13、真と偽り
ヒュン
「シエナっ!」
弓が風を切る音
フェリオの怒声
振り返れば
飛び込む影
びくり、と揺れる、大きな背
艶やかな黒髪が、揺れる
刹那、振り返りかけ
けれど、ぐらり、と体が傾ぐ
一瞬の出来事。それは、スローモーションで、流れる。
「フェ、リオ……?」
馬上から、崩れ落ちていく、その姿を、現実として、受け取れない。
ドサッ
地響きに、一瞬にして、現実が現れる。
「っ!!」
叫び声は、声にならない。
焦って、馬上から飛び降りるが、鐙に足を取られ、転がり落ちた。
体に感じるはずの痛みは、今は、荒れ狂う感情に抑え込まれ、痛みとして認識されない。
這うようにして、崩れ落ちたフェリオへと腕を伸ばす。
「フェリオ!フェリオっ!!フェリオォっ!!!」
繰り返して、名を呼べども、応える声はない。
抱き上げた、体からは力が抜け、零れた腕が、体の脇から、だらり、と垂れ落ちる。
瞼を重く閉じた、青白い顔には、生気が感じられない。
ぬめりを感じて、脇腹を見れば、弓矢が深々と突き刺さり、鮮やかな赤が、体から流れ落ちていた。
無我夢中で、患部に両掌を押しつけていた。
頭が、ガンガンと警鐘を鳴らす。
何?
なぜ?
どくり、どくり、と血液が血管を流れる音がやけに耳に響く。
神経が研ぎ澄まされている。
鳴り響く、新たな警鐘。
ぐったりとしたフェリオの体を、放心したように、掻き抱いていたシエナの体が静かに動く。
判断、とは言えない。反射。思考ではなく、無意識化の反応で、体が動いていた。
素早く腰から、抜刀し、その勢いで、空を切る。
キン
鋭い音の直後、真っ二つに割れた、弓矢が舞落ちた。
手にした剣はそのままに、瞬時に、矢をつがえて、矢が放たれたであろう方向を見定めて、弓を射る。
ヒュンと鋭い音を響かせて、木々の合間に消えていく。
弓矢の先を案ずるよりも先に、シエナは高く声を発していた。
「ゲイルっ!!ゲイルっ!居るのだろっ!」
上げられた声は、いつものシエナのものとは、全く異なる。低く地を這うような、鋭い声。聞く者全てを従わせる、人を統べる者のみが持つ、声だ。
「フェリオは、ここだっ!!」
絞り出すような怒声にこたえるかのように、木々の葉が揺らめく。
その間から、近衛の隊服を身に纏った一陣が舞い込んできた。
それを当然と、答える声も聞かず、シエナは鋭い声を放つ。
「南南東の方向に一人、北西にもう一人っ!急ぎ捕らえよっ!ただし、決して殺すな!」
その声に、付き従っていた兵士が、弾かれたように、馬を掛けた。
残されたゲイルは、シエナの傍らに膝をつきフェリオの様子を確かめる。
食い入るように、言葉を待つシエナに、ゲイルは小さく笑みをかえした。
「矢は、急所を外れております」
「出血量は?」
「それほど。今は、矢を抜かぬ方がよろしいでしょう。それによって、不要な出血が抑えられております。防具によって、それほど深く刺さってはおりませんし……」
その言葉に、息をつく。吐き出されたその大きさに、今まで、どれほど息を詰めていたかが表れていた。
「ただ、落馬した際に頭を強く打たれたようで……」
「……ゲイルに任せます。急ぎ、手当を」
大きく頷き返し、力を込めた翡翠色の瞳で見つめ返した。
ゲイルは手早く、自らの衣服を割いて、フェリオの傷に当て、止血をする。その様子を、眉を深くひそめて、シエナは見つめていた。
腕の中のフェリオの頬を優しく撫でる。何気ないその仕草は、見るものを赤面させるほど、相手への愛しさで溢れていた。
離れるのを惜しむようにしていたシエナは、思いを断ち切るように、最後に強くフェリオの体を抱きしめた。
託された、フェリオをゲイルが抱きあげる。長身のフェリオは見かけの細見に関わらず、かなりの重量がある。しかも、今は狩りの装備を纏っている。鍛え上げたゲイルでも、重みが堪えてか、微かに眉を歪めた。
「お手伝いを……」
襲撃の間、一人ずっと気配を潜めていたロジェが、その様子を見咎めて、手助けを申し出る。
しかし、それはシエナの低い声に、遮られた。
「ロジェ殿には、下がっていていただきます」
「シエナ、様?」
これまでに向けられたことなど無い、鋭い声色に、ロジェの面が強張る。
音もなく立ち上がった姿からは、ロジェをも威圧するほどの覇気が放たれる。すうっと、先ほど抜かれた剣の切っ先が、ロジェの喉を突いた。
「な、なぜ……?」
予想も出来ぬ、シエナの行動に、ロジェはただ、戸惑いの声を上げる。しかし、それに答える声は、冷たい。
「なぜ?それは必要な問ですか?あなた自身が一番にご存じでしょう?」
「な、何を……」
問い返す、ロジェに、シエナは、口の端を少し上げるだけで笑みを作る。
「まず、一つ。あなたは牡鹿を見た、と言った。そして、迷いなく一路にそれを追った……なのに、あるはずのものがない……」
下ろした視線の先にあるのは一部が欠けた、丸い模様。あちらこちらに散らばるのは、どれも同じ形で、異なるものは、大きな人の足跡のみ。
視線を戻せば、剣を向けたままの、ロジェの表情が、固く強張っていた。
「二つ、帰路を探るフェリオと同じく、あなたは森の中を探っていらした。けれど、少し引っかかったのです……。なぜ、あなたは、地上近くを探っていらしたの?フェリオは、空を仰いで、太陽の位置を図り、方角を探っていた。あなたは?木々の合間に、何を見つけようとしていらしたの?」
シエナの言葉は、疑問形で紡がれるけれど、その答えをロジェから期待する色を持たない。既に、答えなど得ているのだ、と告げていた。
「最後に……。わたしをここへ導いたのが、あなただ、ということ。襲撃場所に、というだけではありませんわよ。この秋猟会へ共に訪れる、と決めたときから、あなたの企みは始まっていた……。いいえ、わたしに近づいた時から、かしら?」
どう、と首を傾げる仕草は、可憐な少女のよう。しかし、瞳にこもるのは、冷たく突き放すような光。
「初めから、わたしが狙いだったのですね……。……ただ、私自身を排除しても、意味がない。それで、一番に疑いが向けられるのは、イレーネ様を掲げるリヴィウス家ですものね。だから、あなたは、わたしに近づいた。あなたとわたしの関係を公にした後ならば、ロジェ殿は、恋人を失った悲劇の人、となれるから……。わたしの死に、リヴィウスが関係しているなど、疑いたくても、疑うことすらできない。あなたならば、感情と無縁の涙なんて、簡単に流してみせられるでしょうから」
二つの感情が、シエナの内で、心を食らう。燃えるような、激しい怒り。願うような、悲痛の声。
短い沈黙の後、ロジェは短い溜息を吐きだすように、乾いた笑いを漏らした。
「はは……。あなたは最後の最後に、正体を現すのですね……。敵いませんよ」
ふい、と下を向き、地に印された足跡を確認し、苦笑を浮かべる。
再び向けられた視線に、シエナは、堪えられぬ、悲しみを感じてしまう。
見たこともないような、冴え冴えとさえした、青い色。
常に浮かぶ、ロジェの柔らかな瞳の欠片など、そこには存在しない……。
出来ることならば、予想が違えればよかった。向けた切っ先を、一番疑ったのは、シエナ自身。
思考に浮かんだ、一つの可能性に、まさか、と言えることもできた。それでも、止めなかったのは、フェリオを傷つけたその人を、許すことが出来なかったから……。
たとえ、間違いでも、その可能性を見て見ぬふりは出来なかった。
目前に立つロジェを、複雑な心中をすべて込めた強い瞳で、睨みつける。
そんな、シエナの感情も、ロジェは気付いているのだろう、彼もまた、視線に鋭い色を乗せていた。
「……えぇ。まさか殿下があなたに、これほどまで執着しているとは思いませんでしたよ。本来ならば、さっさと婚約者の座を降りていただいて、より良い形で御身を整えて差し上げられましたのに……。いらぬ算段を取らされました……。しかも、ここに来てまで、殿下があなたを庇うとは……。本当に完敗です」
突きつけられた切っ先を物ともせず、からりと笑い声をあげるロジェに、初めて、恐ろしさを感じる。
「イレーネ様は……?」
「イレーネ?イレーネは何も知りませんよ。あれも、駒の一つです。まぁ、わたしも駒に過ぎませんがね……。これを手引きしたのは、わたしです。しかし、真の打ち手は……。所詮次男坊。捨て駒の一つです……」
ロジェは笑顔で自分を捨て駒と言ってのけた。その様子に、シエナは我知らず、深く眉根を寄せていた。
『駒』
貴族として生まれ、政略のただなかに生きるのであるから、誰もが知らず知らずのうちに、その役目を担うのは、悲しいが、当然なのかもしれない。けれど、笑って、自らを貶めるような言葉を使うロジェに、胸が軋みをあげる。
同情、かもしれない……同じく、父の『駒』として動かされてきた自分と、重ねた上で……。
「……わたしは、あなたを許しません」
シエナの言葉に、ロジェは笑みを深める。眼が醒めるほど澄んだ青い瞳は、艶やかさを帯び輝く。
「もちろんです。ですが、シエナ様も、私たち同様、駒の一つだということを忘れないようにしていただきたいですね。……杞憂に過ぎませんか?駒であることを意識しすぎたあまり、殿下のお気持ちを受け入れられなかった、あなたなのだから……」
ロジェの言葉に、再び眉を顰めてしまう。雲一つない青天の空の色をした瞳が、ひた、とシエナを捕えていた。
下唇をきりりと痛いほど噛みしめて、ともすれば、逸らしてしまいそうになる視線を縫い止めた。
『秋猟会へ共に行きましょう』
言った彼の瞳に浮かんでいたのは、躊躇いの色だった。
彼が真実、躊躇ったのは、シエナを討つ、ということ。
彼がシエナに与えた言葉、全てが偽りではなかったのかもしれない。
憎らしいほど、辛辣な言葉の影には、彼なりの優しさがある。
憎めばいい――と。
それを、読み取れるからこそ、心が軋む。
「曲者を二人、捕らえました」
背後から、近衛兵の声がかかる。安堵したかのように、小さく息をつき、ちらりと視線を送る。
「ありがとう。……恐らく隣国の装備を身に纏っているはずです。徹底的に、摸されているでしょうから、取り調べは慎重にね……」
「ははっ。本当に油断ならない人だ!全てお見通しなのですね」
乾いた笑い声を上げた、ロジェを、凍てつく視線が射抜く。
低い声音で、訣別の意をこめて、宣言を述べた。
「ロジェ・リヴィウス、あなたを拘束します」