6.過去と今
仕事を終えて家に帰る。バンカの家は一般的な日本家屋で、入り口は引き戸になっている。その取っ手に触れた時、一瞬だけドアを開けるのを躊躇う間があった。
しかし短く息を吐くと、諦めたように帰宅し「ただいま」と家族に帰ったことを知らせる。
すぐに娘のハマサジがこちらへ走ってくる音が聞こえた。
バンカは彼女に背を向けて革靴を脱いだ後、そのまま意味もなく手入れを始めた。靴磨きの道具は玄関に置いてあったので、それを手に取って汚れを拭き取る。多くの戦闘を乗り越えた相棒とも言える革靴は、手入れをしばらくサボっている内に思った以上に汚れてしまっていた。
ハマサジはそれを最初は黙って見つめていたものの、段々と焦れたように「うう」と唸る。なにか、バンカの仕事中にやっていたことを報告したいのだろう。
やがて手入れが終わるまですら待ちきれず、ハマサジは言った。
「お父さん、聞いて!」
彼女の口からは歌が続いた。有名な童謡、さくらさくらだ。たどたどしく愛らしい歌声だが、本人は真剣に歌っている。
ふと妻のサクラが昔、子どもが欲しいという話になった時にこのさくらさくらを歌わせたいと言っていたことを思い出した。
自分の名前がついた童謡。これを歌ってもらうことで子どもと一層親密になりたかったのだろう。
サクラの願いは叶ったりと言ったところだ。ハマサジはこんなにも真剣に、母親の名前が付いた童謡を歌いあげているのだから。
靴の手入れを終えたバンカは、その頭を優しく撫でた。我が子の愛おしさを噛み締めて、その大切な存在を心に刻む。ゆっくりと撫でながら歌のことを褒めた。
「上手じゃないか。将来は歌手さんかな?」
「歌手さん! わたし、歌手さんになる!」
ハマサジは嬉しそうに目を輝かせ、上目遣いにこちらを見た。
まだ社会の荒波も巫術師のしがらみも知らない純粋な瞳。そこに将来への不安などは微塵もない。だからバンカはまだ、この子には楽しいことだけを知っていて欲しいと思う。
「ハマサジ。明日、家族で遊園地に行かないかい?」
「遊園地!? ほんと!?」
唐突の提案。帰宅途中に思いつき、今の今までそれを話すか悩んでいた。悩んでいたのはバンカの弱さが理由だった。
遊園地など子どもが喜ばないはずもない。みるみる内に明るい表情に変わり、リビングにいるサクラへ報告をしに向かって行った。
その後を追ってリビングへ向かう。きっとサクラはすぐに気付かなかったとしても、明日にはバンカの意図を察してしまうだろう。
それまでの、束の間の平穏を抱きしめるように。
「今だけは――」
今だけはありきたりな日常をくださいと、神に願うのだった。
※※※
選んだのは海外のキャラクターがモチーフになった遊園地だった。様々なアニメ映画を題材にし、それぞれにちなんだアトラクションが作られている。よって客は映画の世界を訪れたような錯覚を覚えるのだ。
例に漏れず、まだ小さな子どもであるハマサジは大喜びしていた。キャラクターの着ぐるみを見つけては走っていき、抱きしめたり一緒に写真を撮ったりしている。
「子どもは元気だなぁ」
「あら、もう疲れちゃった?」
「いや、そんなことはないけど」
バンカはハマサジが見える距離のベンチに腰掛け、着ぐるみと戯れる我が子を見つめる。歳をとったような姿をサクラは笑った。
「……ここに来るのは付き合ってた頃以来だっけ?」
「うん、そうだね。結婚してからは来てなかったかな」
「そっか、道理で久しぶりだと思った」
サクラも隣に座り、懐かしそうに目を細めた。昔を思い出しているのだろう。確かに自分たちには色々なことがあった。
辛いことも、悲しいことも。
だけど今が幸せならそれで良いのだと、サクラはそういう目をしていた。
それがバンカには胸の痛みとして突き刺さるのだった。
「ね、覚えてる?」
サクラは膝に肘をつき、両手を顎に当てて我が子を見つめたまま言った。「何を?」の意味でバンカは視線だけ彼女に向ける。
「私ずっと、死にたいって思ってた」
サクラはハマサジを見つめながら、そこに自分の幼い頃を見ている。自分がハマサジと変わらなかった頃から、サクラは家の方針で巫術師としての厳しい鍛錬を強制されていた。
そして青春も、家族愛も、何もかもを置き去りにして鍛錬を続けた先にあったのは、自分には何もないのだという虚無感だった。
妖怪に敗れ戦死した兄。訃報を聞いて恐怖した次兄は家を飛び出し、今でも連絡はつかない。二人の息子を失った父の、立派な巫術師を育て上げなくてはならないという責任感はサクラに向く。
そうして静かに、ゆっくりとサクラは絶望し、巫術に対する深い憎悪を抱いた。ゆえに彼女からは永遠に巫術師の才覚が失われる。
精霊は澄んだ心の持ち主にこそ対話を許す。誰かを守りたい、国を良くしたい、そういったプラスの考え方が根底になくては強力な巫術を扱うことは許可されないのだ。
「貴方に助けられたあの時でさえ、私は助けてくれなくて良かったのにって思った」
まともに巫術を使えないサクラが戦場に立ったところで、戦力になどならない。そうして彼女が妖怪に命を奪われそうになっていた時、バンカと出会った。
自分の命がそこで終わらなかったことにサクラは初め、大きな憤りを覚えた。
「何で助けたのよ、なんて言ったよね。今思えば、最低な女だった」
けれどバンカはそんな彼女を見捨てなかった。彼はサクラの命を救った後も「助ける」と言い続けて、ずっと寄り添ってくれた。
だからサクラは彼の存在を受け入れることにした。彼の好意を、サクラが心から笑えるように尽くしてくれる思いやりを拒もうとするのをやめた。
「一目惚れ、なんだっけ? おかしいよ」
「おかしくなんてないさ」
ちらとこちらを見て、照れ臭そうに微笑んだサクラ。からかうような意味もあったようだが、バンカは堂々としていた。
「君は僕に似ていた。考え方や価値観は違ったけど、同じ理由で、同じように絶望していたんだ」
「貴方もそういう風に思うのよね、意外だった」
「そうかな。僕は、実は結構弱いよ」
バンカは手を組み、足元に視線を移した。サクラのように過去を振り返る。子どもらしい、幼稚な反抗心を絶望と呼ぶのは笑いがこみ上げるが、それでもバンカは思う。
かつて自分はサクラと同じように絶望していたのだと。
「僕には巫術の才能があった。幼い頃から、大人よりも上手く妖怪と戦えた」
今度はサクラが黙ってこちらを見つめる。バンカは視線をハマサジと地面とでゆっくりと往復させながら、過去を回想した。
「誰もが囃し立てて言った。僕のことを、英雄だと」
英雄。ヒーロー。正義の味方。表現はどれでも良い。つまりバンカは、誰かを助ける存在として戦うことを求められた。
やっぱり彼はすごい。彼が来ればもう心配ない。そんな言葉が、バンカが英雄であり続けることを強制させる。
「僕は英雄にならなくちゃいけなかった。正義の味方として、人々を守らなくちゃいけなかったんだ」
そうして生きるうちに気付くのだ。『自分』はどこにあるのだろうと。
求められる姿を演じ、多くを救い続ける虚像。それはいつしか心のすべてを覆い隠して、バンカは本心を失った。
機械のように人を助け、摩耗する心に蓋をし、英雄であり続けようとする男。それがかつてのバンカだった。
「君に出会った時、僕はそこに自分の本心を見た。きっと本当は僕も、君のように絶望しているんだろうと思った」
実際どうだったのかを知る術はない。精霊に嫌われないよう自分すら騙して繕った心が本当は何を叫んでいたのかなど、もはや誰にもわからない。
「だから僕は君を救うことで、僕自身を救おうとした」
目前に迫った終わりに幸せすら感じているサクラの姿がひどく切なく、しかし場違いにもその儚い笑顔に美しさを感じた。それは端的に言って、一目惚れだったのだ。
彼女の命であればきっと失われた本心、心の底から救うことができるのだと信じて。
「僕は今でも、君とこうなれたのは運命だと思ってるよ」
「はは、運命か。なんか照れ臭いよ、それ」
取り戻した『本心』から、想いを伝える。サクラは照れ笑いを浮かべながら、ハマサジの方へと視線を逸らした。
「ねぇ」
「うん」
「私、もう、充分救われたよ」
「……なら、良かった」
「だから――」
ハマサジを見つめていた瞳を、その時だけこちらに向けた。そこには強い意志が宿っている。母親としての、強い意志が。
「――今貴方が守らなくちゃいけないものを、間違えないでね」
「――――」
何を思ってサクラはそんなことを言ったのかと、バンカは一瞬戸惑った。そのせいで返事が遅れる。何も言わないバンカにサクラは笑って、ベンチを立った。
彼女は軽く伸びをしてからハマサジの方へ歩いていく。その背中を見つめながら、バンカはようやく気付いた。
「バレてた、ってわけか」
これから取り掛かる、命の危険がある特務。万が一のためにひとつでも家族の思い出を作ろうと思って、バンカは今日の外出を提案した。
それこそがバンカの弱さだった。
サクラは見抜いていたのだろう。少なくとも、バンカに命の危険が差し迫っていることにくらいは気付いていたのだ。
だからバンカが覚悟を決められるように、激励として言葉をくれた。
バンカが今、守らなくちゃいけないもの。
「――ハマサジ」
着ぐるみと一緒に写真を撮る娘を見つめながら、一人の男はひっそりと心を沈ませた。
機械だった頃のように。しかしかつてのように本心を遮るのではなく、サクラを救った時と同じような使命感を胸に抱く。
ハマサジとサクラがこちらに向かってくる頃には、すでに心は決まっていた。
※※※
帰りの車。遊園地を出るまではまだ帰りたくないと駄々をこねていたハマサジも、お土産のぬいぐるみを抱きしめて満足そうにしていた。
高速道路を飛ばしながら運転するバンカはバックミラー越しにそんな娘の姿を見て、ふっと笑う。
「そんなに気に入ったのかい?」
「うん、気に入った! ラフィちゃん!」
ハマサジはうさぎの形をしたぬいぐるみの頭を撫でては笑顔を浮かべている。そんな我が子を微笑ましく思い、買ってあげて良かったと感じた。
「せっかくお父さんが買ってくれたんだから、大切にしなきゃね」
「大切にするもーん!」
助手席のサクラもバンカと同じような表情だった。親とは必然的にこうなるものなのだろう。
ぬいぐるみを抱くハマサジはまるで、親にでもなったようだった。親が娘を抱きしめるのと同じように、ハマサジはぬいぐるみを抱きしめている。
そこにはきっと、我が子を思う心と同様の気持ちがあるのだろう。たとえ相手がぬいぐるみだとしてもそこに心が宿っているようなつもりで、幸せになって欲しいと思うはずだ。
だからバンカは自分の娘に言うのだ。
「ハマサジ、幸せになるんだよ」
「――――」
隣でサクラが一瞬、息を呑んだ。死にに行くようなセリフが嫌だったのだろう。わかっていてそれでも言ったのは、伝えておきたかったからだった。
「夢を持つんだ。なりたいものを目指して、きっと幸せになるんだよ」
「うん?」
いきなり振った話題がよくわからなかったのだろう。肯定はしたが、わかってはいなさそうに疑問符が浮かんでいる。だけどそれでも良い。バンカの伝えたいことは、伝えられた。
「――ほら。お父さんが歌手さんとか、画家さんとか、ハマサジのなりたいものになりなさいって言ってるよ」
どうしてそんなことを言うのかと怪訝そうな顔をしていたサクラではあったが、よくわかっていなさそうな娘のために付け足しをする。それでハマサジもピンときたらしく、元気に「わかった!」と声を上げた。
「じゃあわたし、お父さんと同じお仕事する!」
「――――」
「そしたらお父さん、幸せになれる?」
「――それは」
振り返ってハマサジの方を向いていたサクラの表情が曇る。そしてバンカの反応を伺うように視線を動かした。
サクラの態度に、子どもながらまずいことを言っただろうかと不安がるハマサジ。何もまずいことはない。自分たちが思っていたよりもずっと、彼女は優しい子に育っているのだと知った。
だからバンカの顔に浮かんだのは穏やかな笑みだった。確かに巫術師にはなって欲しくない。命の危険がある仕事に携わって欲しい親がどこにいるのか。
しかしそれでも、親と一緒に働きたいと言われて嬉しくない父親もまた、どこにもいないのだ。
「ハマサジ」
「う、うん……」
「僕の仕事はね。みんなの命を、守ることなんだ」
「みんなの、命を……」
「だから君もいつか、みんなの命を守れるようになるんだよ」
ハマサジはきっと、自分のようにはならない。
英雄。ヒーロー。正義の味方。それであるために自分自身を抑え込み、仮面を被り続けるような人間にはならない。
ハマサジはきっと心から、人々のことを守る英雄になれるだろう。たとえ巫術師になったとしても、彼女は絶望することなく奔走できるはずだ。
だから余計に巫術師にはさせられない。
バンカが押し付けられたような、余りにも危険な特務を彼女にやらせるわけにはいかなかった。
「――それまでは、僕がみんなを守る」
ハンドルを握る手に力が入っていることにバンカは気付かない。少しだけ強まる握力に素材のウレタンが軋み、わずかに音が鳴った。
サクラは何も言わない。バンカの覚悟に気付いたために、言葉を伏せた。
家に着く頃にはハマサジは寝てしまっていた。ゆっくりとガレージに駐車し、起こさないようにおんぶして帰宅する。
ハマサジはすぐに寝室に寝かせた。ぬいぐるみを手放す様子はなかったので、寂しくないように同じ布団に入れておいた。
サクラは先に風呂に入っているようだ。今のうちに支度を済ませようと、バンカは自分の部屋に向かった。
私服を脱ぎ、着替えるのは着なれたスーツ。いつも仕事に使うありきたりな黒のセットアップだった。
ベルトの後ろには普段は何も持たないが、今回は精霊を媒介するための様々なアイテムを装着する。
そして左腕には最も気に入っている時計をつけた。中央支部への配属が決まった時に思い切って一括で購入した高級時計だ。
最後にネクタイを締める。色は、敢えて黒を選んだ。喪服は死者を弔うために着るもの。これを選ぶことはすなわち敵を殺し、バンカがそれを弔うという意味を持つ。
単なる願掛けだ。普通に考えたら不謹慎でしかない。だけど少しでも自分の生存率を上げるために、こういったことも必要だと思った。
まだリビングからは物音がしない。きっとサクラは風呂を上がっていないのだ。
ならば今のうちに家を出てしまおうと、玄関へ向かった。
「――――」
「やっぱり、行くのね」
どうやらサクラは風呂に入っていたわけではなかったらしい。
バンカの様子を不審に思い、タイミングを見計らって玄関に来ていたのだ。
「サクラ、僕は――」
「言わないで」
言って、サクラはバンカに抱きつく。見えなかったが、きっと彼女は泣いているのだろうと思った。
今、何を言ってもそれは別れの言葉にしかならない。だからサクラは何も聞きたがらなかった。ただバンカに体を預けて、この時間が永遠に続けば良いのにと願うのだ。
だけどそんなことは、ありえない。
バンカはサクラの身体をゆっくりと離し、涙に濡れた瞳を見つめた。
「僕は、――君を愛してる」
残酷に唇を重ねた。この時間に区切りをつけるように。それは明確に別れを告げるように。
やがて唇を離した時、お互いがこの時間の終わりを悟った。
バンカには行かなければならない場所があって、それを止めることはできないのだとサクラはわかっている。だからそれ以上、彼女は何も言わなかった。
「――私も、愛してる」
そう言ってサクラが取り出したのは、黒のロングコートだった。確かに外はまだまだ寒い季節だ。ロングコートがあって困るということはない。
バンカは素直に袖を通した。その最中、内ポケットに見慣れない刺繍を見つける。
「これは」
「私も、これでも巫術師だったんだよ?」
サクラが笑う。現役時代、彼女が最も得意としたのは糸の巫術だった。
それを利用して編まれた防御術式。気休めのつもりだろうが、バンカにはその優しさがありがたかった。
「ありがとう」
礼を言って、サクラの涙を親指で拭う。自分が死ねないことを再確認して、より決意を固めた。
「大丈夫だよ。僕は、英雄だから」
「うん、わかってる」
伝えると、靴を履いた。靴べらを使って、しっかりと踵を詰める。襟を正し、自分が万全であることを確認した。
「それじゃ、行ってくるよ」
顔だけ振り返った。不安がちに俯くサクラを安心させられる方法は見当もつかない。
ならば、約束をすることにした。
「――ハマサジが大きくなったら、もう一度、家族で遊園地に行こう」
「――――」
「約束だよ。僕は、帰ってくる」
彼女にとってみれば、交わしたくない約束かもしれない。死地に向かうパートナーとの約束は果たされない可能性も高いからだ。
だけどバンカの生存を願い、縋り付くことができるものはひとつでも多い方が良い。約束を交わしたからきっと帰ってきてくれるのだと思っていてくれた方が、バンカは戦える。
「約束、だからね……?」
そんな意図が伝わったのかはわからない。もしかすればとても残酷なことをしたのかもしれない。
だけどサクラは憤ることも、悲しむこともしなかった。彼女はただバンカが無事帰ってくることだけを願っている。改めて、良い嫁と出会えたものだと感じた。
「うん、約束だ」
そう言ってバンカは家を出た。
向かうは異界。この世ならざるものと戦うために、彼らのテリトリーへと踏み入る。
生きて帰れる保証はない。本来異界とは、たった二人で向かうような場所ではない。
ゆえにバンカの視線は再び、どこにもぶつけられない怒りの灯を灯す。




