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月下美人  作者: かしわ
11/22

10、幻想と蜃気楼 下

「シエナ様っ!無理をなされては困りますっ!!」

「ゲイル!下がりなさいと言っているでしょう!!なにも、王太子を取って食ったりしないわよっ!」

「シエナ様!お、お言葉がっ……」

「なに!?14の頃のわたしを知っているなら、これくらい許容範囲のはずよ!わたしは、ただ話をしに来ただけ、と言っているでしょ?」

先頭を切るシエナは、ほっそりとしたシンプルな白のドレスを身に纏い、風に長い髪を靡かせて、足音荒く、部屋へと踏み入れる。

見かけの麗しさとは真逆の、荒いとも言える言葉づかいと溢れるほどの怒気は、近年、シエナが見せたことのないものだった。

そのシエナを止めようとしてか、付き従うように、ゲイルが続いて姿を見せる。言葉ばかりは、シエナを留めようとするが、シエナの位を憚ってなのか、決してその腕に触れようとはしない。ただ周囲を、取り囲み、シエナを留める言葉だけを紡ぎ続けていた。

感じていた緊張感をものの見事に破り、入室してきた一団に、フェリオは、呆れたように息をつく。

「いったい何事だ……」

シエナの翡翠色の瞳が鋭く光る。

視線が持つ意外なほどの強さに、一瞬戦きながらも、懐かしい思いが心をかすめた。

出会った頃によく見せていた、荒々しい表情。

彼女の怒りを全身で感じるのに、久しぶりに見ることができた、シエナの素顔に、笑みがこぼれそうになった。こらえても、漏れてしまったフェリオの顔の緩みに、シエナはぴくりと眉をゆがめる。

「なにか、面白いことがあって?」

「いや……久々にシエナの顔を見れたな、と」

最後に交わした会話が、ずっとフェリオの心を摘んでいた。

思わず取ってしまった態度は、振り上げてしまった拳のように、下ろすべき場所が見当たらなかった。

冷静な気持ちで、シエナと向き合えるのか……

一度生じた小さな不安は、会えない時が伸びるほど、大きく膨らむ。シエナに会うことを恐れるほどに――

鼓動が、ゆっくりと、速度をあげる。

不安の影など、シエナの姿を一目見れば、跡形もなく消え去っていた。

なぜ、会わずにいられたのか

心を埋め尽くすのは、柔らかで、温かな感情。


言った言葉は、心からのものなのに、シエナの眉はますます疑わしげに、歪みを強めていた。

「……話があって来たの。でも、まず人払いをしてもらえる?」

隣に立つゲイルに視線を移せば、小さく首を横に振る。止めろ……か。

「ゲイル、下がれ」

「殿下っ!」

「しばらく周囲に人を集めるな。扉からも離れるように……命令だ」

フェリオに詰め寄ろうとしたゲイルが、紺色の瞳を捕らえた時点で、ぐっと体を止めた。気押されたように、言葉を飲み込み、作った握りこぶしに力を込める。ゲイルの視線がフェリオから逸れる。

「失礼いたします」

喉から絞り出すようにして、深く礼をした。連れだった兵に、声をかけて、退室してゆく。この間、ゲイルは決して、シエナを振り返ろうとはしなかった。




重く扉が閉じられる音とともに、静寂が室内に舞い降りた。

「で、ここまでして、わたしに会いに来たのは何ゆえだ?」

悪戯っぽく、口の端をあげて笑えば、不愉快そうにシエナは顔を歪めた。

「ご自分でおわかりでしょ?」

「まったく見当もつかないな」

真面目に取り合おうとしないフェリオに、大きく溜息を一つつく。

「……ここで、くだらないやり取りをする気はないの。端的に言うわ、なぜ、婚約を破棄しないの?」

「は?」

「昨日、イベルス家との婚約破棄が申し入れられたはずよ。知っているでしょ?それをあなたは一方的に反故にした。なぜ?」

静かにシエナは、ゲイルから聞いた事実を確認していく。

確かに、昨日、イベルスとの婚約を破棄する申し立が王家に対してなされたのだ。しかし、それは、フェリオの一方的な反対で、棄却されたという……。

その後、大臣や、貴族たちの抗議に耳も貸さずに、さっさっと議場を退室し、執務を理由に人を寄せ付けようとしない。

あまりにも横暴なやりように、シエナは言葉が見つからないほど、あきれ果ててしまった。

引きとめるゲイルを、振り切って、フェリオの執務室まで乗り込んだのは、その訳を聞くためだった。

聞かれた当の本人は、一瞬、何を問われたか理解できないように、きょとんとした表情を浮かべている。

「なぜ、と聞かれても……。わたしの妃になるのは、シエナなのだから……棄却も何も、申し立て自体がおかしいのだろ?」

至極当然だ、というように言ってのける相手に、シエナは瞳を大きく見開いてみせる。

反対に、フェリオの言葉が上手く理解できなかった。

「……当然では、ないのです……。本当に、わかってないの……?」

「何を?」

「……貴族たちが、わたしを下ろそうと策略を巡らしているのはご存知でしたでしょ?」

「あぁ。知ってはいたが、今に始まったことではないだろう?申し立ても、過去に何度かなされているはずだ……。……確かに、今回は、やたらと大臣たちが抗議をしてきたが……破棄など、ありえない話だ」

シエナの言葉を、いぶかしんでいるのだろう。フェリオの眉間には、懐疑的な溝が生じていた。

本当に、わかっていないのだろうか……

シエナにとって、フェリオとの婚約は先のない、刹那見える蜃気楼のようなものだった。

消えていくのが、当然とこちらが信じているものを、隣に立つ相手は、その幻を、現と捕らえていたのだろうか?

ありえない、一瞬の幻は、決して手を伸ばしても、掴めるはずもないものを……


フェリオの見つめる先にあったものが、シエナとは異なっていた。

それは、緩やかに、シエナの心を揺らし始めた。小さな動揺は、水面の波紋が広がるようにして、ゆっくりと、しかし、確実に心を埋め尽くす。

「……殿下、イベルスには、王家を支える力が、残っていないのです。わたしが王妃になっても、国にとって良いことなど、ありません。宰相の後ろ盾を失ったお父様に、力はないのだから。……それに……リヴィウス家がいらっしゃいます」

シエナには、なぜ、フェリオがこの状況を理解していないのかが信じられなかった。

今までの過程。夜会での出来事。交えたはずの口論。それらだけでは、彼はこの状況を理解できなかったのだろうか?

まさか、自らの口から、身の破滅の帳を開けるための言葉を紡がなくてはいけないなど、予期していなかった。

脳裏に、父の震える背中が浮かび、息苦しさを覚えても、言葉を止めることはなかった。

シエナの気持ちを感じ取れないのだろうか、フェリオは、純粋に疑問符を浮かべて、首を傾ける。

「なぜ、リヴィウスが出てくるのだ?」

「なぜ?あなたは自身が行動なされたからでしょう?なぜ……ここでそれをわたしに聞くのですか……」

聞きかえされた問いに、また、胸が痛む。

「……イレーネ様がいらっしゃるからです……」

フェリオの瞳に、訝り示す色が浮かんだ。

「イレーネが……?」

フェリオが彼女を呼び捨てにしたことに、つきりと胸が締め付けられる。それを無視して、言葉をつなげた。

「年の離れたわたしなどより、年齢の近いイレーネ様の方が王妃にふさわしいと……。それに、リヴィウス家の力を得ることができれば、他国との交渉を有利に進めることができます。イレーネ様自身の資質。リヴィウス卿のお力。あげる事項に事欠かないほど、リヴィウス家との縁談は、王家にとって有益なのです。それに……フェリオ殿下自身が、彼女をお目にかけていらしたでしょう?……書庫への優遇措置を与えて……」

新しく婚約者に据えられるであろう者を、排除される側の者が称することの奇妙さに、矛盾を感じながら、息つく間もなく言葉を並べたてた。唐突に、ずきり、と胸に激しい痛みが襲う。理由の分からぬ苦しさに、言葉を詰まらせてしまう。

我知らず、暖かな感触が頬をつたっていた。



シエナの独白を、フェリオは沈黙を守り、耳を傾けていた。

見つめていた、彼女の表情が一瞬揺らいだ。頬を一筋の雫がつたう。

「シエ、ナ?」

瞠目して、名を呼んでくるフェリオの姿に、シエナは自分の状況を悟らされた。頬へと手を伸ばせば、雫が指先を濡らす。理由の知らぬ涙に動揺しつつも、そのまま拭い去り、唇をきゅっと噛みしめた。

ここで、揺らいでは、いけないのだから――

「イレーネ様の方が、相応しい――」

「言うなっ!」

強い叱責が飛び、言葉を遮ってしまう。ビクリと体が震えた。

声を荒げたフェリオは、それきり、押し黙ってしまい、二人の間に横たわるほんの数歩の空間には、重い沈黙が下りていた。

静けさは、否応なしに、緊張感を煽りたてる。



床を叩く靴音が、静寂を破る。


二人の間に落ちた距離が、徐々に詰められていく。



フェリオの腕が、急に伸ばされた。

突然の動きに、驚き、身を引こうとするが、叶わず、右手を奪われてしまう。

捕らえられた右手はフェリオの口元に引き寄せられていく。唖然として、声を発することも、身を引くこともできずにいると、そのまま、押しつけるようにして、強く唇を押しあてられた。

触れられた箇所から、体温が急激に上昇していく。

ロジェから受けたときとは、まるで違う。

体中の血が急速に沸騰して、駆け巡り、どくどく、と心臓か暴れ出し、自分のコントロールから逃げだそうとする。

全身が、心臓になったように、脈打つのが感じられた。

長い、と感じた時間は、一瞬だったのかもしれない。

口元から離された掌は依然、フェリオの手の中におさまっていた。

「な、なにをするのです」

あげた声は、思ったように抗議の意図を示してはくれない。ただ、弱弱しく、空気に溶けていくだけ。

荒れ狂う心音は一向に治まる様子もなく、どくり、どくりと相手に聞こえるほど大きく響いてしまう。

あの時、温かいと思った小さな掌は、今は、熱された鉄のように熱く、シエナの手を覆い尽くしてしまう。

何とか、この熱から逃げだそうと、咄嗟に腕を引いた。しかし、握りしめられた掌は、ぴくりとも動かない。あきらめられず、そのまま力を加え続けていると、逆に、ぐっと腕を強い力で引かれた。

不意を突かれた、動きに、抵抗することができず、そのまま相手の胸の中に倒れんでしまう。

よろめき、ぶつかった胸板は、厚く、衝撃全てを吸収する。

幼い、と思い続けていた相手は、シエナの体を簡単に支えてしまうほど、大きく成長していた。子どもではない、とわかっていたはずなのに、感じとるフェリオの熱に、やけに胸が激しく震えた。

フェリオの腕が、シエナの動きを封じるようにして、後ろ手に回される。ぴたりと、寄せられた体から、鼓動の響きが伝わってしまうのではないか。その思いが、また体温を上昇させてしまう。

ぐっと、ひと際強く腕に力が込められた。

「わからぬのは、お前の方だ……。なぜ、わたしのもとから去ろうとするのだ?なぜ、リヴィウスの話をお前がする?

……わたしの側にいるのが、お前の役割だろう?言ったではないか、あの時に……人よりも、多く幸福を与えられる分、責任を負うのだ、と……」

フェリオの言葉は、耳を通してではなく、直接、体を通り、シエナの中に響く。ぞくり、と知らぬ感覚が背を伝っていった。

フェリオが何を言おうとしているのかが、シエナには全く予想出来ない。思考は熱で鈍り、上手く機能を果たしてくれなかった。

「わたしは、責務の代わりに、シエナを得たのだ……わたしの、幸福が……シエナなのだろう……?」

心構えも何もできず、告げられた言葉は、真っ直ぐに、シエナの心を打ち抜いていく。


足元の床は、こんなにも頼りなかっただろうか。水面の上に立つような、おぼつかなさで、ぐらぐらと揺れ、その場に立つことさえ、ままならない。

目に見えて、動揺する、シエナを、フェリオはその腕で、強く抱き止めた。

触れる、華奢な体は、ともすれば壊れてしまいそうだ。逃げないように、強く力を込めたい、という思いと、繊細なガラス細工のごとく、壊してしまうのではないか、という不安がせめぎ合う。

「殿下は……間違っておられます」

フェリオの腕に、シエナの細い指がかかった。小さく震えながらも、驚くほど強い力がこもる。

ゆらゆらと、陽炎のごとく揺れる瞳は、なにものも、捕らえていない。

「正気では、ありません……。で、殿下は、傍にいた者が離れて行くのが、惜しいだけ、です……。刷り込みのように、思いこまれているだけです……」

不安げに、呟かれた言葉は、フェリオに言われたものなのだろうか。しかし、それは、シエナ自身に言い聞かせているように思えた。

「シエナ、わたしが必要とするのは、お前だけだ」

彼女の言葉を否定して、強い声で、言う。

その言葉に、シエナは、びくっと体を震わせた。怯えたように、体を固くするのが伝わってくる。腕に乗せた手に、力をこめて、必死で、フェリオとの距離を取ろうともがく。それを、押さえて、強い力を込めて抱き返せば、今度は、首を左右に揺らして、拒否を示す。

「わたしでは、駄目なのです……。初めから、ずっと、ずっと決まっていたことです……」

「シエナ」

「なぜ、わからないの?わかってくれないの?どうして?……どうして、そんなことを言うの……」

幼い彼は、状況を正しく理解できていないのだ……。シエナでは、王妃になれないということ、周囲の者が認めるわけがないことを、フェリオは分かっていないのだ。


ぐるぐる、と胸に深く刻まれた論理が巡る。

「シエナ」

「やめてっ!!」

叫び声とともに、渾身の力をこめて放たれた、拳は、強くフェリオの胸を打ち、シエナの体を、その腕から解き放ってしまっていた。

衝撃のため、軽くせき込むフェリオの姿を、焦点の定まらない瞳で、シエナは眺めていた。

「シエナ……」

呼吸を整えた、フェリオが、かすれた声で、彼女の名を呼ぶ。届くはずの呼び掛けに、応える声は、聞こえてこない。

夜の訪れを告げる空の色をした、瞳が捕らえたのは、不安を露わにして、その場に立ち尽くすシエナの姿だった。

「シエナ」

名を呼べば、耳に届くその声を否定したいのか、ゆるゆる、と頭を左右に揺らす。その度に、共に揺られる、琥珀の髪が、きらきらと、輝きを放った。流れる生糸のようなその髪に、触れたい、と距離を詰めれば、その分、シエナは後ずさっていく。

気付けば、シエナの背に固いものが触れていた。後ろに回した手に、冷たいものが当たる。体を巡る熱との温度差に、はっと意識を引きもどされた。

金色に光る、花鳥のレリーフの刻まれた、ノブ。


腕が目前に迫る。


我知らず、ノブへと手が伸びていた。

倒れ込むようにして、開かれた扉の隙間に、身を滑り込ませる。


伸ばした腕は、むなしく空を切った。


「……信じて、くれ――」

フェリオがこぼした呟きに、応えるはずの彼女の姿は、蜃気楼のみせた幻のように、既にその場から、消え去っていた。



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