9、幻想と蜃気楼 上
『あなたの名は?』
問うた子どもの掌は、小さく、けれど、とても温かかった。
「お目覚めですか?」
天井へ届くほど大きな窓を覆っていたカーテンが開かれ、光が室内の闇を破って、溢れる。闇に慣れた目に、朝の日差しは容赦なく突き刺さった。眠りから目覚めたばかりの眼は、光を弾くように、瞬いている。
まだ夢と現の間を彷徨う思考は、先ほどまで、掌の中に合った温かみが、突然消えたことを正しく理解できない。白くほっそりとした自分の掌を、微かに残った、温もりのかけらを、思い出して眺めていた。
「シエナ様?いかがなさいました?」
いつもと異なるシエナの様子を侍女がいぶかしんで、声を掛ける。
それをきっかけにして、思考にかかった霞に、光が差し込み、瞬く間に晴れていく。光のともった瞳が静かに侍女の姿をとらえて、細められた。
「……いいえ、懐かしい、夢を見ました……」
上半身だけ起こした体を、ゆっくりと解して、目覚めの間隔を全身へ伝えていく。その間に、侍女がサイドテーブルに朝支度の用意を整えてくれる。ありがとう、と差し出された水差しを受け取り、小さく口をつけた。
ほっと、息をつくと、ギシリ、とマットを鳴らして寝台から体を起こした。
背に流れる、生糸のような琥珀色の髪をさらさら、と侍女が梳いてく。支度をゆるゆると整えているうちに、次第に思考がはっきりと形を持つ。
『どうするつもりなのだ!』
脳裏に浮かんだ声に、微苦笑が浮かんでしまう。
どうするつもりも、もはやないシエナに向けられた言葉は、苦笑で返すしか他がなかった。こうなったのは、ある意味シエナが仕組んだ、とも言えたから。
昨日早朝、届けられた知らせに、父は憤慨し、シエナは安堵の息をついた。
やっと、本当の意味で終わった――と
責めの言葉を吐き続ける父を、静かな微笑みでかわすシエナ。
対照的な二人の姿に、屋敷の者たちはおろおろと立ち尽くすばかりだった。
『わたくしを責めるのならば、ご自分の力量で対応なさればよろしいのでは?わたくしを、押し上げたのは紛れもないあなた自身なのでしょう?』
冷たく言い放ったシエナの言葉で、不毛な応酬は終わりを告げた。父親にその権限がないことを十分に理解した上での、突き放したような、冷ややかな言葉は、父の心を深くえぐったらしかった。
刹那、深く眉をひそめたと思えば、がくりと肩を落としてしまう。しおれた背から、彼が最後の希望を手放してしまったことが、はっきりと読み取れた。
あれでよかったのだ、と、あまりにも小さくなった父の背中を思い出して、自分に言い聞かせるように呟く。イベルス家がこれ以上王家に関わることは、国益にならないならば、出来る最大の貢献は、自ら身を引くことだ。
何度繰り返したか分からない論理は、深くシエナの心に根を下ろし、シエナの考えを支配する。それでも、父が見せた最後の寂寥が、切なく、胸に突き刺さる。
父を失望させたのは、シエナ自身だと、いう思いが、暗く心を覆っていく。
切り立った崖の端まで、導いたのは、王家であり、父自身でもあったはずだ。しかし、最後のひと押しをしたのは、紛れもなくシエナだ。
フェリオの傍にはいられない、と出会った時から心に決めたのは、シエナ。
イレーネがフェリオに近づくことを、知りながらも、手を打たなかったのも、シエナ。
どころか、後押しをするように、フェリオから距離を置き、ロジェとの噂を利用したのも、シエナ。
目前の鏡にうつる、翡翠色の瞳を見つめ、そこに燈る火が強まるのを、感じる。
ここで、揺らいではいけない。決めた道を進まなくてはならない。これが、わたしに与えられた『責任』なのだから……。
シンプルな礼服をしつらえてもらい、簡単に身なりを整えた後、シエナはやってくるであろう、王宮からの使者を、自室から臨むテラスで待っていた。
昨日、婚約破棄の申し入れがされたのなら、恐らく午後には、要求が受理された上で、婚約を破棄する決定がなされるはずだ。そうして、イレーネを新しい婚約者に上げるための準備が行われているだろう。
他の貴族の名も、ちらほら、と挙がっていたはずだが、この段階で、申し入れが行われたのなら、最有力候補はリヴィウス家に違いない……。フェリオとの関係から見ても、周囲が反対することは難しいと思われた。
テーブルに置かれた、カップから立ち上る心地よい香りに引かれて、手を伸ばす。口をつければ、バラの香りが広がり、微かな渋みを伴って、喉元を通り抜ける。
ふと、アリーが丁寧に入れてくれた紅茶と、比べて、少し物足りなさを感じる自分に気付かされ、思わず苦笑してしまう。もう、彼女が手ずから淹れた紅茶を飲むことはないだろう。
お別れを、言えなかったな……。
あぁ……でも、もしかすれば、婚約者の立場を離れたならば、正式に彼女を屋敷に招待することも可能かもしれない。一貴族の令嬢ならば、侍女として、行儀見習いに王宮へ遣られることもある。立場としては、同じといえるかも……。
少し、軽くなった肩の荷に、今までとは違う可能性を想像し、ともすれば沈みそうになる心を、明るい気持ちに傾けようとしていた。
「シエナ様……御昼食はいかが――」
「王宮からの使者は?」
「……ございません……」
日は既に空高く昇り、微かに薄らいだ日差しを、真上から降り注いでいる。注がれたカップが冷え切っても、一向に知らせが届く気配がない。
こつこつ、と爪が磨かれたテーブルの上をたたく音が鳴る。苛立ちを隠すことなく、整った眉をひそめた姿は、剣呑な雰囲気を漂わせ、周りに人を寄せ付けない。
昼食の時間を過ぎても、テラスから出てこようとしないシエナを心配した侍女の一人が、声をかけたのだが、シエナは『城からの使いがない』と耳に入れたきり、沈黙を続けてしまっていた。
大理石の彫刻のように、美しい指先を、唇に軽く当て、思案顔で、一点を凝視する。
声をかけた手前、シエナの指示なく、行動を取れない侍女は、手持無沙汰に、きょろきょろとあたりを見回すばかりだった。
と、静かな声が、投げかけられた。
その内容は、すんなりと、彼女の思考に浸透していかない。虚を突かれたかのように、瞼を激しく瞬かせ、声を詰まらせながら、シエナに問い返した。
「……申し訳ございません……今、なんと……?」
明らかに、動揺する侍女に、口元だけを緩めて、一段低い声音で告げた。
「……支度を。王宮へ参ります」
瞳に浮かぶ翡翠色は、これまでになく、深く、強い色合いを秘めていた。
執務室へと通じる道は、ただ一つ、長い廊下だけであった。万が一のことに備え、見通しの良い、長い一本道の廊下の先に、ぽつり、と重厚な木の扉がそびえる。それゆえに、外部の喧騒が、ここに届くことは、ほぼ皆無に等しかった。小鳥のさえずりや、虫の音、吹きすさぶ風の音、自然が奏でる音のみが、室内には届けられた。そして、時折、訪れる政務官などの足音が響く。
しかし、今、厚い扉の先から漏れ聞こえるのは、複数人の足音と、焦ったように荒げられた人の声だった。扉と真向いに位置する机に、坐したフェリオは、いぶかしんで、その柳眉をひそめる。
何事か――
と考える間に、その音たちは距離を確実に縮め、この場へと、近づきつつある。自然、警戒心が湧きあがり、佩刀した剣に手をかける。ゆっくりと席から立ち上がり、扉の先にいるであろう者に、鋭い視線を向けた。扉に彫られたレリーフの文様を睨みつけるようにし、相手が乗り込むのを、待ち構える。
ど、どん
強く、扉を叩かれた。ごくり、とのどが立てた音は、フェリオの耳にも届いていた。
「入れ」
固く、乾いた声に、返答はなく、その代わりに、扉がその重さを示す音を立てて、開かれる。
現れた者の姿に、フェリオは濃紺の瞳を大きく見開いた。