2.愛国者と妖怪に育てられた少女
巫術師にしか感じ取れない境界を越え、そこに踏み入れた瞬間にサカキは思った。
どうしてそれが今まで発見されなかったのかと疑問に思うほどに広まる、悪臭のような妖気。眼前に建つこじんまりとした屋敷にはただならぬ気配があった。
ここはとある山奥。車でも来ることのできない立地から心霊スポットとしても有名にならなかった木造の家屋だ。
だが入る前からサカキにはわかった。ここでこれから、自分の人生において最も死に近い戦いが起こるだろうと。
「さ、サカキさん……これって」
「静かにしていろ。気を抜くと死ぬぞ」
ここに派遣されたのはサカキとアスターの二人だった。ただのボロ屋掃除と聞かされて二人で来たのが間違い。ここは数十人規模で奇襲するようなところだ。
案の定まだ正式に巫術師として登録されて二年程度のアスターはすっかり萎縮してしまった。
「て、撤退しませんか……? 俺たちだけじゃどう考えても……」
「ダメだ」
サカキは気配を感じ取った。それは殺気だ。驚きながらも冷静にいたから感じ取れた。
「俺たちはもう、気付かれてる」
背後のアスターを蹴飛ばした。
次の瞬間、直前まで彼がいた場所を木の幹ほどの太さがある巨大な蛇が通過していく。
「ひぅっ……!?」
目を見開くアスターは、尻餅をつきながら蛇を目で追った。それは家の中から障子を突き破って出てきている。この小さな家の中に、どんな化け物がいるのだと戦慄した。
「アスター、立て。やるしかないぞ」
サカキはあくまで冷静なまま、家を見ていた。蛇ではなく、家を。
それはまだ、家の中に何かの気配があることを意味していて――。
「憑依ぅぅぅ!!」
アスターは無我夢中で手のひらを合わせ、対話した精霊を呼び寄せる。彼が使うのは風の精霊だった。どこでも対話でき、どこでも戦える良い巫術だとサカキは思う。
思いながら、サカキも手のひらを前へ出した。そして何もない空間を掴む。それによって、対話した精霊の心の奥までを掴むように。
「――支配」
サカキがこの場で支配したのは『腐敗』の精霊だった。
精霊自体は木造家屋の腐った柱を媒介して呼び出し、対話を済ませた。そして唱える巫術は有機物に対して絶対の攻撃力を誇る。
「アスター、『風穴』は使えるか?」
「つっ、使えます! 風の巫術、『風穴』!」
アスターは指示通り巫術を唱える。その術自体に攻撃性はないが、他者の巫術をサポートする効果があった。
それは、他人の発動した術を同じ空気に触れるあらゆる場所へ届けるという強力な巫術。つまりこれでサカキの唱える全ての巫術が遠隔攻撃になる。
「腐の巫術、『廃濁』」
サカキの両手の中に白い、球状の塊が生まれた。それに触れたあらゆる生命は、触れた場所を起点にして全身が腐敗するという一撃必殺の巫術。
唯一の弱点は球への接触が必要なことだが、そこにアスターのサポートがかかる。
風の巫術との連携。一撃必殺の間合いは無限に広がる。
「喰らえ、この蛇野郎が!」
散々萎縮していたアスターだったが、一撃お見舞いできると分かった途端に意気を取り戻したらしい。『風穴』でサカキの術を拾い、蛇の顔面へと叩きつける。
それだけで蛇は叫び声をあげながら腐敗し始めた。額を起点に尾を目掛けて急速に腐敗する。
「やったぜ!!」
してやったり顔のアスター。だが緊張を崩さないサカキの姿を見て、怪訝そうにこちらへ寄ってくる。
そんなアスターを片手で制し、腰のポーチから筒を取り出した。それは簡単に言えば発煙筒で、弱い毒も入っている。これを一本使うだけで煙の精霊と毒の精霊を呼び出せる優れ物だ。
サカキが特注の武装を片手に腐り落ちていく蛇を見つめていると、突き破ってきた障子を目前にして尾が千切れた。つまりそこから先は腐敗しないわけだが。
「なんで、尾を千切ったんだ?」
「考えるまでもない。トカゲと同じだ」
トカゲは自らに危機が迫ると尻尾を千切り、逃走を図る習性がある。それと同じだということは。
「でも、それって――」
「……今戦った蛇は、中のそいつにとって尻尾でしかないってことだな」
言うと同時に屋敷が吹き飛んだ。それは中にいた本体がその力を振るったからだった。
ボロ屋だった家屋は跡形もなくなり、そこには異形の化け物が佇んでいる。
頭は猿のもの。身体は狸のもので、手足は虎のもの。千切れた尻尾は蛇だった。
この特徴ならば間違いない。伝承に登場する妖怪、鵺だ。
体格は三メートルを超えており、吹き飛ぶ前の家屋に収まるギリギリのサイズだった。
「あ、あんなの……二人で倒せだなんて……」
アスターは完全に怖気付いてしまったらしい。もはや座り込んでしまった。
だがまだ、最後まで勝負は決まらない。サカキも巫術界で一番というわけではないが、優秀な巫術師だ。
「……来い、化け物が」
決め手はやはり『廃濁』になるだろう。怖気付いたアスターには頼れない。命中させるためには、鵺の巨体を止める必要がある。
そのために発煙筒を放った。そこから発生した煙と毒の精霊たちを従え、サカキにしかできない巫術の同時発動を行う。
これは深い対話と、サカキ自身が精霊同士を繋ぐ橋渡し役として優れていることでようやく可能になる技術だ。
「混の巫術、『毒霧』」
鵺の周りを全力で移動しながらその名の通り毒霧を散布する。前に垂らした両手を起点に、恐るべきスピードで周囲に広がった。
これは選択した対象にのみ効果を発揮する神経毒であり、対象者が深く吸い込めば死に至る危険性もある。
鵺もその危険性がわかったのだろう。まだ汚染されてないうちに大きく息を吸い込むと、地面に向けて吐き出した。
その体躯から放出される息はそれだけで暴風となる。それも地面に当たり、四方へ散るように広がった。
散布した毒霧は簡単に吹き飛び、綺麗な空気と入れ替わる。
だがその隙に、サカキは鵺の背後をとっていた。
「腐の巫術、『錆ノ音』」
神経毒で動きを止める作戦は失敗した。ならば別の巫術でその巨体を縛る。
『錆ノ音』は金属が腐食し、その動きが悪くなったり脆くなったりする様を生物に押し付ける巫術。さらに説明すると、関節を疑似的に錆びさせる力がある。
これならば術式発動の起点となる指を弾く音を聞かせるだけで鵺の関節を狙い撃ちできるはずだ。
だが。
「ぐ、あ……ッ!?」
指を鳴らすよりも早く、途中で千切れていたはずの短い尻尾が振り回され、サカキの右手を弾いていた。
おそらく今ので右手首を損傷し、指の骨はほとんどが折れた。利き手はもう、この戦いでは使い物にならない。
「尻尾も治り始めてやがるな……」
すでに鵺の尻尾は切断した時よりも長い。もう器用に動かせるほどに回復しているらしかった。さすがは鵺といったところだと感心するしかない。
そこでようやく鵺はこちらへ振り返る。そもそもサカキを前にしてずっと背中を晒している余裕ぶりが解せなかった。
だがその理由が鵺が振り返ったことでわかった。
「アスター、お前……」
鵺の口には生気を失ったアスターの身体が咥えられていた。鵺の顔に多少の傷が見えることから風の巫術で抗いはしたのだろう。
だが力及ばず、無情にも鵺の牙に噛み砕かれた。その死体をサカキに見せつけてから飲み込むために、わざわざ食わずにいたのだ。
「貴様……」
これ見よがしに鵺はアスターを飲み込む。それはサカキの戦意を喪失させるためだけの戯れだった。
それだけのために、アスターという今後優秀な風の巫術師になったであろう青年の未来は砕かれる。
許せなかった。
日本という国は世界的に見ても弱い立場にある。それは巫術師の傍らで外交官に付き添い、世界の異能に触れたからこそわかることだった。
日本は核兵器を持てない。軍隊を持てない。世界に対する抑止力を持てない。そして異能の業界においても遅れをとっているのだと知らしめられた。
はっきり言って、諸外国からは先進国として舐められていることを知った。だからこそ後進の育成が急務であるのだと理解していた。
それなのに若い命がまたひとつ、奪われてしまった。
「俺の、せいでもあるか」
サカキは肩を落とした。
無理にでも撤退すべきだったのかもしれない。もしかすればアスターだけでも逃すことはできたかも、なんてことは考えても無駄だとわかっている。サカキの未熟さもまた、アスターの命を奪った一因だと受け止めた。
だが、だったらせめて自分だけでも生き残らねばならない。
「貴様のやり方は失敗だった。俺の戦意を奪おうとしたんだろうが、それは無駄だ」
むしろ生きようとする気持ちが強まった。絶対にこの化け物を殺してやると、頭が冴え始めていた。
そうして観察したことで気付く。鵺があまり大きく動いていないことに。
虎の四肢があるのだ。もっと動き回り、その爪で攻撃した方が良いに決まっている。しかしほとんど動いていないのは何故か。
――足元に、何かがある。
「おそらくはそれが、弱点なはずだ」
『毒霧』も『錆ノ音』も効かない。その巨体を止めることは叶わず、しかし尻尾の攻撃でこれほどの被害を受けるならば、一撃でも貰えば死ぬ危険性がある。
これでどうやって立ち回れと言うのか。嘆きたいが、駄々をこねても無駄。ならば機を待つ以外に方法はないと思われた。
そして鵺が攻撃のために前足を振るったその隙間から、足元が少しだけ見えた。
「――――」
そこに隠されていたものがあまりにも予想外だったために避けるのが遅れた。わずかに肩口を爪に引っ掛けてしまい、それだけでも深い傷になる。
だがその痛みも忘れるほどの衝撃があった。
「――子ども、だと?」
鵺の足元にいたのは十歳にも満たない、人間の少女だった。
ありえない。霊と見間違えたかと思ったが、自分の目を疑っても仕方なかった。
鵺が人間の少女を守っている。いや、違う。人間の少女が鵺を使役しているのだ。
「は」
つまり少女の意識を奪えば、鵺を操作することはできなくなる。無論賭けでしかない。鵺が少女を守る意思のある妖怪であったなら踏み潰されるだろう。
だが、何もしないよりはマシだ。
「ふっ――」
サカキは伏せていた姿勢からひと息で踏み込んだ。その狙いに気付いたのだろう。鵺も全力で叩き潰そうと前足を振り下ろしていた。
『毒霧』も『錆ノ音』も通じなかった。ならその動きを、どうやって封じるのか。
その答えは、足元の少女が示している。
「支配!!」
精霊も妖怪も、それが人間に味方するかしないかという区別でしかなく、実質は同じものだ。ならばたとえ対話できなくとも、パスを繋げようとすることでその一瞬だけならば動きを止められるはずだった。
もちろん対話は失敗する。少女の操作権は奪えない。だが鵺の意識下に一瞬割り込んだことで、動きにラグが生じていた。
慌てて振り下ろす足を加速するが、もう遅い。
「毒の巫術、『睡線』」
指を銃のような形にして少女に突きつける。その指先から射出されるのは、小さな毒針だった。
毒針の効果は簡単だ。刺さった瞬間に対象を眠らせるという至極わかりやすいもの。
それによって、サカキは少女の意識を奪うことに成功する。
「――王手」
器となっていた少女が眠りについたことで鵺の身体は瞬間的に霧散した。辺り一面の妖気もなくなり、木々の間からは暖かな陽が差し込む。
それが勝利であるとは言い難い。しかし、サカキは生き残ることができた。
「この子どもは、何者だ?」
サカキは眠る少女のそばに歩み寄ると、屈んでよく観察した。
歳の割に大人っぽく整った顔立ちに長い髪。右頬には一緒に暮らしていた妖怪によるものか、火傷の痕がある。サイズの合わないボロボロの和服を着ており、生活の大変さを想像させた。
だが何よりまとっている妖気が異常だった。巫術師だからわかる。精霊たちが、彼女の存在をとてつもなく嫌っているのだと。
この少女は危険だ。
妖怪に魅入られ、彼らを操作する『巫術のような術』を扱うことができるのだ。
だけどこうも考えられた。
「この力が手に入れば、大きな戦力になるだろう――」
その顔が歪む。
国力の低下。後進の育成不足。それらを補うための方法は、より大きな力を手にすることにある。
そしてこの少女には、それだけの可能性を感じた。
先程の鵺。あの妖怪でさえ、真っ当に倒すのであれば数十人は巫術師が必要になる怪物だ。
この少女は、鍛えればバンカを超える戦力になるだろう。
「バンカ。お前が自分の娘を巫術師にしないことは知っている」
愚かな選択だ。娘のために国を捨てるなど、非国民とも言える。ならば彼に代わって、サカキが日本に力を用意しよう。
「貴様は妖怪と触れ合い、妖怪に育てられた」
少女を見下ろし、その生い立ちを想像する。それは近代日本ではあり得ない壮絶な生い立ちだ。
きっとサカキの想像以上に過酷なものだったに違いない。
「――貴様の名は、アザミだ」
そうしてサカキは少女の運命を決定付ける。バンカの思想と対極に、国を憂いた巫術師は歪み始める。




