7.異界と百鬼夜行
ほとんど無限に立ち並ぶ鳥居を実際に目にしてバンカは息を飲んだ。映像からは伝わってこなかった瘴気の濃さが嫌でもわかる。思わず目を細めてしまうほどに淀んだ空気は、この先が立ち入り禁止であることを示しているようだった。
瘴気とは妖怪たちが発する独特の匂いのようなものだ。臭いかといえばそんなことはない。鼻が曲がるようなこともない。しかし身体に良いものではないということだけはわかるのだった。
ゴキブリを気持ち悪いと思う感覚に似ている。その空気に触れるだけでぞわぞわと身の毛がよだつのだ。身体が脳に向かってこれ以上近づくなと警笛を鳴らすように。
しかしその警笛に耳を塞いで、バンカは鳥居のど真ん中へ踏み込んだ。
「やはり鳥居が境界だ。ここから先は瘴気の濃さが違う」
「今まで観測された異界とはレベルが違うということか」
背後のサカキは顎に手を当てている。
そもそも今までに観測された異界は境界をればすぐに景色が切り替わり、妖怪の住処へと転移する。こんな鳥居のトンネルのように瘴気の満ちた空間など存在しない。
よって考えられるのはやはり――。
「強大な敵が、中にいるのだろうな」
サカキは鳥居の奥を睨んだ。その先は暗闇だ。カメラでも記録することのできない、瘴気の満ちた空間。
まるで食虫植物が獲物を誘い込むように見えた。こんな淀んだ空気に誘われる獲物はおそらく、間抜けしかいないだろうが。
「司令に見せられた映像では、突入した部隊員に精神汚染の傾向が見られた。おそらく瘴気を吸いすぎたせいだろう」
この場所を調査していた関西支部のエリカとボタンは映像の最後、言い合いから殺し合いへと発展していた。瘴気の影響で精神に異常をきたす例は以前文献で読んだことがある。そのため、バンカは事前に風の巫術を唱えていた。
「風の巫術『回扇』。まぁ、さっき適当に対話して作った術式だから出来は期待しないでくれ」
「全く、器用な男だ。空気清浄機の要領で俺たちの歩く空間だけ常に綺麗な空気を循環させているというわけか」
そもそも普通の巫術師は普段の鍛錬で長い時間精霊と対話し、術式の許可を得る。さっき適当に作ったなどという芸当ができるのはこの世にバンカしかいない。
「回転する風の塊を五つ、僕らの周りを巡回させている。これで瘴気の影響は防げるはずだ」
バンカの巫術によって濃密な瘴気は近づけないようになっている。常にクリーンな空気を保つことができるため、精神汚染にかかることはないだろう。二人はさらに奥へと迷いなく進んでいった。
やがてしばらく歩くと、道に倒れている人影が目に入る。バンカはサカキと目を見合わせ、警戒しながら駆け寄った。
「大丈夫かい?」
人影は離れた場所に一人ずつ。エリカとボタンの二人だった。呼びかけても返事はなかったが、胸が上下していることからまだ息があることはわかる。
どうやら二人は運が良かった。殺し合いに発展した後、どちらかがとどめを刺すより先に瘴気の影響で意識を失ったのだ。
二人とも大怪我をしてはいるが、命に別状はなかった。
「瘴気をかなり取り込んでいるな。だが呼吸が止まっているわけではない。『回扇』によって清浄な空気が保たれるこの空間にいれば、時期に目を覚ますだろう」
「そうだね。二人が目覚めるまでの間、僕らも少し休憩をしようか」
エリカとボタンを近くで寝かせると、バンカは鳥居を背もたれにして座った。ベルトの後ろに装着してあった道具をすべて取り出す。それらは頑丈な素材で出来た試験管のような見た目をしていて、中に精霊を媒介するための色々なものが入っているのだ。
ひとつひとつの精霊と今のうちに改めて対話しておき、強敵に備える。ふとサカキの方を見れば同じように道具の手入れをしながら、片手間にスマホを操作していた。
確かにこの場所は秘境ではあるがギリギリ電波が入る。横で寝ている二人の調査映像も中央支部に送られていた。なるほど、強敵と戦う前に誰かと連絡をとっているのだろう。
バンカもスマホを取り出し、連絡先からサクラを探した。現在時刻を見れば夜の十二時。もうハマサジを寝かしつけて、サクラ自身も寝る頃だろう。
メッセージを入力する。だが気付けば遺言のような言葉をつらつらと書き並べており、読み返して、これはとても送信できないと思った。
お別れはもう済ませてある。バンカはそのことを思い出すと、メッセージの入力をやめてスマホの電源を落とした。
※※※
女性の声が聞こえた。目を開くと、隣に寝かせておいたボタンが目を覚ましていた。
ボタンはしばらくぼうっとした目でこちらを見ている。まだ何が起こったのかわかっていないのだろう。バンカの方から説明することにした。
「目を覚ましたんだね、良かった。ここは……」
「天国ですか? 天国ですよね」
「……違うけど」
どうやらボタンはまだ意識が混濁しているらしい。バンカから視線を移し空を眺めると、うわ言のように喋り出した。
「だって、バンカさんがこんなところにいるわけないじゃないですか。私は死んだんだ。じゃないとバンカさんになんて会えるわけない……」
「サカキ、何を言ってるんだろうこの子は」
「お前がアイドルにでも見えているんだろうな」
助けを求めるようにサカキを見ると、彼はこの状況を面白がっていた。笑いを堪えるように目を逸らし、武装の手入れを続ける。バンカは初めて役に立たない同期だと思った。
「……まぁ、目を覚ましたなら良かった。自分の名前は覚えているかい?」
「は、はい。関西支部、調査班のボタンです……」
段々と意識も明瞭になってきたらしい。ボタンはゆっくりと身体を起こした。
バンカはもう一人、エリカは様子を確認しようと立ち上がる。その時の微かな振動や音がきっかけになったらしく、彼女から「う、うん」とくぐもった声が聞こえた。
「――エリカ!」
まだ少し呆けていたボタンだったが、部下が目覚めたことで完全に我に帰る。エリカの両肩を抱きしめて、心底安堵したというように深く息を吐いた。
「良かった、殺してしまうかと思った……」
「んん。大丈夫ですよぉ、わたしだってそれなりの巫術師ですしぃ」
エリカは自分の頭を押さえつつ、ゆっくりと上体を起こす。そうして状況確認のために周りを見回し、バンカとサカキの姿を確認した。
「あ。もしかしてぇ、エリカのことを助けてくださったんですかぁ……?」
途端に声のトーンが上がり、一秒前に聞いたセリフとはオクターブの異なる猫撫で声でエリカはお礼を言った。その耳障りな声質が男女両方に何とも言えない嫌悪感を与える。
「ふえぇ。エリカ、もぅダメかと思いましたぁ……」
「あ、ああ。そうか……」
バンカはまたも頭を押さえる。地方支部には変人しかいないのかと呆れた。
そんなバンカの態度をどう受け取ったのかボタンは余計に責任感に駆られたようで、エリカの頭にチョップを食らわす。
「コラ、エリカ! 上官の前だぞ!? しかも、それにもよってあのバンカさんの前で何という態度を取るんだ!」
「君も大概だよ」
言いつつも、二人が無事で何よりだと思うことにした。
とりあえず応急処置と休憩のおかげで二人も歩ける程度には回復したようだった。二人だけ先に帰投させる選択肢もあったが、二人だけでは瘴気を防げないことやここまででかなり時間が経ってしまったことからこのまま先に進むことになった。
何より、ボタンからの強い申請があったというのが最も大きな判断材料ではあるが。
「ば、バンカさん! あの、任務ご一緒できて光栄です! お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
「大丈夫だよ。こんな場所なら無理もない」
「すごいですね、この風の巫術。参考になります」
ボタンはどうやらバンカのことを尊敬しているらしかった。それほど有名な立場だという自覚はなかったために、自分にもファンがいるという事実はなんとも気恥ずかしい気分だった。
後ろではエリカがサカキに猛アタックしている。ボタンによれば、誰でもいいから彼氏が欲しいのだそうだ。鬱陶しそうに睨む上官にめげずにくっついていく姿勢はある意味で尊敬できた。
そんな和やかな雰囲気で異界の攻略は進んでいく。
いつの間にかバンカの苛立ちも少しはマシになり、リラックスした状態で戦いに臨めそうだった。そういう意味では、地方支部の二人が見せた緊張感の無さにも意味があったのだろう。
そうして心地良い雰囲気に呑まれていたからこそ、その一瞬の変化に反応するのが遅れた。
歩いている途中にパッと目の前が暗闇に包まれたかと思うと、いつの間にか一行はどこともしれない開けた場所にいる。
無限の鳥居は彼方に、自分たちの現在地すら把握できなかった。
だがバンカにはわかる。ここが真に、『異界』なのだと。
妖怪たちの住まう場所。現世から離れた、全く異なる世界に招かれたのだと。
「バンカさん……!?」
「離れるんじゃない。全員、固まって周囲を警戒!」
バンカは冷静を保ちつつ全員に指示を出す。左右の確認は地方支部の二人に、後方はサカキ、前方はバンカが確認した。
足元は全て水でできている。しかしどういうことか沈むことはなく、普通の地面と全く変わらない感覚で立っていることが可能だった。水面はずっと先まで続いており、視界の端には水平線が見える。
時間帯が夜だからなのか、空は暗い。星はなく、光源になるようなものはどこにも存在しなかった。にも関わらずお互いの姿がしっかりと見えるのはここが異界であり、普通の物理法則が適用されない証明なのだろう。
「サカキ、後ろはどうだい?」
「帰る道はない。どうやらヌシの妖怪を倒さないと、現実には戻れなさそうだな」
「そんなぁ。エリカたち、死んぢゃうんですかぁ?」
「貴様は黙れ」
だが肝心の妖怪はどこにも見えない。時々、異界の中にも妖怪がいない異界もあるようだが、まさかそのパターンということはないだろう。
その時、ボタンが真剣な調子で言った。
「何か、揺れてませんか?」
「揺れ?」
言われて、一同は自分の感覚を研ぎ澄ませる。足裏に意識を集中し、ボタンの気付きに関する事実確認を行った。
そうして微かに揺れていることがわかると、バンカは前方に向けて目を凝らす。揺れはそちらから来ているものと直感で感じたのだ。
そうしてバンカは水平線上に蠢く影を目にする。それまでは空の黒と同化しており、よく見えていなかったものが見えたのだ。
「――嘘だろ」
前方。およそ、見渡す限り。
数万という規模の妖怪が、津波のように押し寄せてきていた。
ボタンが気付いた揺れとは、彼らが走ってくる振動だったのだ。




