第4話「哀」
梅雨に入り、雨の日が続くようになった。
ひまりはめげずに仮面くんに突撃していた。隣のクラスの人たちには「またか」みたいな目で見られるようになっている。
「仮面くん! ほら、笑顔だよ、笑顔!」
席に座っている仮面くんの顔に手を伸ばし、口元を指でぐりぐりする。仮面くんが無表情のまま、ひまりの指を払った。
「やめろ。そんなことをしても笑うわけないだろ」
ひまりは膨れっ面になった。仮面くんが普通に笑っているところを見たあの日から、たまに隠れて様子を窺うようにしている。そうして分かったのは、仮面くんが笑うのはひまりがいない時だけだという事実だった。
笑えないわけではない。それなのに、ひまりの前では絶対に笑顔を見せてくれないのだ。
きっと他の誰よりも、ひまりが一番仮面くんの笑顔を見たいと思っているのに。なんだか納得のいかない状況である。
「もう、しかたないなあ。じゃあ今日は相合傘して帰ろうね!」
「なんでだよ。話のつながりがなさすぎだろ」
仮面くんはため息をついた。
でも、なんだかんだでひまりの無茶ぶりを、仮面くんはいつも聞いてくれる。付き合いの良い、優しい人である。
ひまりは早く仮面くんの笑顔を真正面から見てみたいと、うずうずするのだった。
ある日の朝。
「どうしたの、ひまりちゃん」
自分の席に突っ伏して沈黙しているひまりに、舞ちゃんが優しく声を掛けてきた。ひまりはゆっくりと顔を上げて、へにゃりと眉を下げる。
「私、思ったんだけど」
「うん」
「もしかしてさ、仮面くんは私のこと嫌いなんじゃないかな……。私がいない時だけ笑うってことは、そういうことだよね……」
考えてみれば、初対面の時からなかなかと失礼な態度で挑んでいたような気がする。仮面くんは別に表情豊かになりたいとか言っていたわけではない。
全て、ひまりの興味本位。迷惑に思われて当然なのだ。
「舞ちゃん、言ってたでしょ? 人を困らせるのは駄目だって。私、たぶん、仮面くんを困らせてる。駄目なこと、してる……」
舞ちゃんがぽんぽんと優しく頭を撫でてくれる。ひまりはぐすんと鼻を鳴らした。
その日から、ひまりは隣の教室へ行かなくなった。
ひまりさえいなければ、仮面くんは普通に笑って過ごす毎日が送れるはずだから。
彼の笑顔を消しているのは、ひまり。邪魔なのは、ひまりだ。
時々、教室移動の時に、仮面くんの姿を見かけることがある。でも、ひまりはすぐに目を逸らすようにした。ひまりが見ていると、仮面くんはきっと笑えなくなってしまうから。
ひまりは、仮面くんには笑っていてほしいと思っているから。
仮面くん断ちをしてから、一週間。
放課後になり、舞ちゃんは彼氏の黒田くんと一緒に帰っていった。ひまりはひとりで廊下を歩く。
靴箱のところで靴を履きかえようとした時、スマホが震えた。
確認してみると、舞ちゃんからのメッセージが届いていた。
「屋上に行けって……?」
屋上で仮面くんが待っている、と書いてある。
なぜ、舞ちゃんがそんなことを伝えてくるのか。
それに、仮面くんが待っているとはどういうことなのだろう。
ひまりはとりあえず屋上へ向かう。階段を駆け上がり、屋上へと続くドアを勢いよく開けた。
屋上のフェンスにもたれ掛かるようにして、仮面くんが立っていた。薄曇りの空の下、湿っぽい風が吹き抜けていく。
「……仮面くん」
呼び掛けると、仮面くんは無表情のまま、ひまりを見た。久しぶりに会うというのに、相変わらずの鉄仮面っぷりだ。
「なんで……」
仮面くんがぽつりと呟いた。
ひまりは首を傾げて、仮面くんの次の言葉を待つ。
「なんで、きみは急に会いに来なくなるんだ」
「え?」
仮面くんの足元に、ぼんやりと暗い影が落ちている。なんとなく近寄りがたくて、ひまりは立ち止まった。
「何の予告もなく。何の前触れもなく。きみは俺の前に突然現れて、俺の毎日を引っ掻き回した。学校だけじゃなくて、家にまで押しかけてきたりして。それなのに、今度は急にぴたりと会いに来なくなった。一体どういうつもりなんだ。俺を何だと思ってるんだ」
「え、え?」
「俺はずっと無表情すぎて恐いって言われてきた。そんな俺を恐れるどころか、全力で振り回してくる女の子なんて初めてだった。はじめは面倒臭いと思ってたけど、気付いたらきみと一緒にいるのが楽しくなってた……」
仮面くんの声が揺れる。
「なあ、なんでだ? なんで、急に……」
ひまりは息を呑んだ。
仮面くんの目から、雫が一粒零れ落ちていた。悔しそうに唇を噛んで、小さく震えている。眼鏡が邪魔だったのか、それをはずして雑に涙を拭う。
そう。それは、仮面くんが初めて見せた「哀」の感情。
「……仮面くん!」
ひまりは仮面くんに駆け寄って、その手を取った。仮面くんはびくりと体を跳ねさせたけれど、すぐに大人しくなり、されるがままになる。
「あのね。私がいると仮面くんは笑ってくれないから。だから、会いに行かない方が良いのかなって、そう思ったの。ごめんね、こんな風に哀しませるつもりはなかったんだよ……」
仮面くんは小さく頷いた。ひまりは続けて言う。
「でも、これだけは教えて? なんで私の前では笑ってくれないの? 他の人の前ではいっぱい笑ってるのに」
「……知ってたのか」
湿った声で、仮面くんが呟く。ひまりはじっと仮面くんの目を見つめた。
仮面くんは鼻をすすった後、眼鏡をかけ直す。
「きみが俺に会いに来る理由は、俺の笑顔を見るためだっただろ? 笑ったところなんて見られたら、もうきみは俺になんか会いに来なくなると思ったから」
ひまりと仮面くんの間に、湿っぽい風が吹き抜けていく。
薄曇りの空の隙間から、眩しい日の光が一筋、まっすぐに降り注いできた。