12.終幕と挽歌
どうやら近くで大きな鳥が羽ばたいたらしい。空に向かって全力で身体を持ち上げる翼の音は、気絶していたユリグルマを起こすのに充分だった。
ゆっくりとまぶたを開き、少しずつそれまでの記憶を思い起こす。
そして、ハッとなった。
「サカキは――!?」
周囲を見回す。ここは昼間の山中。どうやらいつの間に異界からは脱出し、その入り口付近に飛ばされていたようだった。
木々の隙間からは日差しが穏やかに差し込んでいて、平穏が取り戻されたのかと思う。そばにはボタン、エリカも寝かされており、ユリグルマも含めて全員が木にもたれるようになっていたことから、誰かが自分たちを助けてくれたのだと考えた。
「ったく、一体誰が。それに……」
周囲にサカキとバンカの姿はどこにもなかった。
サカキはおそらく自分たちよりも先に目覚め、逃げ出したのだろう。外に仲間が控えているとも言っていた。彼らに助けさせた可能性もある。
そしてバンカは――。
「ったく、そうか。あのバカがサクラの元に刺客を送ってんだったか……」
サカキはバンカを空亡と戦わせないためだけに、敵前逃亡させるためだけに彼の妻の元へ刺客を放っていた。だからバンカはおそらく、空亡を倒してすぐにそちらへ向かったのだ。
この平穏。異界の消失と同時にしがらみから解放されたような感覚がある。だからきっと、バンカは最大の敵を退けてくれたのだろう。
「ほんっと、お前はつくづく俺の手に届かねえ天才だよ。ったく」
ユリグルマもサカキを打倒し、自身の限界を超えたつもりだった。新たなる術を授かり、バンカへと一歩近づいた気でいた。
しかしどうやらバンカとの距離はそれ以上に離れてしまったらしい。
ユリグルマが気絶しているうちに、彼は手の届かないような英雄になってしまった。
「さて、俺はそこで寝てる連中を支部に送り届けねえとな……っと?」
まだ起きる様子のないエリカとボタンに目を向けた直後、人の気配を感じた。二人がもたれかかって眠る木のさらに奥からだった。
念のために火の精霊と対話し、戦える準備は済ませておく。そうして気配の出方を伺った。
しかしなんと言うことはない。
木と木の間を覆う茂みから現れたのは、くたびれたスーツの老人だった。
後ろに縛った長い白髪と同じくらい長い髭が特徴的で、穏やかそうな印象の垂れ目をしていた。眠れていないのか目の下にうっすらとある隈が気にかかったが、その違和感は老人の優しそうな雰囲気にかき消される。
「ああ、目覚めたんだね」
しゃがれた声で老人は言った。
本当に良かったと、心から安堵するように。
「え、と。助けてくれたんですかね」
「ああ。倒れていた君たちを助けたのは、確かに僕だね」
「それは、ありがとうございました」
ユリグルマは頭を下げた。
満身創痍だった自分たちの処置をしたのもおそらくはこの老人なのだろう。
何者かはわからない。異界があったこの場所に足を運んでいる時点で只者ではないのだろうが、余計な詮索は避けた。
ユリグルマの快復を心の底から喜ぶような老人の笑顔を見ると、信用せざるを得なかったのだ。
「ほとんどの怪我は治療したつもりだけど、まだ痛みはあるかい?」
言われて、ユリグルマは軽く身体を動かして見せた。ジャンプしたり腕を動かしたりして自分の身体が快復していることを示す。
「この通りです。助かりました」
「そうかい、それは良かった」
老人はまるで自分の家族の無事を喜ぶような表情で何度も頷いた。彼がなぜ、これだけ他人の命に固執するのかはわからなかったが、過去に誰かを守れなかったトラウマでもあるのかもしれないと思った。
「そうやって身体を動かせるのも若いうちだけだからね。歳をとると一気にガタがくる」
「ははは、俺ももう三十ですよ。ったく、そこで寝てる若者たちみたいにはいかないです」
「充分に若いじゃないか、充分に」
老人は遠い目をしてそう答えた。過去の後悔を振り返るように。しかしどこかその、穏やかでありながら寂しげな表情には見覚えがあって。
「――!?」
そうしてぼうっと老人の表情に意識が移ってしまっていたせいで反応が遅れる。
現世に漏れ出ていた百鬼夜行の生き残りだ。それが草むらをかき分け、ユリグルマたちに襲いかかってくる。
敵は一体。なんということもない悪霊だ。だがそんな最弱クラスの妖怪でも、眠っている無防備な巫術師くらいは殺せる。
だから悪霊が最初に狙ったのは、エリカとボタンの二人だった。
「――まずい」
老人にも悪霊が見えたのだろう。反応はぼうっとしていたユリグルマより早く、既にエリカとボタンを狙った攻撃を遮るような位置に割り込んでいた。
「爺さん! 避けろ!」
ユリグルマは必死で叫びながら取り出したライターを点ける。そして憑依しようとしたその時。
「大丈夫だよ」
老人は、ゆっくりと腰を落として大地に五指を乗せた。この世界を撫でるように優しく地面に触れる。そこにはきっと、人々を守るための使命感があった。
そして、ユリグルマは絶句する。
「――憑依」
そう唱え、対話する老人の格好は――。
「時の巫術、『死期折々《しきおりおり》』」
老人の術式が発動し、悪霊は急速に歳をとる。そうして老いに老いが重なり、加速度的にその命の灯火をすり減らすと、やがて消えた。
大抵のものに存在する、妖怪にだって存在する『死』だ。老人の術式はそこへ対象をショートカットさせる。不老の存在でなくては対処ができない。
それほどの高度な術式を容易く唱える老人の姿は――。
「――バンカ、なのか」
――そんなわけがないのに、異界で別れた親友の姿と重なった。
※※※
サカキは仲間が運転するミニバンの後部座席から窓の外を眺めていた。昼間の峠道はそれまでの緊張感を吹き飛ばすほどに穏やかで、広がる大自然が焦りを忘れさせた。
考えなくてはならないことはたくさんある。
これからのこと。妖怪の力を借り、人に危害を加えようとした巫術師を機関は許さない。彼らから逃げながら、この世界を変える力を手に入れる必要があった。
「――――」
だがこれからのことを考えようとするが、どうしても、数刻前に目覚めた時の出来事が頭から離れない。サカキは顔の左側を覆った。勝手に脳が始める回想から目を逸らそうとして。
仲間たちと合流する前、サカキは何者かに肩を叩かれて強制的に目覚めさせられた。
その人物は自分が倒れていたところを木にもたれさせてくれたのだろう。少なくとも敵ではないと思った。
近くの木には同じようにユリグルマやボタン、エリカがもたれかかって眠っている。彼らもどうやら生き残れたらしかった。
「目が覚めたかい?」
声をかけてきたのは老人だった。くたびれたスーツ、長い白髪と髭。一見すれば、山の奥深くという場所もあって仙人のようにも見えるが、そうではない。
仙人はスーツなど着ないであろう。まして、そんな存在が現代日本にいるとも思わなかった。
「ここは」
「異界ではないよ」
「それは、見ればわかる」
上体を持ち上げ、木に手をつきながら立ち上がろうとするが、まだダメージが残っていたらしい。フラついた身体を老人が支えてくれる。
「それなら異界はどうした」
老人の支えを借りながら立ち上がると、サカキは問い詰めた。知る必要があったのだ。サカキの求める力が失われたのかどうかを。
バンカは果たして、最強の妖怪に勝ったのか。
「空亡は、どうなった」
だが、その時。
老人の表情が豹変するのを、サカキは見た。
「――――」
眉間には皺が寄り、憎悪の宿る瞳はこの世ではない方へ向けられ、食い縛られた歯はどこにもぶつけられない怒りを表していた。
その妖怪の名を口にしたからだ。
だがこの老人は、空亡と何の因縁があるというのか。
「空亡は、この世界から消えたよ」
「――な」
老人は英雄の戦いの結末を語る。サカキの求める力が失われてしまったのだと告げる。
それは酷くサカキの心にのしかかったが、同時に少しだけ解放されたような不思議な感覚があった。もしかすればサカキは、自分が生まれた国に尽くそうとすることに疲れていたのかもしれなかった。
しかし、どういうことかすぐに老人は空亡の死を否定する。
「――だけどね、僕は空亡に勝てなかった」
「――は?」
「僕は、勝てなかったんだよ……」
老人は肩を落とし、ボロボロと泣き始める。その情緒不安定と発言の意味不明さに困惑するサカキだったが、構わず老人は語り続けた。
「どうすればアレに勝てるのかと何度も試行錯誤した。そうしている間に、昔のことなんてほとんど忘れてしまったよ。僕は今が何年の何月なのか、どこで生まれどこに住んでいるのかすら覚えていない」
「――待て」
「そんな僕が覚えていることはひとつ。僕の娘ハマサジが、僕を凌ぐ才覚の持ち主だということだけだ」
「ハマサジが、娘だと? 貴様は、いやお前は……まさか」
サカキは改めて老人の顔を見る。言われてみれば、確かにバンカの面影があった。そんなわけがないから、その可能性が考えられなかっただけだ。
「――まさか、バンカなのか」
その名に、老人は乾いた笑いを浮かべて肯定するように嘆息した。
「英雄は死んだよ。僕は時の巫術で同じ時間を繰り返し、何度も空亡に挑んだ。だけど寿命や記憶、あらゆるものを犠牲にしてようやく勝ち取れたのは『猶予』だった」
「猶予、だと……?」
「そうだよ。僕にできたのは、空亡の出現時間をズラすことだけだった。異界が未来へと飛ばされたことで、時の巫術『環堆棺』に誓った決意は抜け道を突かれたように果たされた」
老人が言っていることはあまりにも奇想天外だが、巫術に精通するサカキの視点から見ても一応は筋が通っていた。ただ一点、異界を未来に飛ばすという部分以外は。
だがバンカは天才だ。そして英雄だ。膨大な時間があれば、そんなありえない術式を扱えるようになっていてもおかしくはなかった。
「空亡は十年後、再びこの場所に現れる」
「――!?」
「その時、僕は僕が鍛えたハマサジに、それを倒させるんだ」
そんなセリフがバンカから放たれるのを、聞きたくない自分がいた。彼が根本的な部分から変わってしまっていることを知りたくない自分がいたのだ。
老人はもう、サカキのことすら覚えていない。サカキがバンカを裏切り、妻の命を奪うことすらも忘却している。
もう、サクラの命は失われた頃だろう。
老人がこうしてサカキたちが目覚めるのを待っている間に、サカキの送った刺客は彼の妻の命を奪う。
しかし今のバンカは、そのことを責めてもくれないのだ。
サカキの罪は、老人にとっての遠い過去に置き去りにされてしまった。今更謝罪したところで、赦してくれる人はもういない。
「お前は、それで良いのか」
目の前にいるのがバンカの抜け殻であることを知った。英雄は死に、残ったのは死に損ないの老骨。自分の娘を死地に追いやろうとする、抜け殻となったどうしようもない父親。
そんな歪んだ存在を、サカキの知っているバンカなら絶対に許さないだろう。
だから――。
「――支配」
ユリグルマにはできない。他の誰にも、バンカを殺そうなどとはできないだろう。
だがサカキなら、バンカを殺したことを背負って生きていくことができる。その覚悟がある。それは、既に多くの罪に塗れているからだった。
日本を救うために多くの屍を積み重ねる。そんな方法しか取れない最低な男に唯一できる善行があるとしたら、今ここで、この男の命を奪うことだけだ。
サカキの知っているバンカならきっと「殺してくれ」と願うに違いなかった。だからきっと、この男を殺すことこそがバンカにとっての救いになる。
――しかし。
老人はもう、サカキの知るバンカではない。
「やめておいた方が良い」
支配のために伸ばした手。その手首を掴み、無理矢理下げながら老人は反対の手をサカキの首元に翳す。
「君では僕に勝てないよ」
老人を舐めていた。彼はとっくに憑依を終えている。サカキが必殺の術式『廃濁』を命中させるよりもずっと早く、彼はこちらを殺すことができるのだ。
その一瞬で圧倒的な差を理解した。
今の老人は、かつてのバンカとは比にならないレベルの実力を備えている。おそらく、彼が敗北したという空亡以外の大抵の存在が相手にならないだろう。
そして同時に歓喜した。
ここまで強くなっても倒せない力があるのだと。その力が、まだ失われていないのだと。
気付けば、悪辣に破顔する自分がいた。
「――助けてくれたことには礼を言おう」
「――――」
「だが、空亡は倒させない」
サカキは踵を返した。
そして歩き出す。仲間たちの潜伏する場所へと向けて。
「そこに寝ている男。ユリグルマに、お前自身のことを聞くと良い。お前の、友人だ」
「――!!」
「そいつが、大抵のことは教えてくれるだろう」
「そうか、感謝するよ」
サカキは立ち止まった。
そして顔だけで振り返る。
「感謝するのは俺の方だよ、バンカ」
かつて決別した親友に別れを告げる。
そこにさよならなんてわかりやすい言葉はいらない。ただひと言、これだけを伝えた。
「空亡は、俺のものだ」
――そうしてミニバンから景色を眺めるところへと時間は進む。
振り返りを済ませたところで、そろそろこれからのことを考えなくてはいけないと思った。
日本巫術機関は人に害なす巫術師を許さない。故にこれからもサカキたちは狙われ続けるだろう。
隠れ蓑が必要だ。そして、力を得るための強大な組織が。来たる十年後に向け、様々な準備が必要だった。
その時、サカキの手に別の手が触れた。顔の左側を覆っていたところに、隣に座る少女の手が重なったのだ。
「顔、痛い?」
「――――」
サカキの顔の左半分。そこには、ユリグルマに殴られた影響で爛れた皮膚があった。それは奇しくも、隣の少女――アザミの右頬の古傷に似ていた。
「いや、もう痛みは――」
サカキは痛くないと言おうとして、とどまった。本当に痛くないのだろうかと自問したのだ。
頬の傷は、痛くない。だが、心は?
悪辣に歪みながらも、心の奥底ではどうだ。
『親友の幸せを奪ってまで、幸せになろうとは思わないよ』
『何かのためにその身を捧げる。そういう生き方を、俺もしたかったんです』
背中にかかる温かい言葉たち。サカキのためを想った、忘れられないそれらの言葉が、サカキの決意を揺るがす。
自分のことを正そうとしてくれたユリグルマ。
自分のことをかっこいいと言ってくれたアスター。
彼らに誇れる生き方はできない。サカキはサカキのやり方でしか、自分の道を歩けない。
だから今は、今だけは。
「痛いんだね」
「――ああ、痛いな」
今だけは、隣の少女の優しさに甘える。
爛れた頬に触れる小さな温かさが、間違った道を選んだ心の痛みを拭ってくれる気がした。
※※※
ユリグルマが案内した老人の自宅には、家がなかった。そこで何が起こったのか辺り一帯の住宅は崩落し、警察と救急がひっきりなしに往来している。
現場にはキープアウトのテープが貼られており、一般市民は入れないようにされていた。しかし巫術師は、妖怪が関与する事件において一部捜査権限が認められている。
ユリグルマの巫術師証を提示し、老人は補佐官という体でテープをくぐると、被害の凄惨さはより色濃く視界に映った。
何かが爆発したかのように、住宅地は球状に倒壊が広がっている。そしてその爆心地には老人の家があった。
周囲の被害者たちの泣き叫ぶ声。安心する声。怒り狂う声を聴きながら、警察や救急隊員を押し退けて、崩壊した自分の家へ土足で踏み入る。
そこには、もはや原型を留めていない死体を抱き抱えて泣き叫ぶ一人の少女の姿があった。
「――うっ」
その光景を見ていられないと、ユリグルマは目を逸らす。死体は見慣れているはずなのに口元に手を当てて吐き気を抑えたのは、それがよく知る人物だったからだろう。そして目の前の光景が、あまりにも残酷だったからだろう。
老人は彼女の死体に対しても、彼女の死に対しても何の感慨も抱いた様子がない。その事実は亡くなった彼女にとっても、ユリグルマのよく知るバンカにとっても、泣き叫ぶ少女にとっても、残酷にすぎた。
老人は少女の元に屈むと、ゆっくりとその肩に触れる。
「君が、ハマサジだね」
「お母さん、お母さん……」
少女が母と呼ぶものには下半身も、両腕もない。顔も半分以上が砕けており、血に塗れている。内臓と血液は周囲に飛び散っており、少女自身の身体をも紅く染めていた。
しかしこれだけの甚大な被害の中で、少女自身には一切の傷がない。きっとそうなってまでも、自分の娘を守ったのだろう。彼女は母親としての責務を果たしたのだ。
だけど老人は、彼女が命を捨てて守り抜いた想いを裏切る。過去の自分がそれまで貫いてきた想いを切り捨てる。
「僕はクチバ、君の……遠縁の者だ」
自分がバンカだと名乗ったところで少女は信じないだろう。今の自分がそれまでのバンカとは何もかも違うことを知っているから、そうすることは悪手であると冷静に判断した。
「お父さんは、どうしてお母さんを助けてくれなかったの」
「――――」
しかし少女は老人の立場など気に留めず、自分の父親のことを尋ねた。
「お父さんは、みんなの命を守ることが仕事だって言ってた。じゃあなんで、お母さんのことは守ってくれなかったの!!」
「――――」
それは老人にとって残酷な質問だった。だが今の老人はその質問にも何の感慨も抱かないのだろう。目を細めるばかりで、声を荒げることも言葉を躊躇うこともしない。そのことが少女にとって最も無慈悲であった。
自分がなぜ自分の妻を助けなかったのか。その理由はひとつしかない。
老人が、――バンカがこんな結末に辿り着いてしまった理由など、たったひとつしかなかった。
「弱かったからだよ」
「――ぇ」
もっと、強ければ良かった。
何もかもを倒すことができる強さがあれば良かった。
人々が自分のことをそう称したような、英雄であれたら良かった。
だけどバンカには、すべてを救えるだけの強さがなかった。
「バンカは、弱かった。だから何も守れなかったんだ」
「お父さんは、弱くなんて――!!」
「弱いから、君のお母さんは亡くなったんだろう?」
「――――」
「ったく、それ以上は……!!」
突っかかろうとする少女を遮った言葉の刃は鋭すぎた。少女が傷つくことを察したユリグルマが老人を止めようとする。
だが、無言で睨まれただけでユリグルマは何も言えなくなってしまった。
老人は向き直ると強く、両手で少女の両肩を掴む。
「君は、そうなっちゃいけない」
「――――」
「君は、何もかもを守ることができる英雄にならなくちゃいけない」
少女の涙はせき止められていた。それは、並外れて歪んだ老人の瞳に畏怖したからだ。その目の黒すぎる濁りに恐怖したからだ。
何があったらこんな目をすることができるのかと、子どもながらに思ったのだ。
「君はお父さんと同じ仕事に就く。そしてもう二度とお母さんのような死者を出さないように、誰よりも強くなるんだ」
「――――」
「君は、英雄になるんだ」
そうして老人は自分ができなかったことを幼き少女に託す。自分の力不足を、まだ小さな肩に押し付ける。
それはどこまでも救いようがなく、老人が最後まで英雄にも父親にもなれなかったことを示していた。
老人は不器用だった。不器用にすぎた。
もっと別のやり方があったかもしれない。もう少しマシなやり方があったのかもしれない。そんな中で老人が選んだのはこの結末だった。
一縷の涙も流れはしない。涙など、幾度となく繰り返した異界の中でとうに枯れてしまっていた。
サクラや、戸籍上死亡扱いとなったバンカの葬式も終わり、徐々に老人たちの生活は落ち着きを取り戻し始めていた。
老人はクチバという新しい戸籍を機関のサポートで手に入れ、ハマサジの育成に心血を注いでいる。今まで一度も巫術に触れてこなかった少女をバンカよりも強く育て上げるには、十年では足りないような気すらしていた。
だけど老人は、今度こそ人類を救わなくてはならない。
万花は枯れ果て、朽ちた葉となれど止まることはできない。
夜更けごろ、川沿いの土手を散歩しながら老人はそんなことを考えていた。
「――夜明け、か」
朝日が登るのを見るたび、空亡のことを思い出す。老人は自分自身を戒めるためにこの時間の散歩を日課にしていた。
英雄という呪い。それが、バンカを今の老人へと変えた。もしかすればハマサジも英雄として育て上げる過程で呪いにかかり、自分のように歪んでしまうかもしれない。
だとしても、人類は救われる。
あの黒く、無慈悲で誰も太刀打ちできない炎に打ち勝つことができる。それが老人の選択だった。
そうして自分や娘の幸せと世界とを天秤にかけ、後者を選んだ男は、散歩コースを締め括る霊園に入った。
自分の妻だという人物の墓石を水で洗い、花を新しいものに変えた。線香を供えて合掌しながら、この数日間何度も重ねてきた謝罪をする。
「本当に、すまない……サクラ」
何とも思わない、はずがなかった。
何の感慨も抱かない、はずがなかった。
彼女を殺し、裏切った。その事実は、老人をこの先永久に苦しめる。
たとえ何もかもを忘却してしまったとしても、自分の妻を犠牲にして、その想いを踏み躙って、何も感じないことなどできるはずがなかったのだ。
だから老人はこの場所でずっと、この先もずっと、死ぬまで謝り続ける。
それが唯一自分にできる罪滅ぼしだった。
きっとサクラは許してくれないだろう。老人の選択に微笑むことはないだろう。
苦しかったに違いない。死の間際までバンカの名を呼び、助けを乞うたに違いない。それなのに他でもないバンカが、彼女を踏み躙るのだ。
それでも老人は手を合わせる。
許されない罪を背負っていくために。
川沿いの土手を歩いて帰っていると、どこからともなく唄が聞こえて来た。
童謡の「さくらさくら」だった。
早起きした子どもが、覚えたばかりの唄を練習しているようだった。
さくら さくら
やよいの空は
見わたす限り
かすみか雲か
匂いぞ出ずる
いざや いざや
見にゆかん
不思議なメロディの歌だと思う。どこか別の世界に誘われるような、そんな神秘的な響きを感じる。
本音を言えばそのまま、桜の花びらが舞い散る先へと連れて行って欲しかった。
かすみや雲の先へ、あの空の先へと連れて行ってほしかったのだ。
だけど人々が老人にかけた英雄という呪いが、そのためにバンカが被っていた仮面が、諦める選択を認めてはくれない。
だからその唄は老人にとって、犠牲として散っていった人に向けられた挽歌になる。
サクラに向けて、バンカに向けて、他の沢山の死者に向けて。彼らを悼むために悲しく響く、夜明けの挽歌になるのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
バンカの物語は『バンカ』の死によって、ここで完結となります。この続きは、ハマサジの物語として今後連載していこうと考えています。
本作はその前日譚として、良ければハマサジの物語の連載が始まり次第そちらもお読みいただければと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




