8.夜明けと万花
眼前にはとても数えきれないほどの妖怪が押し寄せていた。それはまるで妖怪たちの津波だ。迫ってくる物量の塊に、人は恐れ慄くしかできなくなる。
バンカは左右を見た。地方支部の二人はあまりの絶望に声も上げられないようだった。
自分は別に死んでも良いのだと豪語しながら、いざ死の気配が目の前に迫ると尻餅をついてしまうエリカ。
どんな時でも上官としての威厳を忘れないように身を引き締めていたが、どうしようもない状況下に自失してしまったボタン。
さすがのサカキも、眼前に広がる妖怪の量には目を見張っていた。
当然である。一度にこんな量の妖怪と戦ったことのある人間など、百鬼夜行が巻き起こった平安の世を除けばどこにもいないのだから。
「――憑依」
だがバンカは自分が英雄であることを忘れていなかった。
手を地面につき、五指を世界と重ね合わせる。それは希望を捨てぬための対話。英雄であらねばならない自分は、たとえ世界が闇に飲まれようとも最後まで戦わなくてはならない。
娘のために、これからもずっとそうあることを選んだのだと自分を説得した。
立ち上がる前、震える手がバンカの肩に触れた。その手は何かを躊躇うように一瞬離れ、しかし今度は強く肩を掴む。
「無理ですよ……」
ボタンの声だった。
「一度退却して、応援を呼ぶべきです……この量の妖怪が異界から現世に漏れれば、それこそ取り返しがつきません!!」
なるほどボタンらしい冷静な判断だ。背後に出口があったならば、それが最も正しい選択だろう。
しかしこの水面のような地面は、どこまでも続くスケートリンクのように、前後左右に広がっている。異界とは現世から乖離した場所。そこに『当たり前』の判断は持ち込めないのだ。
だからバンカは肩に置かれた手に構わず立ち上がった。身長差によってボタンの手は離れる。
「やめてください……! 死んだら、ご家族はどうするんですか!?」
バンカには妻が、そして娘がいる。彼女たちのためにはまだ、こんなところで死ぬことはできない。
「そうだね。僕は、ここでは死ねない」
しかし。
しかし、なのだ。
「けどね。――逃げることも、できないんだよ」
バンカは英雄だ。ハマサジの代わりに、そうあり続けることを決めた。
だからどんな状況でも立ち向かわなくてはならない。そうでなくては、ハマサジを巫術師にしなくてはならなくなる。
バンカが勝てない妖怪に勝てる人間は神と繋がることのできる神童だけだ。だからこそ自分は、何者にも負けることができない。
ハマサジの自由を奪わないことこそが、バンカの唯一の願いだから。
「知ってるかい? 僕はこれでも、『英雄』って呼ばれているんだ」
落ち着きの裏に潜むあまりの剣幕にボタンの喉が鳴った。誰も声を出せない。妖怪たちの足音がこちらへ近づいてくるのだけが聞こえる。
バンカはゆっくりと一歩を踏み出した。それを見て止められないことを確信し、ボタンは自分の不甲斐なさを悔やんだ。
「もしも君たちに戦意が戻ったらその時は、一緒に戦おう」
仲間達の返事は聞かない。ここで無理に戦うことを強いるつもりはなかった。
バンカはただ一点を見つめる。
眼前に広がる津波のうち、正面のただ一点を。
一度駆け出した足はもう止まることを知らない。その足が次に止まるのは敵を全て片付けた時なのだと言い聞かせる。
自分は英雄なのだと言い聞かせる。
言い聞かせる。言い聞かせて、自分を縛る。
「もう僕にとって、『英雄』は呪いじゃない」
そこにはかつてとは違う、穏やかな気持ちがあった。
英雄であらねばならないという思いが窮屈だった昔とは異なり、今はハマサジのためにそうあることを選んでいる。そもそもの心持ちが違う。それを選ぶのは義務ではなく、意志なのだ。
だからもう、かつてのバンカは愛によって救われていた。
「――石の巫術、『錬磨!!』
ベルトに固定した試験管のような道具のうちの一本に触れる。そこに仕込まれた石と対話し、精霊から力を借り受けた。
バンカの背後にはぶつかり合う石たちの中から三本の巨大な刀身が削り出される。鍔も柄もなく、茎が剥き出しになっているそれは、大木を一撃で両断するであろう鋭さを見せた。
バンカはそれを、鳳凰が片翼を広げるように構えると、次の瞬間には横なぎに振るう。
「――せ、あああああ!!」
草刈りのように、石の刀が妖怪の一団を両断した。
降り注ぐ血の雨。バンカは彼らに断末魔を上げることすら許さない。
続けざまに妖怪たちの草原を刈る。圧倒的な物量を相手取るには、休んでいる暇などなかった。
「風の巫術、『回扇』!」
三本の刀の茎に回転する空気の塊を付与する。こうすることで、擬似的に複合術式を編み出した。
石の刀は『回扇』の回転軌道に乗り、バンカの背を離れ、自動で妖怪を攻撃する。三本の回転する刃が、それぞれ単独に妖怪たちを薙いでいった。
これによりバンカ単身を含め戦力は四つ。妖怪の一団はみるみるうちに屠られていく。
しかし、まだ地平線を埋め尽くす妖怪たちを皆殺しにするには遠い。たった一人で百鬼夜行を相手取るのは、これだけの力を見せど無謀であった。
※※※
「なんなんですかぁ、アレぇ……」
本気のバンカを見た地方支部の二人はただ唖然としていた。向ける目は、妖怪を見つめるものと大差ない。それだけ目の前の巫術師は規格外の化け物に思えた。
「あんなのと戦おうと思う時点でまともじゃないですよぅ……それなのになんで、あんなになってまで戦えるんですかぁ!」
「意地だろうな」
サカキにはわかる。バンカには後がないのだと。
バンカが負けた時、彼の望みが潰えてしまうことを知っている。
それら全てをわかっていて、この地獄に連れてきたのがサカキ自身だから。
「あいつは貴様らと違い、負けることが許されない。英雄は敗北した時、たとえその命が残ったとしても死ぬんだ」
英雄に倒せない敵がいたという事実が残るだけで、ハマサジを巫術師にすべきだという意見は苛烈さを増すだろう。英雄の死とは、そういう意味での死だ。
バンカから英雄としての評価が失われた時、彼の望みは永劫に叶うことがなくなる。
だから彼は執念から負けられない。撤退することができない。
「でもそれでバンカさんが死んでしまったら、その方が娘さんにとっては辛いはずです!」
声を荒げるボタン。サカキは彼女を立派だと思った。彼女はバンカを止められなかった責任を背負おうとしている。
ともすればまだ説得を諦めていないのかもしれない。
サカキはバンカに続くように一歩、前に出た。それは方向こそ同じであれど、誰とも違う場所を目指して。
「――これとはまるで程度が違うが、前に任務で絶望的な状況に置かれたことがある」
サカキは鵺と戦った時のことを思い出していた。自分の人生において最も死に近い戦い。眼前の状況も地獄ではあるが、そこには英雄がいる。かつての状況に比べれば希望はあると信じていた。
サカキは当時の自分の判断を振り返る。
「俺は撤退を進言した部下の声を無視して妖怪に挑んだ。結果的にこうして生きて帰ったわけだが――」
「――――」
「――その時、部下は死んだ」
サカキはもう二度と、撤退しようという部下の進言を断れない。逃げたいなら逃げるべきだ。何よりも、命が大切なのだから。
「貴様らがどっちを選ぼうが、俺はその判断を尊重する。どちらを選ぶにしても生きろ。それが上官からの命令だ」
サカキにはサカキの目的がある。この百鬼夜行の先に現れる最強の妖怪をアザミに使役させねばならない。
無責任だが、そのための犠牲をこれ以上増やしたくはなかった。
「支配」
目の前の空間を掴み上げた。自分の目的を逃さないように。精霊と交わすのは対話ではなく指令。サカキはそれだけの信頼を、精霊達から勝ち取っていた。
その上で闇に堕ちる。たとえ自分の選択によって精霊たちから見放されるとしても、サカキは国のために更なる力を望む。
「腐の巫術、『廃濁』」
手のひらに一撃必殺の球体を生み出し、バンカに続いた。
一騎当千の戦場に入り込むと、すぐに英雄からのアクションがある。
「サカキ、来たか!」
「遅くなった。キリがないな、これは」
「わかってる、だからその術式を借り受けるよ」
「――――」
そうしてバンカはサカキの横を素通りしながら同時に、白い球体に手を翳す。
「風の巫術、『風穴』!」
バンカの『風穴』はかつてアスターが使用したものとは規模が大きく異なる様相を見せた。
端的に言えば、『廃濁』を視界にいるすべての妖怪に命中させたのだ。
「『風穴』は同じ空気に触れるすべての場所に術式を届ける。だが、これほどの規模で命中させるとはな」
「賞賛している暇はないよ。まだまだ、敵はたくさんいるんだからね」
話しながらバンカは次の術式を練っていた。サカキもそれに続く。精度はともかく、範囲攻撃を連続させるべきだ。
二人は互いの背を重ね合い、共闘の姿勢を見せる。無意識にとったその行動が、サカキの中に情を生んだ。
「バンカ、仮に撃ち漏らしても心配はない」
「どういうことだ」
「外に、俺の呼んだ応援部隊が控えているからな」
それを伝えることで、少しでもバンカの肩の荷を下ろしてやりたくなったのかもしれない。自分はこれから彼の幸せを奪うというのに。
悪者になりきれない自分の無様さに反吐が出るような思いを抱えながら、サカキは次の術式を唱える。
「混の巫術、『毒霧』」
両手を横に広げ、指先から毒霧を噴射する。煙と毒の複合術式は選んだ対象の動きを止め、場合によっては死に至らしめる。
まずはその神経毒を可能な限り散布し、妖怪たちの足を止めにかかった。
行列は次々に瓦解する。毒を吸い込んだ前列が倒れ、それに躓いた後列も毒を吸い、やがて死体の山が出来上がっていく。
サカキ自身が走り回ることで毒霧が広がる速度も早まり、終わりの見えない百鬼夜行の終焉を手繰り寄せる。
だが、所詮は多対一の状況。無傷であり続けることなどできない。妖怪からの攻撃を幾度も喰らい、やがてサカキは殴り飛ばされた。
同じようにバンカも宙を舞っている。二人ともすでにボロボロではあった。心が諦めていなくとも、身体はいずれ言うことを聞かなくなる。
バンカは倒れる前に地の巫術を発動した。妖怪の行列の中に台風の目を作るように、バンカとサカキを囲う円形の壁を作り出したのだ。
「地の巫術、『守り土』……!」
それを唱えた後バンカは倒れ、荒い呼吸を繰り返していた。
身体中至る所に見える傷や痣、脇腹からの出血、とても戦える状態ではない。だがそれはサカキも同じこと。
倒れた時に行列に踏みつけられ、至る所に裂傷や打撲がある。
「終わりが、見えないな……」
「わかっていたことだが、絶望的だ。この状況は」
こうして一時休息の時間をとったところで再び戦場に戻ればじきに敗北するだろう。意地でどうにかなる問題ではないのだ。
英雄は地に落ちる。ハマサジを巫術師として完成させることが求められてしまう。
「英雄であることを強制されるのは、僕だけで良い」
バンカはゆっくりと上体を起こす。それだけで脇腹は激痛が走るだろうに、すべては意地と根性で成し遂げている。
「巫術師になることを強制されるのは、サクラやユリグルマたちが最後で良い」
フラフラと立ち上がる。段々と『守り土』の術式による壁も耐久限界を迎えていた。妖怪達が壁に激突することによる衝撃で破壊されようとしているのだ。
「みんな、自由に生きる権利がある。その上でこの国を少しでも良くできるように、手を取り合うことができたら良いんだ」
壁が崩壊する。
妖怪達は我先に前進しようと台風の目になだれ込んできた。彼らが目指すのが現世であるならば、そこには英雄が立ち塞がる。
絶対の壁として。
「そんなのは、理想論だ」
起き上がるサカキ。こぼしたのは、悔しさゆえに。自分一人ではその理想に届かないから歪んでしまった。
なんと眩しい姿だろう。これが英雄だ。
眩いほどに、理想を信じている。
すべての人間はそんなに美しい心を持ち合わせていない。
「構わない」
バンカはサカキの言葉を一蹴し、同時に辺り一帯を吹き飛ばした。初歩的な風の巫術。一番最初に習うような、名前すらない術式。
だがそれも英雄が放てばこれほどの爆発に変わる。圧倒的な力を望むサカキからすれば羨ましいまでの暴力だった。
「たとえその未来を望むことが無謀だとしても、誰かがやろうとしなければ可能性はゼロのままだ」
バンカとサカキは互いに未来を憂いていた。彼らは同じように明るい未来を求める。しかしそのための手段は同じではなかった。
それは見据えた理想郷が異なるものであったからだ。
人と人とが手を取り合う世界。サカキはそれが幻想でしかないことを三十年の人生で結論付けた。
大衆は変わらない。いくら言葉を投げかけようが、心打たれた人間ですら寝て起きたら元通りだ。世界は、個人に変えられるほどちっぽけではない。
ではそんな大きすぎる世界を変えるにはどうすれば良いのか。その方法こそ、力を手に入れることだった。
サカキには力が必要だった。世界を丸ごと変えられるほどに大きな力が。そしてより良い方向へと辿り着けるなら、他の何でも犠牲にしてやろうと思った。
一パーセントの可能性に何の意味がある。それはゼロと大差ない。それに縋り付くというのは、諦めていることに等しい。
結果が必要なのだ。百パーセント明るい未来を手繰り寄せることのできる力が必要なのだ。
だからサカキは、――そのために英雄を殺す。
百パーセントを得るための犠牲に、親友を巻き込む。
「百鬼夜行絵巻は、深夜に鬼や妖怪達が行進する姿を描いた巻物だ」
「それが、何だ」
「妖怪達はなぜ、そんなことをするんだろうな」
目の前に広がるのはまさに絵巻の中の世界。空想が現実になっている。ここは百鬼夜行の異界。だがこの世界のヌシは、彼らではないというのか。
「答えは、ひとつだ」
「――――」
「逃げているんだよ、彼らは」
妖怪達の群れが全速力で行進する。それらを風の巫術で相手取りながら、同時にバンカは何か強大な気配を感じ取った。
百鬼夜行の行列の向こう。水平線の彼方にひとつだけぽつんと、鳥居がある。そのさらに向こうから、何かが迫っていた。
「――夜明けが来る」
「あれは、なんだ」
「それは最強の妖怪」
「何が、来ているんだ……!?」
朝日が昇るように。
巨大な、真っ黒の球体が暗闇の世界に現れた。
それには金環日食のように眩い光が見える。
「空亡」
そう呼ばれた何かは、彼方に逃げ惑う妖怪達を『喰っていた』。
百鬼夜行は夜明けから逃げている。夜明けという、あまりにも強大な妖怪から。




