったの?」
「今日は、東部の税収割合、かな?レイリアス卿の所領を例に挙げて、東部の国民の生活と――……」
シエナの言葉で始まる、授業のおさらい。
退屈で、いつも逃げ出したいとばかり思っていた授業が、シエナに出会ってからは、パズルのピース一つ一つを、手に入れるような、ワクワクとした思いが生まれるようになった。授業で得た、ピースの一欠けらは、シエナとの会話の中で、繋がり、一枚の情景となって現れる。
その面白さを知ってからは、もう、授業から逃げ出したいとは思わなくなっていた。フェリオにすっかり手を焼いてしまっていた教師たちは、その急激な変化に、しばらく殿下はご不調なのか、と医者たちに聞いて回っていたらしい。
「レイリアス卿はね、質素倹約が信念なの。だから、所領の民にも、それを敷いている。例えば、東部は都に近い北部や西部よりも、冬の気温が比較的気温が高い。領主は、ある程度の寒さの備えがあれば冬は越せると考えているから、他地域からの羊毛の取引を制限しているの。でも、実際はそうじゃない、領民は、冬を越すにはやっぱり羊毛が欲しいのよ。でも、他領から入ってくる羊毛は少ない。そこで……」
「あ!だから、東部では羊毛の生産が盛んなんだ!!」
授業で聞いた、生産量の図が脳裏に浮かんで閃いた。なぜか、東部では、その需要に反して、羊毛の生産が盛んだったのだ。
「正解。自分たちで生産しちゃえってわけ。しかも、他領に、高く買い取らせることができるから、利益も生むのよ」
一石二鳥でしょ?と笑うシエナの瞳は、面白い喜劇を見るときのように、無邪気に輝く。
そんな風に笑うシエナが大好きで――
つられるように、フェリオも笑顔を浮かべていた。
礼儀作法、武術、学問、もろもろの授業を以前は嫌い、逃げ出そうとばかりしていた。そんなフェリオの姿を見ることはもうほとんどなかった。少しでも多くの知識を身につけようと、進んで教師たちに学を請う。そのすべての影響はシエナにあった。シエナと出会ってからのフェリオは、理想的な王太子として成長しつつあるように見えた。ある点を除いては……
「シエナっ!!」
大きく息を吸い込んで、ありったけの声で、名前を呼んだ。そうして、振り返った彼女が答えるのも待たずに、その体に飛びつく。
「フェリオ!相変わらず、元気ね?」
恐らく、かなりの衝撃を受けたに違いない彼女は、それでも、ふふ、と笑みをこぼして、飛びついたその背に細い腕を回す。抱きとめれば、フェリオは面をゆっくりと上げて、にっかと満面の笑みを浮かべた。
ほんの数日前に会ったばかりなのに、1日会えないだけで、心が沈んでしまう。それを両親や仕えの者たちは、愛らしいと笑うけれど、フェリオにとって、その1日は本当に悲しい時間なのに、それを他愛もないと笑われるのは心外だった。こうして、シエナに会えた喜びを露わにして纏わりついてしまうのも、当然なのに。
10も過ぎた少年がみせるには幼い様子に、周囲の侍女たちは無礼と知りつつも思わず苦笑を浮かべてしまう。
いつまでたっても、シエナに甘えてばかりいて、子供っぽさの抜けない王子に、幾度か注意を喚起する者もいたが、それでも、その一点だけを除いて、あとは完璧な振る舞いを身につけつつあるフェリオに、それ以上強く否定することはできなかった。自然に抜けるでしょう――と苦笑を浮かべつつ静かに見守るだけだった。
「どうしたんだ?今日はいつもよりも到着が早いな?」
細い彼女の腰に纏わりついたまま、ぶらんぶらんと、体を揺らす。
「ええ。だって準備が必要でしょ?」
「準備?なんのだ?」
首を傾けて問うと、シエナは美しい微笑みを顔に浮かべてみせる。
「夜会の、よ」
一瞬、その美しく可憐な笑みに騙されて、そのまま頷きそうになった。
「……えっ!!」
「素敵な衣装をターシャが用意してくれてるんだって?楽しみでしょ」
「嫌だっ!!」
そう笑みを深めるシエナの言葉を、大声で拒絶し、この場から逃げだすために、しがみついていた腕を解き、彼女から離れようとした。
「!!」
「逃がさないから」
けれど、それは、先を読んだ彼女に遮られてしまう。シエナの腕は既に、フェリオが逃げないようにと、フェリオの体をしっかりと捕えてしまっていた。
にっこりとして見せるシエナの頬笑みが、いつもと違って、背筋を冷やす。
嫌だっ、と眉根を寄せて、首を左右に振れば、彼女の美しい眉もまた、小さく潜められた。
「フェリオっ!いつまでも駄々を捏ねないのっ!!夜会でのお付き合いは、大切な王家の公務の一つなのよ」
「やだよ!!僕はあの貴族たちの軽々しい集まりになんて出ないからなっ!!」
「こらっ!暴れないのっ!!」
じたばたと、体を捩じって何とかその腕の拘束から逃れようとするが、非力なシエナの腕であっても、二人の体格差は明らかで、それはなかなか叶わない。
夜会に参列しろ、との命は、ずっと国王である父から言われていたことだった。
年の頃10に近づいた頃から、散々王子としての自覚を持つために、貴族との交わりに参加することを強要された。それは、狩りであったり、貴婦人達とのお茶会であったりした。
初めは、訳も分からず、ただ引きずり出されるままに、その集いへ参加したが、一度知ってしまえば、二度と行きたいと思うことはなかった。
媚びへつらいの言葉、片隅で交わされる、影の企み。自分に向けられるのは、利用してやろう、という気持ちがにじみ出た、大人の甘い視線と言葉だった。
頬笑みを浮かべて、贈り物を献上いたしましょうと囁かれる言葉に、フェリオも、初めは素直に頷いていた。
しかし、隣に控えるシエナが、柔らかい笑みで、それを婉曲に断るのだ。
なぜ?と、自分のもらえるはずだった、鞍や弓が消えていくのを、少し荒立った気持ちで問えば、少し悲しげな色をその翡翠色の瞳に浮かべて、シエナは答えてくれた。
彼らは、あなたを道具としか見ていない――と
それからだ。恐ろしい、と思っていしまったのだ、自分に向けられる視線を。
だから、貴族の集まりには行きたくないと、突っぱねていた。中でも、夜会は、夜の闇にまぎれ、策略が飛び交い、フェリオに向けられる念にも、暗いものが多い。
自らの振る舞いに十分注意するように――
命を出した父自身からかけられた言葉は、ただ、そのまま、自らの粗野な振る舞いをたしなめるものだと思っていたが、その言葉の裏に潜んだ真意を、悟り、身が震えた。
あれは、幼いフェリオが貴族の道具として利用されることの無きように、という警告だったのだ。
怖い――
「……」
「……」
逃げようと、必死でもがく。逃がすまいと必死で捕らえる。
二つの視線がぶつかった。
「あなたが出ない、と言ったからとして、それが叶うわけではないわ……ターシャ!用意をお持ちして!!」
「っ!!いやだぁぁぁぁぁっ!!」
結局散々駄々をこねて分かったのは、宣言のように、ぴしゃりと告げたシエナの言葉から、結局逃れるすべはない、ということだった――