第3話「楽」
ひまりが仮面くんに英語を教えるようになって、数週間が過ぎた。残念ながら、「怒」以外の表情が現れることはない。
このまま学校でのんびりしていても埒が明かない気がしたので、ひまりは策を講じた。
日曜日に、仮面くんの家で勉強会をすることにしたのだ。
「いや、休みの日は父さんも母さんも姉貴もいるから無理」
仮面くんはそう言って必死に断ってきたけれど、ひまりも負けなかった。激しい言い争いを繰り広げ、舞ちゃんが慌てて仲裁しにくるほどだった。
結果、しぶしぶ仮面くんが折れたのである。
そして、約束の日曜日。学校の前で待ち合わせをして、そこから歩いて仮面くんの家まで案内してもらう。
「良いか、一時間だけだからな! すぐ帰れよ!」
「仮面くんって、こんな時でも無表情を貫くんだね。すごいー!」
ひまりが頬を染めながら絶賛すると、仮面くんは片手で目を覆い、天を仰いだ。
二十分ほど歩き、仮面くんの家に辿り着く。綺麗な白い壁の、比較的新しい家だった。
「いらっしゃい。遠慮せず、ゆっくりしていってね」
玄関のドアを開けると、仮面くんのお母さんが迎えてくれた。仮面くんと顔立ちがよく似ている。というか、お母さんもなかなかの無表情っぷりである。
そのお母さんの後ろから、ちらりと顔を見せたお父さんも無表情。廊下で擦れ違ったお姉さんも、無表情だった。
「仮面くんの家族はみんな無表情なんだね! 仮面くんのその表情は遺伝的なものだったんだ!」
「……良いから、早く勉強を始めよう」
仮面くんの部屋に通されて、ひまりはテンションが上がる。思ったより綺麗に片付いている部屋だ。
「私、男の子の部屋って初めて入った! ね、探検して良い?」
「駄目」
部屋の真ん中にあるガラステーブルの傍へ、問答無用で座らされる。
ひまりは口を尖らせながらも、大人しくしておくことにした。仮面くんはさっさと英語の問題集を取り出して、問題を解き始める。
そうして一時間後。普通にいつもと変わらない勉強時間を過ごしてしまったことに、ひまりは愕然とした。これでは何も変わらない。
「あのさ」
仮面くんがちらりと視線を向け、ひまりに問い掛けてくる。
「どうして急に家で勉強会なんてしようと思ったわけ?」
「それは……」
ひまりは少し伏し目がちになりながら、小さな声で答える。
「仮面くんが無表情なのは、もしかしたら、家族関係に問題があるからなのかなって心配になって……」
仮面くんの無表情の原因がどこにあるのか、知りたかった。家庭で何かトラブルでも抱えていて、それが原因で感情が表に出ないのだとしたら――。笑えというのは酷なことかもしれないと、そう思った。
まあ、結果としては、ただの「遺伝」だったようだけど。
「家庭のトラブルとかなさそうで、本当に安心したよ。これからは遠慮せず、全力で笑わせていくね」
「え、今まで遠慮してた?」
「してたよー。というわけで、くすぐりますー」
えいっと仮面くんに飛びついて、脇をくすぐってみる。が、どんなにくすぐっても反応がない。無表情はもちろん、まさかの無反応とは。
がっかりするひまりを一瞥して、仮面くんが手を伸ばしてきた。
「え、仮面くん? ……ひゃあ!」
仮面くんは無表情のまま、ひまりをくすぐってきた。実は、ひまりはくすぐられるのに弱い。なので、息ができなくなるほど笑い転げる羽目になった。
見事な返り討ちである。
「仮面くんがくすぐりのプロだったとは……うかつだったよ……」
「いや、最後の方は俺なんにもしてないのに、ひとりで笑い転げてたじゃん」
床に寝転がって、仮面くんの顔を観察する。下から見上げると、いつもと少し違う感じがした。
「あ」
仮面くんの目元が、ほんの少し緩んでいる。ひまりはぽかんと口を開けてしまった。
「仮面くん、もしかして、今、楽しいって思ってる?」
「……そうかも」
ひまりはぴょんと跳ね起きて、仮面くんの顔をまじまじと見つめた。けれど、仮面くんはくるりと背を向けてしまう。これでは顔が見えない。
「仮面くん、こっち向いて! 私、仮面くんの微妙な表情の違い、分かるようになってきたかもだから!」
「嫌だよ」
「そこをなんとか!」
ひまりが手を伸ばすと、仮面くんの眼鏡に当たってしまった。カタンと音を立てて、眼鏡が床に転がる。
慌ててその眼鏡を拾って仮面くんに差し出したひまりは、その顔を見てどきりと胸を鳴らした。
意外と綺麗な顔立ちの男の子がそこにいた。無表情でさえなければ、舞ちゃんの彼氏の黒田くんにも負けないかもしれない。
「……返して」
仮面くんはひまりの手から奪うように、眼鏡を取った。眼鏡をかけたら、いつも通りの仮面くんに戻る。ひまりはちょっと残念な気分になった。
重い前髪を切って、眼鏡をはずしたら、もっともっと魅力的になりそうなのに。
表情が豊かになれば、もっともっと素敵になりそうなのに。
「……やっぱり私、仮面くんの笑顔、絶対に引き出してみせるね!」
改めて宣言するひまりに、仮面くんはちらりと目線をくれただけだった。
それからまた数週間。変化のない毎日に悩んでいた頃。
ひまりは、舞ちゃんの彼氏の黒田くんから衝撃的な事実を告げられた。
「亀井? あいつ、最近普通に笑ったりするけど」
「えっ! 嘘!」
ひまりは急いで隣の教室へと走る。ドアのところから半分だけ顔を出して、仮面くんがいることを確認する。
仮面くんはクラスメートと雑談をしているようだった。楽しそうな雰囲気で、話も弾んでいるみたいだ。
「……あっ」
ひまりは小さく叫んで、慌てて口を押さえた。
確かに、仮面くんは笑っていた。普通に、楽しそうに。今までの無表情は一体何だったのかと思うくらいにあっさりと。
呆然としながら踵を返し、自分の教室に戻る。
「私の前じゃ笑ってくれないのに……なんで?」
ぽつりと呟いた言葉は、誰の耳にも届かずに消えていった。